終着ドロップス(後編)
あまり見ないようにしている鏡を、僕は少しだけ長く覗く。そこには見るからに自信のなさそうな人間が立っている。
妖怪、バイキン、幽霊、かいぶつ。そう言われてきた人間が立っている。
怖くなって、僕は洗面所から離れた。
――どうして、僕は「こう」なんだろう。
自分は宇宙人なんじゃないかと本気で思うことがある。地球に住んでるひとたちと、僕だけは何かが違う気がするのだ。必死に人間を真似ているけれど、周囲にはやっぱりバレていて、……だから殴られたんじゃないか。蹴られたんじゃないか。持ちものを隠されたり壊されたりしたんじゃないか。何もしていないのに笑われるんじゃないか。気持ち悪いと言われたんじゃないか。
死ねと言われたんじゃないか。
――母は、僕が三歳の時、お婆ちゃんの家に僕を置いていった。……宇宙人の子供はいらなかったのだ。母も、僕はおかしいと勘付いたのだろう。
父親は誰か分からない、自分は育てていけない。それをひたすら繰り返した母は、僕を一瞥してこう言った。
「かわいくないし、いても邪魔」
今思えばあの言葉は、僕の未来を暗示していた。
同い年の子たちが輝き終わる時間を待って、夜中にこっそり外に出る。お婆ちゃんはいつも、これを黙認してくれる。というよりも、僕のことが面倒くさいのだろう。最近では滅多と会話もしない。
音楽で耳に栓をして、マスクとマフラーで顔を隠して、つんとした空気の中を歩く。空気はいつだって透明だけど、冬の夜は一層透けているような気がした。車が流星みたいに僕の隣をひゅんひゅんと流れていく。今日は少しだけ、通行量が多い気がした。
零時前、コンビニの中。「駄菓子の彼女」は雑誌コーナーにいた。黒と赤で構成された怪しげな表紙の本を、懸命に読んでいる。
「……なに、読んでるんですか」
隣からいきなり話かけたせいか、彼女がびくりと肩を震わせた。ぱたりと本を閉じ、表紙の文字をこちらに向けてみせる。
『ゾンビは愛を知る! ~連鎖するマリッジリング~』
『好かれる者ほど襲われる!? その真相は!?』
『新興宗教Sに密着! 教祖と終末の関連性に迫る』
「……ほんとですかね」
信憑性のなさそうなオカルト雑誌だった。最近、世界中で話題となっている新型ウイルスに便乗したらしい。
彼女はなんとも言えない表情で僕を見ている。僕は首を振った。
「そんなウイルス、うそ、だと思います。少なくとも、ゾンビは……」
「――そですね。なんだか熱心に読んじゃいました」
本を棚に戻し、彼女は足元においてあったカゴをつかんだ。中には数々の駄菓子と、それから
「メロンパン、確保しときました」
チョコチップもクリームも入っていないメロンパンがひとつだけ、入っていた。
会計を済ませて外に出る。今日は一段と冷え込んでいた。僕はマフラーを鼻の位置まであげて、長く伸ばした前髪で顔を隠すようにしてから、彼女の隣に腰掛けた。
この季節に、彼女はコンビニの前でアイスを食べ始める。ただしそれは、エアインチョコとコーンでできたアイスそっくりの駄菓子だった。
「なにか食べますか」
手持無沙汰な僕を見て、彼女。僕は首を振った。
「そんじゃ、手出してください」
断ったにもかかわらず、彼女はドロップスの缶を取り出す。僕は断り切れず、右手を差し出す。
ガランガランと振られる缶。
――ころんと手にのる丸い白。
「は、ハズレ、ですか」
思わず言った。ハッカ味は嫌いではないが、子供たちからは敬遠されている。
「ドロップスにハズレはないですよ」
エアインチョコを食べきった彼女が言う。
「白色のドロップはですね。『真っ白な心になれるでしょう』。……これから好きな色になれますよ、未来はまだ決まってないですよという意味でもあります」
そこまで言って、彼女は少し考えて。
「でも気を付けてください」
「え……」
「真っ白というのは、その分だけ汚れやすくて傷が目立ちます。何色にでもなれるかわりに、何色にもなり得る。それだけ繊細なんでしょう、メロンパンの人」
真面目に。子供に言い聞かせるような口調でもなく馬鹿にしたような様子もなく、彼女はそう言い切った。今度は彼女自身の手のひらに、ドロップを一粒のせる。
――透明。
「……透明の、ドロップの、意味は?」
僕が訊ねると、それを口に含んだ彼女はふっと笑った。
「『透明人間』ですよ」
「え、あ、なるほど」
「……今『どっち』を想像しましたか、メロンパンの人」
「え?」
からころと。口の中でドロップを鳴らしながら、彼女は言う。
「透明のドロップの魔法は二種類なんです。その人によって効果が違う」
「というと……」
「『透明人間になれる』もしくは『透明人間をやめられる』」
彼女が長く息を吐く。普段は目に見えない呼気が、白くなって風に乗る。
「透明人間と聞いて、メロンパンの人はどちらを想像しましたか」
「……透明人間、に、なれる」
「そですか。あたしと逆ですね」
おおん、と音を立てて流れ星のようにバイクが通り過ぎた。そのあとを追うように冷たい風が吹きぬける。彼女もまた、マフラーを鼻まであげた。
「あたしんち」
くぐもった声で、彼女が言う。
「エリート一家なんですよね。兄は国立の医学部に現役合格で、弟はスポーツで全国大会。父は弁護士、母はカリスマ主婦として出版もしてて。でもあたしは特別すごいところがなくて、何をやらせても何を頑張ってもよくて中の上。兄と弟がそんなのだから期待もされてなくて。公立高校を半年でやめちゃったもんで、一家としては恥どころか汚点です」
「…………」
「一緒にご飯食べてても、絶対に話をふられないんですよね。仕事はどうとか、彼氏はいないのとか。『いってらっしゃい』とか『おかえり』とか、最後に言われたのっていつだったかなーってくらいに空気です」
「…………」
「人間って、すんごく雑に分類すると二種類いると思うんです。――透明人間になりたい人と、透明人間をやめたい人。あたしは後者ですよメロンパンの人」
そこまで言って、彼女はガリガリと飴を噛み砕いた。悲しそうにどうでも良さそうに。『透明人間をやめられる』のをあきらめているように。
透明な自分を壊すように。
「ぼ、僕はっ」
少しでも大きな声を出そうとしたら声がひっくり返った。彼女がこちらに目を向ける。目があうのが怖くて、マスクとマフラーははずせなくて、でもなるべく目をそらさないようにして、言う。
「僕には。……あなたの姿が、ちゃんと、見えてます。と、透明なんかじゃ、ないっ……」
僕の声がおかしかったのか、彼女はぽかんとした顔で僕を見た。寒空の下、自分の頬がみるみる赤くなっていくのが分かる。変なことを言った。気持ち悪いと思われたかもしれない。
けれど彼女は、へらりと笑った。
「……ありがとございます」
ますます顔が熱くなって、それを冷やすために僕は白色のドロップを口に放り込んだ。
――その瞬間だけ、僕は自分の「立場」を忘れてしまっていた。
一瞬だけマスクを外した、それを彼女は確かに見ていた。
僕は透明人間になりたい人間で、透明人間ではない。彼女に顔を見られた。何を言われるかと構える僕と、無表情で僕のマスクを見つめる彼女。
「……なんでいつも顔を隠してるんですか。透明になりたいから、ですか?」
ぎょっとして、喉に飴がつまりかけた。むせ返る僕を、彼女は真剣に見つめている。
風邪予防ですか。そう言っていたはずなのに、僕のマスクの意味に彼女はいつしか気づいていた。
「……ぼ、僕の顔、ニキビとかいっぱいで、どれだけ手入れしてもガサガサで、太ってるし、それで」
「はい」
「あの、き、気持ち悪い、から……」
先ほどとはうってかわり、声がしぼんだ。
彼女は「んー」と声を出した。目の前の道路を、ひゅおん、とバイクが通り過ぎる。
「メロンパンの人の心の中にある鏡と、あたしの中にある鏡では見え方が違うんですよ。……仮に同じ見え方だとしても、多分関係ありません」
彼女はそう呟いて、ガラガラとドロップスの缶を振った。僕はその言葉の意味が理解できなくて、聞き返そうとして、けれど何も言えなかった。ころん。彼女が手の平にドロップをのせる。黄色。
「『お金に困らないでしょう』。なるほど」
一人で納得し、彼女は飴を食べる。そしてまた「んー」と唸る。
「味だけで言うなら紫色が一番好きなんですが。なかなか出ませんね」
一瞬とはいえ僕の顔を見た、そんな彼女はさっさと話題を変えた。僕の顔に関するコメントはなくて、それが怖くて。だから僕も、新しい話題に飛びのった。
「むっ紫のドロップの、意味は?」
「『小さな幸せが訪れるでしょう』。ちなみにメロンパンの人、好きなドロップスの味は?」
「お、オレンジ……」
「『明るい人になれるでしょう』」
彼女はカラコロと口の中で飴を鳴らしながら、缶をポケットにしまった。唯一話に出なかった色が気になって、僕は言う。
「赤色の意味は……?」
カロン、と飴が鳴る。彼女がこちらを見る。
「赤色は、この缶の中にはもう残ってないかもしれないですね。あたしが一番欲しい魔法がかかってますから」
「それって、」
「今度。……赤色が出た時に教えます」
彼女は愉快そうな、けれどどこか寂しそうな顔で、笑った。
僕がマスクとマフラーと音楽で周囲を遮断している間、世界はどんどんと終わりに近づいて行った。
ドロップスの缶がその中身を減らすのに比例して、人類も減っていった。
それは決して「よくある話」ではなかった。……いや。たとえば映画なんかではよくある話なのだろう。けれども僕たちは、それが実際に起こるだなんて考えてもみなかった。だからこそ終末世界を題材にした映画を、ポップコーンを食べてドリンクを飲みながら、安心して見ていられたのだろう。
――助けを求めて。人々は逃げて、嘆いて、自棄になった。
『最愛の人を求めて……。漂うマリッジリング』
終わる世界で、人々の求めた救いは。
誰も死なないこと。
「簡単に殺せるゾンビ」に襲われること。
「この世界」で「死ねる」こと。
――僕たちはきっと、最低なことを考えていた。
「お仕事、なくなっちゃいました」
ガラガラと。ドロップスの音を引き連れながら歩いてきた彼女は、開口一番そう言った。むしろ今まで仕事していたのが不思議だったのだ。大抵の店はもう潰れている。たとえば、僕の背後にあるこのコンビニも。夜を照らしていた建物はもはや、闇と同化している。ガラスは割られ、商品のほとんどは綺麗に持ちさられていた。
建物の光も外灯も車のテールランプも。
輝くものたちはみな、消えてしまった世界。
「近所の人も八割くらいどこかに行っちゃいました。多分、海外にでも避難しているんでしょう」
「……そう」
「メロンパンの人は、どこかに逃げないのですか」
彼女はためらうことなく僕の隣に腰掛けた。コンビニ前のベンチは軋みながらも、いまだにその役割を果たしている。僕は首を振った。
「逃げられないし、逃げる必要もない……と、思います」
「というと?」
「僕を『襲う』ゾンビなんて……いない、から」
――お婆ちゃんは数日前、ついに僕を捨てた。
朝起きると、お婆ちゃんの姿が見当たらなかった。大量に買っておいたマスクも消えてなくなっている。「新型ウイルス」を「風邪」と認識していたお婆ちゃんが持っていたのだろうと容易に想像できた。
ローテーブルには、走り書きのメモ用紙がひとつ。
『最後くらい、自由になる』
僕は。お婆ちゃんにとってもやはり、邪魔だったのだ。
きっと僕はそれに気づいていたのだろう。
泣くことも叫ぶこともなく、線香の香りが残る和室のふすまを完全に閉めて、お婆ちゃんという人間は最初からいなかったことにした。
そして。夜を待ち、マフラーのみで顔を隠し、コンビニへと歩いた。
「――……あたしの家族は、種の保存を選択しました」
彼女の口から出たのは、なんとも大仰な表現だった。えんじ色のマフラーをいじりながら、彼女は言う。
「うちの家族は人がより少ない、安全性の高い場所へと向かったようです。他者とのつながりを断ってでも、命を守りたかったのでしょう。ありったけの食料と薬、何故だかトランプや文庫本もなくなっていました。……あたしが家をあけたほんの数時間で、何もかもが、消えた」
「……それって」
「透明人間の存在を、彼らが覚えていたのかは知りません。少なくとも、トランプより価値がないと思われたようです」
彼女は苦笑しながら、ドロップスの缶を取り出した。ころん。
――緑色。
連想したように決意したように。彼女はこちらを見た。
「あたしたちも。……一緒にどこかへ逃げちゃいましょうか、メロンパンの人」
それは、遊びも冗談も一切含まれていない声色だった。彼女は笑うことなく真剣に、飴を舐める。からころ、からころ。飴が鳴る。その音が、僕が答えを出すまでの制限時間を表しているように思えた。
「……僕の」
彼女の誘いを、僕が断る理由はない。ただ、聞きたいことはあった。
「僕のこと、気持ち悪いとか汚いとか、思わないんですか」
「ぜんぜん」
彼女が食い気味に答える。
「関係ないと、前にも言ったはずです」
「……じゃあ、」
「あたしにとって優先すべきは、種の保存ではありません。人類が生き残っても『今のあたし』が消えるのであれば。……それはもう死んだも同然です」
歌詞のような歪曲な表現だった。僕はきちんと理解できたのだろうか。彼女が飴を噛み砕き、残り時間を削っていく。
――答えなきゃ。そして僕は、彼女と、ここから。
けれど彼女は、僕の答えを聞く前に立ち上がった。ガランと缶が鳴る。
「……朝日が昇る頃」
まだ見えない太陽を見るようにして、彼女は言う。
「もう一度ここに来ます。それまでに、あたしと行くか決めておいてください。来てくれるなら、荷物を纏めてここへ。……もしも嫌なら、ここには来ないでください」
彼女は白い息を吐き、リュックを背負いなおした。そして、まだベンチに座っている僕を見下ろし――笑った。
「りの」
聞いたこともない単語だった。僕は足りない頭をフル稼働させて、その意味を知ろうとする。きっと僕がよほどおかしな顔をしていたのだろう。彼女がふふっと声を出した。
「あたしの名前です。これが最後のお別れになるかもしれないので……よろしければ、お名前教えていただけますか。メロンパンの人」
りの。ようやく知った彼女の名前。漢字は分からなかった、でもそれで充分だった。
一緒に逃げるか、ここに残るか。
本当は迷う余地なんてなかった。ただ、僕に勇気がなかっただけだ。
彼女は太陽のような人だった。一緒にいるとぽかぽかして、少しだけ明るくなれる。暗闇でしか活動できない人間には不釣りあいで、だから僕は一歩踏み出せずにいた。
ドロップスの缶がその中身を減らすのに比例して、人類も減っていった。
ドロップスの缶がその中身を減らすのに反比例して、僕の想いは増えていった。
――好きの境界線って、どこなんだろう。
そしてもしも。もしも彼女が望んでくれるのなら。
「僕の、名前は――」
僕はきっと、どこにだって歩いて行けるのだろう。
着替え、食料、水、薬、懐中電灯、ライター、電池。この先必要になりそうなものを鞄に詰めていく。家にあったべっこう飴もこっそりと忍ばせた。彼女が好きかは分からないけれど、糖分の補給にはなるだろう。
普通の家出とは違った。財布も携帯も、この世界ではもはや必要なかった。
マスクが家にないのを思い出す。少し悩んで、マフラーをぐるぐると厳重に巻いた。口元まですっぽりと隠れるように。
あれほど頼っていたマスク。僕にはまだ必要だったけれど、勇気をもって捨てた。
音楽プレイヤーももはやガラクタに等しかった。充電もできないような世界で、これを持ち歩いてもどうしようもない。普段はイヤホンをしないと外出もできない僕だったけれど、今は違った。
音楽は、僕の中でずっと鳴り響いている。
二度と戻らないだろう自宅をすこし眺めてから、コンビニへ向かって歩き出す。うっすらと明るい空の下、家々はその輪郭と表情をはっきりと見せはじめていた。看板や標識の文字が、灯りもなしに読み取れる。それは長い間、僕が見ないようにしていた世界だった。
妖怪がバイキンが幽霊がかいぶつが。明るい世界を歩いてく。
――大丈夫だろうか。この先、あの子と一緒に生きていけるだろうか。あんなに明るい子と、無邪気な子と、素敵な子と。僕は一緒にいていいのだろうか。
エンストでもしたのだろう、車道の真ん中に堂々と乗り捨てられた車を見つけた。近づいて、サイドミラーで自分を確認する。そこにはやっぱり、自信のなさそうな人間が立っていた。太っていて肌も荒れていて、気が弱くて頼りなさそうで。
みんなから気持ち悪いと言われた男。
母親からも邪魔だと言われた子供。
……あの子は、りのは、どうして僕と一緒にいてくれるのか。どうして僕と話してくれて、一緒に逃げようと言ってくれたのか。彼女の親切が、同情か友情かは分からなくて、だけど僕は彼女が好きだった。
好きだった。
僕のような人間が、あんなにきれいなあのひとを、好きになってもいいのだろうか。
白みがかった空の下、コンビニ前。
彼女の姿は見当たらなかった。
いつもなら僕より彼女の方が早く到着しているのに、珍しい。僕はすとんとベンチに腰掛ける。世界が多少明るくなっても、吐く息の白さは変わりなかった。音楽に圧迫されていない耳が、冷たい風の音をとらえる。僕はマフラーを巻きなおした。
彼女がここにきたら
そしたらきっと この世界は終わるのだろう
それからきっと 僕の世界が始まるのだろう
何度もリピートした音楽をなぞる。狭い部屋の中で終わったと思っていた僕の世界も、これから始まるだろうか。始められるだろうか。
僕は。僕は彼女に――
ざりり、とコンクリートを踏む音がした。ガラガラとしたドロップスの音も。
何か引きずっているのか、ざりざりと断続的に音が続く。僕は顔を上げた。そうして彼女の名前を呼ぼうとして、――凝り固まった。
「――か、あぁ……」
聞いたこともないような、喉を潰したような声が出た。その声を出したのは僕ではなく、彼女だった。
右脚が。奇妙な方向に曲がり、何かが突き出ていた。それに構う様子もなく、彼女はずるずると前進する。彼女が足を出すたびに、赤い雫がボタボタ落ちた。
綺麗な頬は抉れていた。左腕は手首から先がなくなっていた。歩くたび、そこから血液がこぼれては落ちる。首からだらりと垂れさがった肉とマフラー。
終わりはじめたこの世界で。
彼女は、僕に向かって歩いていた。
僕はベンチから立ち上がり、少しずつ距離を縮めてくる彼女を見つめた。
僕が呼吸するたびに白い息がでた。
彼女が声を出そうとも、空気の色は変わらなかった。
――マリッジリング。
思い当たったのは、荒唐無稽な物語。
彼女は以前、確かに僕の顔を見ていた。マスクの下の僕の顔を。その時彼女は何も言わなくて、僕はそれに安心して恐怖した。
良くも悪くも。見て見ぬふりされたと、そう思っていた。
僕の容姿は僕が一番知っていた。気持ち悪さも汚さも。日の下を歩けるようなものではないことも。
けれど。
――メロンパンの人の心の中にある鏡と、あたしの中にある鏡では見え方が違うんですよ。……仮に同じ見え方だとしても、多分関係ありません。
彼女の右脚は奇妙な方向に曲がり、何かが突き出ていた。それに構う様子もなく、彼女はずるずると前進する。
綺麗な頬は抉れていた。断線したケーブルのような、千切れた筋肉がそこに見えた。左腕は手首から先が欠損していた。白いゴムみたいな腱と、管のような何かが覗く断面。彼女が歩くたび、血液がこぼれては落ちた。首からだらりと垂れさがった肉とマフラー。
彼女がバランスを崩し、ドロップスの缶がポケットから落ちた。があん、と音を立てて色が飛び散る。緑、黄、白、オレンジ、紫。
赤色のドロップが僕の足元に転がってきた。朝日で透き通った、少し粉っぽい色。それよりもはるかに濃い赤が、てんてんと地面に落ちては僕に近づく。紫に近い肌の色。ほんの少し飛び出た眼球。
――多分関係ありません。
「……そっか」
関係、なかったんだ。ほんとに。
一心不乱に僕へと近づくゾンビへ向かって微笑んだ。そうしてようやくマフラーをはずす。自分の顔と首筋が、初めて彼女に晒された。
彼女は僕への歩みを止めない。
彼女の両目が、無防備な僕の首筋をとらえる。僕は微笑んだまま、マフラーを地面に落とした。
こんなものがなくとも、堂々と彼女を愛せるよう。
そして、彼女に愛してもらえるように。
太陽のような君に照らされ溶けてしまっても
僕は満たされた気持ちで この夜を捨てるだろう
「――やられたね。というか、やられることを選んだね」
「……どうして僕を止めたの、朝倉さん」
「神林君はさー。一分前にたまたま見つけたあの二人をどうするつもりだったの? 生者の手を引いて逃げるの? それともゾンビの頭を壊すの」
「…………」
「あの場面なら、『マフラーの彼』は自分で選択できたよ。逃げることも殺すことも、やられることも。――そして彼は、あえてやられることを選んだ。通りすがりのあたしたちに、その選択を止める権利はない」
「でも、他人が死ぬのを止めるのは……人間として普通だよ」
「そんじゃあ。いつか神林君が『彼女さん』に会えたとして、その人がもうゾンビになってたら。……あたしが神林君の命のために、彼女さんを殺しちゃってもいいんだね?」
「…………」
「嘆く君も、彼女さんの想いも無視して。ただのゾンビとして始末していいんだね?」
「――……それ、は」
「それが嫌なら、君がマフラーの彼を救う理由もない」
「…………」
「行こ、神林君」




