にじり寄る終焉(後編)
朝のすがすがしい空気とともに、茶色の猫はやってくる。澄んだ空気を割るように、周囲の空気をよどませながら。歩き方もふてぶてしければ、目つきも随分とげとげしい。
一見不満のありそうな顔だが、昨日やったジャーキーは綺麗に平らげていた。どうもこいつは、カツオ風味が好きらしいね。マグロ味だとたまに残す。シラス味なんざ一口も食べない。――本当に、
「好き嫌いまでするとは。ヤな奴だね」
猫に向かって言うが、もちろん返事はない。カリカリを適量皿に入れ、縁側の端においてやる。わたしが近くにこないことを確認し、ようやく食べ始めた。……ああもう、皿からそんなにこぼして。行儀よく食べられないのかい、この猫は。
白ごはんと昨日の残りの味噌汁、柚子たくあんで簡単な朝食をとる。七時前。ニュース番組の星座占いをぼんやり眺める。
『本日の一位はおうし座!』
「わたしじゃないか」
『気になる相手と距離が縮まりそうな一日。自分から行動するのが吉。ちょっとしたデートに誘ってみましょう!』
「誰をだい。適当なこと言うねえ」
『ラッキーアイテムは……みかん!』
「そうだ、買いにいかないと」
たくあんを口に放り込み、ぽりぽりと音をたてながら立ち上がる。茶碗を洗うのが面倒だと思いつつ、今洗わなければさらに面倒になるだろうとしぶしぶスポンジを取る。
かちゃかちゃと陶器の音。背後で小さく流れるニュース。インタビューされている人間の声。
『父がマリッジリング――プラナウイルスに感染していると判明して……でも「死者数」にカウントされるのは不当だと思うんです。だって父はまだ生きてますよ。私が話しかけたら、ちゃんと反応するんです――』
先着順の特売品、卵を目当てにスーパーへと向かう。無事に買えたら、今日の昼ごはんは卵かけごはんとだし巻き卵にしよう。そうだ、醤油も残り少なかったね。
考え事をするわたしの隣を、小学生が走り抜けていく。きちんと蓋のされていないランドセルをガチャガチャ言わせていた子供は、わざわざこちらを振り返った。
「妖怪猫ばあ!」
「人様に向かって妖怪とはなんだ!」
わたしの叫び声に、子供たちがきゃあきゃあと反応する。近くにいた主婦が、厄介なものを見るような目をこちらによこした。睨み返せば、あいさつもせずにどこかへ行ってしまう。……どうせわたしは嫌われ者の老人さ、まったく。
十分ほど歩き、無事スーパーに到着する。開店前だというのに、扉の前には人だかりができていた。みんなやっぱり卵狙いだろうね。開店と同時に卵へ向かえるよう、店内の様子を脳内でおさらいしておくこととしよう。
「おお、チヨちゃん! さては卵じゃろ! 九十八円は見逃せんに!」
……気難しいババアに、こんなに気軽に話しかけてくるのは一人くらい。つまりはたかジイだ。
「なんだい、あんたも暇人だねえ」
「暇じゃなぁよ。チラシ見るのも朝の楽しみのひとつじゃろ。今日の昼は卵かけごはんにするって決めとうに。だし巻き卵もはずせんの」
こいつと献立が被るとは。眉間に皺が寄るよ。
たかジイはいそいそとわたしの隣にやってきた。紺色のナイロンジャケットは息子から貰ったのだと聞いているが……もう何年着てるんだか。毎年冬になるとその恰好をしてないか?
雲が流れる青空を指さし、たかジイはにかりと笑った。
「今日はええ天気じゃ。どうさね、この後いっしょに寺に行かんか」
「寺?」
「ええ天気じゃき、猫たちが日向ぼっこしとろうて」
「……猫は嫌いだって言ったろう、まったく」
開店しまーす、というやる気のなさそうな声とともにスーパーの扉が開く。わたしはさっさと店内に入った。目指すは卵。もちろん、たかジイも同じ方へと向かっている。
「ほれ、チヨちゃんもやっぱり卵じゃ」
「うるさいね、早くしないとなくなっちまうよ」
ところが、卵のコーナーはさほど混雑していなかった。特売の卵をなんなく手に入れることができ、嬉しい反面で拍子抜けしてしまう。開店前にいた人たちはどこに行ったんだい。
見ると、大多数の人間は違う商品に群がっていた。卵以外にも買い得なものがあったのか? わたしは――そして何故だかたかジイも、人だかりの正体を探りに行った。
そこにあったのは、特別安くもないマスクだった。
「風邪が流行っとんじゃて、テレビでよう言うとるの」
たかジイは納得したように言った。しかし、マスクってのはこんなに売れるのかい。
――……ああそうだ、風邪で思い出したよ。
「お、チヨちゃんどこ行くんじゃ?」
「みかんを買おうかと思ってねえ」
「おお、わしもそれ欲しかったんじゃ。テレビでな、わしの今日の『らきーあいでむ』いうんが、みかんじゃ言うとっての」
「…………」
こいつもおうし座なのかい。
眉間に皺を寄せたまま移動する。わたしの後ろで、主婦がぼそぼそと話をしていた。
「――ッジリングにはマスクも効果なさそうだけどねえ。空気感染しないんでしょ?」
「まあ、お守りみたいなものよ。してないよりマシでしょ」
「そうそう。インフルエンザも流行ってるし……」
たかジイからの散歩の誘いを断り帰宅する。縁側を見ると、茶色の猫がアジサイの下でうずくまっていた。
「変な時間にいるねえ、ご飯の時間はまだだよ」
言ってみるが返事をしない。なんだい、今日はそんなに腹が減ってるのかい。……いや、もしや。
「これかい?」
昨日買ってやったカツオ風味のジャーキーを見せる。途端、猫はすっくと姿勢を正した。……なんて現金な奴なんだい。私が手ぶらで話しかけても、ちっとも反応しないくせに。
「あんたってやつは……もしもわたしが餌をくれなくなったら、違う家に行っちまうんだろ。え?」
ジャーキーをちぎりながら言う。こんな動物に一人話しかけるなんて、我ながら寂しい人間だこと。
猫用の皿を出すのが面倒で、チラシの上にジャーキーをのせる。それを猫の近くに置き、買ってきたものを冷蔵庫にしまう。……しまった、卵がひとつ割れている。帰ってきた時、上がり框に何かぶつけたとは思ったんだ。
溜息をつきながら、割れた卵の処理をする。ふと縁側を見れば、猫はいなくなっていた。チラシにのせていたジャーキーもない。
半野良といえど、庭に迷いこんできたこいつをうちで飼い始めてもう三年。そろそろちょっとは懐いたっていいだろうに。
「……義理のない猫はほっといて、みかんでも食べようかね」
人間は面倒だしわたしは嫌われ者だし猫はまったく可愛くない。
――誰か、早く迎えに来ないかねえ。
『――……は一昨日、研究の結果、プラナウイルスと狂犬病ウイルスはまったく異なる――……ると発表しました。――ナウイルスによる死者数は、現在確認されているだけで――』
「ちゃちゃまる、どこにいるんだい、ちゃちゃまる」
もう昼前だってのに、猫がこない。朝ごはんにと置いておいたカリカリも手つかずだ。おかしいね、いつもは呼ばなくとも飯の時間にはくるってのに。ジャーキーがなくなったから拗ねちまったのかね。
わたしは猫を呼ぶのをやめ、自分の昼を用意しはじめた。白ごはんと柚子たくあん、高野豆腐、味噌汁。高野豆腐は昨日の晩ごはんの残りだ。味が染みて、丁度よく仕上がっている。しいたけを多めに入れたのもよかったみたいだね。
箸を動かしながら、ちょくちょく縁側を覗く。猫の姿は見当たらない。
……来なかったら、それはそれで気になるもんだ。
食べ終えた食器を流しに置き、カリカリの入った皿を持って靴を履く。犬なら放っておいても勝手に家に戻ってくるが、猫は本当にどこかに行ってしまいそうだからねえ。仕方がない。
家の近くをぶらぶらと歩く。しかし、見当たらない。そもそも、わたしはちゃちゃまるの縄張りを知らないんだ。猫ってのは、どういう場所で遊ぶんだい。
「……あ」
そういえば、寺に猫が集まってるとか言ってたね。
この近辺で寺といえばあそこだろうと、わたしは歩き出す。自転車とも子供とも、今日はまったくすれ違わなかった。それだけで随分と町が静かだ。平和ってのはいいことだね。
道中、たかジイの家の前を通る。わたしの家と同じく、古き良き日本家屋だ。勝手に育ったのだという琵琶の木が、わたしを注視しているような気がする。庭の奥には、猫の好きそうな段ボール箱がいくつか見えた。
――ちゃちゃまるは、もしやこの家の庭に迷い込んだんじゃないか。
「ぴんぽん」を鳴らしてみるが、たかジイは出てこない。……まあ、あの爺さんのことだ。無断で入っても怒りはしないだろう。
お邪魔しますと一言添えて、庭先を覗く。価値のよく分からない盆栽や、金のなる木が無造作に置かれている。段ボールはもちろん物陰も確認するが、猫が潜んでいる気配はない。
「やっぱり寺かねえ」
ごちゃごちゃとした庭を歩きながら言う。雨水の溜まった発泡スチロール、用途の分からない細い竹。軒下に吊られた玉ねぎはふたつほどダメになっている。まったく、これだからズボラな男はだめなんだよ。
悪態をつきながら庭から出ようとしたとき、ふと声が聞こえた。たかジイかと思ったがテレビのようだ。若い男性の声がする。
「たかジイ、いるのかい」
声をかけるが、家の中に誰かがいそうな気配はない。テレビをつけっぱなしにしたまま出かけたのか。ドジだねえ。
……まあ、わたしの知ったことじゃないね。さっさと寺に行くか。
『――本日、プラナウイルスをバイオセーフティーレベル4――……、レベル4に分類されたのはプラナウイルスが十種目であり、その他にはエボラ――……や痘瘡ウイルスといった――』
寺に通じる石段をのぼると、たくさんの「毛玉」がそこにいた。白と茶色のまんだら、黒、……錆びた鉄みたいな奇妙な色のやつまでいる。そして、どいつもこいつも目つきが悪い。
みんながみんな、こぞってひなたに座っていた。それでも外は寒いのか、きゅうっと身体を小さくしている。
ここから見えるだけでも二十匹はいるんじゃないか。確かに、たかジイの言う通りだ。
「ちゃちゃまる、いないのかい」
カラカラと餌の皿を鳴らしながら言う。いつもならこの音につられてやってくるのだが、傍に寄ってきたのは灰色のぶち模様だった。みゃあみゃあと高い声で鳴きながら、わたしの脚に身体をすり寄せる。
「あんたのじゃないよ、これはうちの猫のだ」
しつこくせがむ灰色の猫を蹴らないよう注意しながら、本堂へと歩く。三毛や白黒の猫たちが、怪しげなものを見るようにわたしを見上げている。猫ってのは本当に、どいつもこいつも愛想を知らない――
そんなことを考えていたら、猫たちの奥からひょこりと、茶色の縞模様が顔を出した。人一倍、いや、猫一倍ふてぶてしいその顔。
「なんだ、ちゃちゃまる。こんなところにいたのかい」
見覚えのあるその顔に話しかける。猫は返事こそしないものの、こちらに近寄って来た。やはり腹が減っているのだろう。わたしの持っている皿を睨むように見ている。
「まったく、いつもは自分で帰って来るってのに――」
ざり、と玉砂利を踏む音が背後から聞こえた。猫にしては大きなその音に振り返る。
いつもと同じ、紺色のナイロンジャケット姿のたかジイがいた。
ぼんやりとした目で、わたしをじっと見つめている。
「……なんだ、たかジイ。散歩中だったのかい?」
いつもならわたしより早く「チヨちゃん」と言い寄ってくるはずのたかジイが、珍しく無言だ。ざり、と一歩近づいてくる。不思議や不気味が入り混じった気分で、わたしは続ける。
「あんたんち、テレビつけっぱなしだったよ」
――ざり。
「そうだ、あと玉ねぎだ。あんたね、軒下に吊るしてあるのを忘れてんじゃないかい」
――ざり。
猫が背中を丸め、毛を逆立てる。何かあればすぐ逃げ出せる体勢で、ウルルルと低く唸る。
「せっかくの玉ねぎが腐っちまってたよ。それもふたつ。勿体ないったらありゃしない」
――ざり。
「そもそも、あんたの庭は物が多すぎるんだ。ちゃんと掃除してるのかい」
――ざり。
死んだ魚のような目をしたたかジイが、わたしの目の前までやってくる。隣にいた猫がシャアっと声を出した。これ以上近づくな、という意味だろう。背中を丸めた猫を見ながら、わたしは苦笑する。
「なんだ、あんたも猫には嫌われてんのかい。人からは好かれる癖して、」
猫の餌が、地面に散らばるのが見えた。
なに、が、起こったのか。
大きな音を立てて皿が割れる。
ちゃちゃまる、逃げる、が見え。
重なった影に飛び散る赤。
かた、くび? いたい。
足元で二人分の音を鳴らす砂利。
のどのそとがわ、くうき、ぬけ、たオト。
聞いたこともない声を出す一匹の猫。
たかジ、ふく、やぶれ、血。
――血が、でてる、けど。
これ……たかジイか、……わたしの、か?
なんで。なにさ、れて。
わたし、みんなから、きらわれ、て……けど……そこまで、し、なく……。
それに――……たかじい、だけは、…………。
――――……そうだ、ちゃちゃまる。
ごはん、こぼしちまった……。
あたらしいの、よういしてやらな、と、…………。
「――お寺にゾンビってなんかすごい光景だねえ」
「うん……」
「しかし、猫たちの存在感も半端ないねー」
「朝倉さんの持ってる、それのせいで寄ってきてるんじゃ……」
「んー。猫用の焼ささみらしいけど、これ人間が食べてもおいしいよ。いっぱい貰ってきといてよかったー」
「そう……」
「神林君もいる? まぐろ風味とかつお風味と、ほたて風味もあるけど」
「……今はいいよ」
「――服装から察するに年配かなあって感じのゾンビだねえ」
「そうだね。夫婦かな……」
「普通に考えるならそうだろねー。なんでお寺に来たのかはよく分かんないけど」
「……最期に、何かに頼りたかったんじゃないかな」
「あー、そうかも。――おっ、猫」
「朝倉さん危ない。その猫さっきからずっと威嚇してるし……」
「めちゃくちゃ機嫌悪そうな顔だよねー。……それにしても、なんでずっとゾンビの足元にいるんだろね、この子」
「このひとたちに懐いてたのかな……」
「そうかも。でもほんと、ここから離れようとしないね。随分ガリガリだけど」
「まさか、ご飯も食べずにずっとゾンビのそばにいるとか……?」
「あり得るね。そうなのかい? チャーコよ」
「チャーコって……」
「多分この猫、『ちゃ』のつく名前だったんだよ。そういう顔してる」
「そういう顔……」
「チャーコ、ほら、カツオ風味のささみだよ。あたしの非常食、おひとつどうぞ」
「……こないね」
「ほら、チャーコ、ほらほら、カチュオあじのしゃしゃみですよー」
「…………餌に釣られるタイプじゃないみたいだね」
「いや多分、本当はシラス味が好きなんだよ。そういう顔してる。あいにくそれは持ってなくてな、許せチャーコよ」
「…………」
「朝倉さん、雲行きが怪しくなってきた。今晩泊まるところを探そう」
「おっけ。……もうすぐ雨降りそうだけど、チャーコは雨宿りしないのかー?」
「……動く気配ないね」
「ほんとにね。――よっぽど、飼い主さんのことが好きだったんだろうねえ」




