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にじり寄る終焉(前編)

 猫ってのは、なんでこんなに目つきが悪いんだい。

 キャットフードを皿に盛りつつ横合いを見る。縁側のひなたを陣取っている、縞模様の茶色い猫。そいつが妙に鋭い目で、わたしの手元を見ている。にゃあにゃあ鳴きながらすりよってくれば多少はかわいいかもしれないが、この猫が鳴くのはサカってる時しかない。わたしに向かって鳴くことはないし、鳴く時があればそれはつまり威嚇ってやつだ。耳をふせてキバをむき出しにして、シャー! 可愛くないったらありゃしない。


「誰がごはんをやってると思ってるんだい」


 話しかけるが返事はない。猫は細くなった瞳孔でちらとこちらを見、ふんすと鼻を鳴らす。……この動物は、どうしてこうも偉そうなんだい。犬なら尻尾振って飼い主に好意を示すってのに。わたしが若い頃に飼ってた柴犬も四国犬も甲斐犬も、みんなきゅんきゅん鳴きながらわたしに懐いてたってもんだ。

 そうだ、わたしゃ犬のほうが好きなんだ。それがなんだって、老い先短くなって猫の世話をしているのか。しかもこんな、家にも懐かず餌の時にしかろくに帰ってこないような半野良の。


 ……くよくよしてる年寄りはやだねえ。寂しいからって、可愛くもない猫の世話をしちまって。


 なけなしの貯金と年金をやりくりして購入したカリカリを足元に置く。……猫は、わたしの顔と餌を交互に見ながら、近寄ってもいいものかと悩んでいる。腰を引いて四肢を曲げて――「飯は欲しいがお前が邪魔だ」みたいなその顔。本っ当にかわいくないね。ちょっとはこっちに近づいてきたらどうだい。

 少しくらい撫でてやろうかと手を伸ばす。「シャー!」背中の毛を逆立てて猫が鳴く。こいつ、餌をくれる人間にすら触らせないつもりかい。そのくせここから逃げようとしないのは餌が欲しいからだろう。まったく、なんてやつなんだい。


「あんたも少しは犬を見習いな」


 言うことを言って、ぴしゃりと障子を閉める。犬のあの従順な姿をあいつに見せてやりたいくらいだ。一緒に散歩に行ったり、ちぎれんばかりに尻尾を振ったり、ボールをくわえて持ってきたリ。縦長で鋭い猫の瞳孔とはまったく違う、つぶらで愛らしい黒い瞳。笑ったような口元。どう考えたって犬の方が可愛いだろうに。最近猫がもてはやされている理由が理解できんわ。


 テレビをつけ、もそもそと昼食を摂る。主人や子供がいたころは魚を焼くなりなんなりしていたが、一人いまとなっては適当だ。最悪、白米とたくあんがあればいい。ゆずがほんのりと香るたくあんを齧りながら、わたしは溜息をついた。

 ――結婚して、子供もできて。誰が老後、ひとりになると想像できたかねえ。

 昼間から話す相手もおらず、口を開けば独り言ばかり。独り言でなかったとしても、話し相手はふてぶてしい猫一匹。悲しい余生だよ、まったく。

 仏壇を見る。酒豪でヘビースモーカーだった旦那と、どれだけ食ってもひょろひょろだった息子の遺影。旦那は早死にするだろうと思っていたが、息子は「ひょろひょろ」以外は健康そのものだった。運動が得意で、酒も煙草もしない。それが交通事故で、わたしよりも早く逝っちまうとは。


「……このたくあん、美味しいねえ」


 わざと関係のない言葉を発して、無理やり回想を終わらせる。昔に想いをはせても、誰も、何も戻ってきやしないのだ。いまの自分は一人暮らしの老人、それも気難しいと近所で評判の『猫ばあ』だ。……猫を飼ってるせいか、猫好きだとでも思われてるのかね。

 水分の多い白ごはんを口に含みながら、テレビに目をやる。最近、ワイドショーは同じ話題でもちきりだ。なんでも、タチの悪い風邪が流行っているんだとかなんとか。


「まあー、日本人も軟弱になったもんだよ」


 風邪なんざ、四十年近くひいていない。近頃の若者は、やれ殺菌だのやれ除菌だのと騒ぐから、身体も弱くなっちまうんだ。毎日泥だらけになって遊んでりゃあ、嫌でも身体が強くなるもんだろうに。

 頭の良さそうな、いけすかない女がテレビで何やらごにょごにょと言っている。

 ――手洗いうがいをしっかりして、睡眠時間は一日六時間以上、理想は八時間。しっかりと休養をとって、日光浴を一日最低十五分……。


「そんなのぁ生活の基本だろう。それすらできてないのかい、最近の若いやつらは」


 一人でいるとどうも、テレビ相手の独り言も増えちまう。さっさと茶碗を洗って、買い物にでも行こう。

 食べ終えた食器を、台所へと運ぶ。背後からはまだ、頭の良さを誇示しているような女の声が流れていた。


『新型ウイルスに関しましては現在調査中で、不明な点も多いんですね。今のところ、通常の風邪薬では症状をおさえられませんし、有効なワクチンも作られていません。なので今の私たちにできるのは、生活を根本から見直し身体を健康にする、そうすることで少しでも風邪をひかないようにする、まずはそういう基本的なことを――』



 近くのスーパーまで買い物へ行く。昔は乗れていた自転車も、今じゃあまったくだ。

 歩行者わたしとぶつかる寸前で、ようやく進路を変える対向の自転車。もうちょっと、他人に気をつかうことはできないのかい。最近ここらに越してきたやつらは、礼儀も思いやりも持っちゃいない。

 近所の子供らが、小さな車輪のくせに恐ろしいスピードを出して、向こうから走ってくる。大人の大きな自転車も怖いが、子供の自転車には違う怖さがある。自転車を漕ぎながら立ち上がったり、両手をはなしてみたり。――怖くて見てらんないよ、親はもっとしっかりしつけしな。


「猫ばあだ!」

「妖怪猫ばあが出た!」


 キンキン声で、子供たちが叫ぶ。本当に、躾がなっちゃいない。


「人様に向かって妖怪とはなんだ!」

「ぎゃー、妖怪が怒ったぞ!」

「早く逃げないと、猫といっしょに食べられるぞ!」


 不必要に蛇行しながら、子供らの自転車が走り去る。……どうも、『猫を飼っているババア』ではなく『猫を食べるババア』だと思われているらしい。失礼にもほどがあるだろうに。あとであいつらの親に文句でも言いにいこうかね。

 ……そういうことするから、面倒なババアと嫌われるんだろうね。結構だよ。わたしだって人間は嫌いだ。

 それにどうせ、こっちは独り身なんだ。わたしが嫌われたところで、旦那や子供まで嫌われることも、もうないんだから。

 気楽なもんさ。独り身の、嫌われ者は。


 スーパーで、近所の「たかジイ」に声をかけられる。「たかジイ」ってのはやっぱり、子供らがつけたあだ名だ。本当の名前は高口たかぐち。今年七十五で、こいつも一人暮らしをしている。伴侶ツレは随分と早くに亡くなり、息子二人も今じゃあ家庭を持って立派にやっているらしかった。

 たかジイはしわくちゃの顔を更にしわくちゃにし、わたしのかごを覗き込んだ。半分に切られた大根やきゃべつ、塩昆布、気に入りのたくあんなんかが入っている。


「チヨちゃん、重いもんばっか買っとうなあ。わしが家まで運んじゃろか。車で来とうかんね」

「お前の車なんざ、怖くて乗れたもんじゃないよ。自転車で転んで、二度も骨折した男だろう」

「車と自転車はぁ、違うもんだがに」

「いんや同じだ。自転車だって『くるま』って漢字を書くからね」


 たかジイはこの辺で育った人間ではないらしく、独特のなまりがある。わたしはたかジイのことなんざなんとも思っちゃいないが、このなまりだけは好きだった。自分が聞いたこともない地方のなまりなのに、なんでか懐かしく感じる。

 たかジイは「勘弁しちぃなぁ」と笑った。下の前歯が一本ない。しかし、抜けてしまったのはその一本のみで、あとは健在らしかった。年の割にはまあ上出来だろう。


「そうだチヨちゃん、今度みんなで散歩せんか?」

「散歩?」

「地区の散歩会。わしもこの前初めて行ったんじゃけど、なかなかよかったに。途中で寺にも寄るんじゃが、猫がぎょうさんおってな。触りたい放題じゃて。チヨちゃんも好きじゃろ――」

「わたしゃ、猫は嫌いだよ」


 その言葉に、たかジイは目を丸くした。


「猫、飼っとうに。茶色のん。いつもチヨちゃんちの前うろついとんに」

「あんな可愛げのない動物、だれが飼うかい」

「それ」


 たかジイが再度、わたしのかごを覗く。

 ――きゃべつの横に、猫用ジャーキー。


「猫のごはんじゃろ」

「……わたしの晩ごはんさ。あぶったら美味しくなるんだ」

「嘘つきゃあ。チヨちゃん絶対そんなん食べんくせに。酒呑みでもなかってなぁ」


 がはは、とたかジイは豪快に笑う。こいつはいつもわたしを遊びに誘うし、しきりに話しかけてくる。「独り身の老人どうし仲良くしておきたい」とのことだが、誰かと話したいというのが本音だろう。

 たかジイはひとしきり笑うと、「今度いっしょに散歩しょうなあ」とわたしの肩を叩いて惣菜の方へと行ってしまった。たかジイも、自炊はあまりしてないようだ。


「……ふん」


 わたしもああいう、気さくな老人になっていればよかったのかね。

 自分が買おうとしている物を見る。塩昆布と柚子たくあん、懐きもしない猫のご飯。

 寂しさの縮図みたいな、塩辛い買い物かご。



 重たい荷物を持って帰宅すれば、茶色の猫がそこにいた。小さな身体で玄関の前を陣取り、「遅い」と言いたげな表情でわたしを睨む。本当に可愛げがない。それでいて偉そうな。この動物のどこがいいってんだい。

 昼過ぎに現れた、こいつの目的はおやつだろう。腕時計もしてないくせに、時間になればひょこりと現れる。


「……カリカリだけじゃ飽きるだろうと思ってね。ジャーキーを買ってみた。高い買いもんだったよ、まったく」


『にゃんにゃんジャーキー! カツオ風味』と書かれた棒きれのような餌を見せる。が、反応なし。これが自分の飯になると分かっていないのか。


「今日のあんたのおやつだよ、ちゃちゃまる」

「…………」

「返事しな、ちゃちゃまる」

「…………」


 呼んでみるが返事なし。自分の名前が分かってないのか。犬ならしっかり理解してるってのに。


「不愛想な猫だねえ」


 買ったばかりのジャーキーを適当な長さにちぎり、カリカリの上にのせる。それをわざと、わたしの足元に置いてやる。……やはり近づいてこない。絶対に自分の身体には触らせぬ、そんな眼光。


「可愛くないったらありゃしない」


 わたしはぴしゃりと戸を閉めた。すりガラスごしに、猫が餌に近寄っている様子が見える。まったく、警戒心のとけないやつだ。

 重い荷物を引きずるようにして台所へ向かう。今日の晩ごはんは、惣菜コーナーで半額になっていた筑前煮だ。……味噌汁くらいは自分でつくろうかね。

 癖のようにテレビの電源をいれ、包丁とまな板の準備をする。テレビの音量が小さくて聞こえにくいが、どうせろくに聞いちゃいない。たんたんと軽快な音をたてて大根をいちょう切りにし、鍋に投入する。玉ねぎを多めに入れようかね……。


『――以上の類似点から「狂犬病ウイルスの遺伝子コードに突然変異が起こった」可能性が非常に高いとし、WHOは現在、プラナウイルスの――』

「そういえば、風邪予防にみかんでも買ってこようかと思ってたのに忘れてたねえ」


 たかジイと無駄話したせいだね。しょうがない、あとで生姜湯でも飲むか……。




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