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主たる幻影   作者: 佐々木 敦
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情感編

人生の断片です。

 静かで満天の星。凍り、張りつめた空気。呼吸の音。

 小さな窓がコンクリートの壁の上部に位置している。壁の色は灰色である。おそらく。 「見えないねえ。よく見えないよ。気にしたこともないし、見ようと思ったこともない。」

「君はなにをみてるんだい。」

「内部だよ。」

「心の?」

「いや、内部ということは分かるんだけど、心かどうかは分からない。」

「君はいつから此処にいるの?」

「ところで君の名前は?」

「はぐらかすんだね。まあいいや。俺の名はピロティーというんだよ。」

「ほう。」

 彼は此処に籠もっている。いつからかは分からない。引きこもりというものだろうと、周囲の人は考えている。でも彼はそう考えていない。なぜならここに居て、誰かに恨みを抱いたり、両親に怒りをぶつけたり、何かを壊すということはない。

 彼がなぜここに籠もっているかは謎だ。彼は普通に育った。幼児期に不快な思いをしたわけではない。少なくとも彼はそう思っている。あえて探せば母親に溺愛されたといえなくもない。母性に個が圧殺されたかは不明だ。

 彼は名前を忘れてしまった。それを放棄してしまった。営々たる人類存続の営みの中で、おそらくこの先がない行き止まりだ。

 ピロティーはいつの間にか訪れる。それも忘れた頃にやってくる。この前いつ来たか忘れてしまうほどだ。ピロティーが何者かはわからない。神なのか、仏なのか、妖精なのか、天使なのか、ある種のエネルギーの集合体なのか、それとも幻なのか。

 「一瞬は無限なんだ。」彼は言う。

「なるほど。時の流れや、人々のつながりは・・・歴史だよ。君には歴史はないのかい。」

「ないね。魂の不滅は知っているだろう。僕が死んでも魂はきっと生き続けるさ。だから何も怖いものはないよ。不安もない。」

「強気だね。でもさ、その不安のなさは抗不安薬のせいじゃないのかい。またはSSRIなんかさ。」

「わからないね。インドの行者は己の体を鍛えて、同じような物質を分泌させているだけなんじゃないの。だから同じことさ。この宇宙にそのような物質があるからいけないんだよ。何事も人類が禁忌を作りすぎている。あれば使えばいい。」

「使いすぎて体が壊れてしまうことはないのかい。」

「馬鹿だな。体は滅んだって、魂は残るって言ったろう。」

「ははは、そうだったねえ。そこで理屈を使うのか。」

「それに飲みたくて飲んでいるわけじゃない。飲めといわれているんだ。」

「誰に?」

「・・・忘れてしまった。でも、そう決められているんだ。」

「君は病人かい?」

「いやどうかな。たぶん違う。でも考えようによっては人間というのは皆病人だろ。どこか病んでいるよ。間違いない。完全な健康というのはあり得ないはずだ。」

「ほう。探せばいるかもしれないよ。」

「仮にいたとしてもさ、それは例外だよ。例外と言うことは、結局病的と言うことさ。」

「みんな病人にしたいんだね。」

「仲間がほしいわけじゃない。」

「嘘をつけ。案外君も寂しがり屋なんだな。たった一人でいることに誇りを持っていたと思っていたのにねえ。」

「仲間といったって、話をするわけでもなければ、肉体的な接触があるわけでもないんだから。」

「でも心の平安を保つためには、皆も自分と同じだと思いたいんだね。」

「勝手にそう思っていろよ。」

彼はそう言ってピロティーに背を向けた。ピロティーは一時少し悲しそうな顔をしたように見えた。

 彼は本を1冊手にした。それは核戦争によって人類が滅亡した後の世界を描いたサイエンス・フィクションである。彼はひとしきり読み続けた。

 彼に相手をしてもらえなくなったピロティーは、灰色の部屋の中をふらふらと浮遊した。やがて、部屋の上部にある小さな窓から外を眺めてみた。その先には海が見えた。灰色の空にとけ込んだ海の色は、夏の太陽にさらされて輝く青色にはほど遠く、無機質に見え、機械的に打ち寄せる波の音が、壊れた時計のように無限の時の流れに区切りを与えていた。

 この部屋は、現世においては海沿いの、立地の良い、住みやすい住宅地にあるのだろう。ガラスとコンクリートに覆われたこの空間は、歴史の流れから圧倒的に隔絶されていた。その程度は不明だが、その壁は何かの物差しによってはかれるような代物でないことだけは確かだった。

 唐突に、彼は読んでいた本から手を休め、ピロティーの方に向き直って話しかけた。「君はいつまでここに居るんだい?」

ピロティーは窓から彼に視線を返した。窓の外は彼には見えない。彼が立ち上がっても、部屋の中の何かの上に立ったとしても、外は見えない構造になっている。

「なんだよ。君は私にここにいて欲しいんじゃないかい。」

「そんなことはないよ。でも君がここにいるから話しかけたんだ。暇そうにしているじゃないか。」

「ありがとう。うれしいねえ。でもどうして人は会話をするんだろうねえ。言葉があるせいかな。あるから使わざろう得ないのかな。」

「いやそうじゃないよ。それもあるかもしれないけど、ある言語学者の説によると、会話の90%は無意味だそうだ。実際上で役立つという意味においてだけどね。90%分は、僕は話をしなくても良い。それに残りの10%だって、僕がここにいる以上必要ない。だから会話は無用なんだよ。」

「たいそうな理論じゃないか。言葉は不要なんだね。」

「まあそういうことさ。おそらくね。」

「でも、言葉を忘れてしまったら、君の存在価値ってあるのかな。君を支えているのは、言葉だけなんじゃないかな。」

「確かに言葉でものを考えている。でも言葉を忘れてしまいたいこともあるんだ。考えなくても済む。考えなければ、不安や恐れは必要以上に大きくならない。考えることが人類をより不幸にしたのさ。」

「人間は考える葦である、なんて言うじゃないか。考える人、などというものもある。考えるから、言葉があるから人間は素晴らしいんじゃないか。」

 彼は少し間をおいて、眉にしわを寄せた。それからピロティーに話しかけた。

「言葉が理性を産んだ。理性があるからこんなことになったんだよ。」

「こんなことって、君の今の状態かい?」間髪入れずにピロティーは問うた。

「違うよ。人類さ。人類が地球を汚して、心を台無しにしてしまった。17世紀以来の人類は最悪だよ。どうにもならない。」

「それじゃあ、それ以前は良かったってこと?こんなところに籠もっていられないぞ。働かなきゃ食っていけない。」

「分からないね。昔だって今の俺みたいに霞を食って生きていたやつだっていたはずさ。・・・そう仙人だよ。」

「君は仙人ってこと?」

「隠者でもいいし、観想的生活者でもいい。」

「恐れ入ったよ。」

「重要なのは何を食っているかということじゃないのかな。」

「そうさ、生きているんだからどうやって何を食うかは大切なことだよ。僕を生かそうとしている何かがいるのさ。もういいだろう。少し黙ってていてくれ。」

 彼は少しいらいらした表情で、ピロティーをきっと睨んだ。

 ピロティーは少し悲しそうな表情を見せたが、すぐ無表情に戻り、彼に背を向けて窓のところまで上昇して外へ目を向けた。そこには山の風景があった。赤や黄に色づいた木々が風に揺れていた。しばらくピロティーはこの風景に見入った。するとなぜかしら懐古の情が湧いてきた。昔、家族で旅行に行ったとき、妹がいて父と母がその中にいる風景だ。

 それからどれくらい時間がたったかは不明である。ピロティーはまた彼の方へ視線を向けた。彼は壁を見つめて座り込んでいた。その視線の先には先ほどまで読んでいた本が投げつけられ、形が崩れているのが見えた。

 「なんだい、怒ったのかい。心が狭いなあ。」ピロティーは少しだけ嘲笑を投げかけた。

「怒ってなんかいないさ。」彼は投げやりな調子で、一方少しおどけた風にも見える感じでピロティーに話しかけた。

「良かったよ。少し気分がおさまってきたみたいだね。怒らしてしまったかと思ったよ。」ピロティーは続けた。

「本を壊すなんて君らしくないね。」

「ふん、覆水盆に返らずさ。または形あるものは必ず壊れるとでも言おうかね。」

「もったいない。」ピロティーは残念がって言った。

「いいんだよ。壊して何が悪い。みんないろいろなものを壊しているじゃないか。」

「地球環境?」

「それもあるけど、心、ものの考え方だよ。」

「伝統?文化?それとも芸術かな。」

「そう。」

「ダダダダダ。」ピロティーは微笑を浮かべながら続けた。

「ダダダダダ。」

「うるさい!静かにしてくれ。」

「気に入っているんだよ。この言葉。破壊にはぴったりさ。君は何かを破壊してきたのかい?」

「フフフ、破壊は疲れるよ。なぜならさ、自分自身も壊していくことになるからね。精神の崩壊がおこってくる。怖いよ。自分が粉々になっていくような気がする。」

「でも、破壊するのは正しいことなんでしょ?」

「そうだ。そう信じてきた。いや、正確に言うと、僕じゃなくて、僕の周りにいる人たちがそう信じてきた。僕はその影響を受けて、全く疑うことすらしなかった。三つ子の魂百までだ。僕の心の中に、破壊イコール善であると刷り込まれてしまっている。伝統や文化などと聞くと、井の一番に疑ってかかってしまう。潜在意識の中にあるのさ。アバンギャルドこそ正しい。進むべき道だって。

「でも、もう一つの心もあるんだろう?」ピロティーはもの悲しげな表情を浮かべながら続けた。

「自分を形作るものは、古来先祖より受け継いだ血だからねえ。君もそう思うんだろ?」

「あまり気にしたことはない。」そう言って彼は後ろを向き、続けた。

「僕自身が壊れると言うことはおそらくそうさ。僕の構成要素が一つ一つちぎられて自分から離れていく。砂上の楼閣のようなものさ。崩れた砂は海に帰っていく。人間、いや、生命を生み出した海にさ。気にはしていないよ。生きているってことは、一週の偶然の集合体さ。生きていることが幻なのか、幻こそが人生なのか。」

「どちらでもいいんだよね。」

彼は首を3,4回振って、

「もうこのことを考えるのは勘弁だ。そっとしておいておくれよ。」

「そうかい。壊すのは面白いけどねえ。気分爽快だ。後片付けが容易じゃないよね。それは確かなことだよ。仮想敵だと思っていたものが、実は自分だったってことだろう?」

「自分かどうか分からないと思う。そんなことを聞かないでくれ。」

「わかったよ。それくらいにしておこう。それよりのどが渇かないか。お茶でも入れておくれよ。」

「じゃあ、コーヒーでいいかな。僕はコーヒーが好きでね。」

「酒は?」

「ダメだよ。脳細胞を弱めるような飲み物はね。僕には向かないだろう?」

「なんで?」

「脳が動いていないと、僕が僕でなくなってしまうのさ。いつも何かに鋭敏に感性を研ぎ澄ましていたい。皮膚で、匂いで、音で、光で、・・・。その空間の空気を読みとっていくのが楽しみなんだ。酒はダメ。脳がやられる。」

ピロティーは、彼が外に出れば、より多くの空間を体験できるのだと言ってみたかったが、気に障りそうなのでやめておいた。その代わりにコーヒーを催促した。

 彼はコーヒーメーカーを取り出して豆をセットし、作り始めた。

「少し待ってくれ。」

ピロティーはコーヒーができるまでの時間に落ち着かない感じを覚えた。それを見透かしたように彼は、

「できるまでの時間が好きなのさ。」

 コーヒーメーカーは、コフコフと音を立て始めて、黒く絞られたコーヒーがガラスの容器に少しづつ溜まり始めた。水蒸気があたりに立っていく。

「好きだね、この音、この空気。」

「ひとりで飲むのがいいのかい?」

「昔のことを思い出しながら飲むことが多いかな。まあ、カフェイン中毒というのもあるんだけど。」

「人間と一緒にいたことが今の君を支えているんだろ。」ピロティーは少し語気を強めた。

「うるさいなあ。」彼は鬱陶しそうに振り返ってピロティーを見た。続けて、

「コーヒーいらないのかい?」

「いや、いるって。・・・ごめんよ。また怒らせてしまったかな。」

「いいよ。半分当たってるんだろうから。」

「君のさあ、入れてくれるコーヒー、おいしいよ。」

「そうだろう。もう随分長い間毎日毎日入れ続けているからなあ。」

「独りでね。」ピロティーはいたずらっぽく笑った。

「諸刃の剣だよ。どっちもどっちさ。独りも、誰かといることも、プラスマイナス。人間両方は無理だよ。どちらかを捨てなきゃねえ。僕はひとりを選んだ。後悔はしていないよ。」

「たいした決意だね。それしか選択肢がなかった?」

「そういうなよ。結果論だよ。どちらを選んだって幸福の総体は変わらないんだから。」

「そう決めつけてしまってもいいの?」

「だと思う。インターネットで調べてみるといい。そういうデータが出てるさ。」

「勘じゃないの?」

「そう!勘が一番さ。」

「勘は経験が生み出す。」

「そうさ。短いけど人生経験から演繹されているんだ。」

「ある人は、ロビンソン・クルーソーは独りじゃ生きられなくて、フライデーという犬がいたからやっていけたということを言うじゃない。」

「ある程度、ある程度人間になっていれば、あとは死ぬまでひとりで十分だ。」

「狼に育てられたのではダメ?」

「そう。育てられ方にも大いに問題はあるけどね。まあその話はちょっと置いておいてだ。」

「ということはさあ、やっぱり人間にならなきゃダメなんだよね。」

「そう、人間にしてもらわないとね。どんな人間にしてもらうかはまた別問題だよ。」

「残りの人生辛いね。そういう人は。」

「そういう人生も結構多いんだ。」

「君の場合はどうなの?」

「どうかな。傷だらけとは言えないけれど、日々傷を作り上げているのかもしれないな。修復不能のね。」

「ははは、自殺行為ってわけか。長い時間をかけての。」

「人間ほとんどそうなのさ。ところで、ここは時間が流れていないんだったよな。ピロティー。」

「いや流れているよ。君が生きているとすればね。死んでいれば時は存在しないよ。」

「ピロティー、コーヒーうまいかい?」

ピロティーはコーヒーをすすりながら目を細めた。

「ところでピロティー、たまには君の話も聞かせてくれないか。いつもカウンセラーよろしく人の話を根ほり葉ほり聞くばかりじゃないか。なんか嫌な感じだなあ。」

「そんなつもりはないけど、ただ君と話をしているとなぜだか心地いいんだよ。楽しい、という感情に近いかな。君のことをもっと知りたいんだ。」

「止せよ。女の子を口説くような台詞。キモチワルイヨ。」

「僕の何を聞きたいの?」

「そこに何かがあれば、人間知りたくなるものさ。特に僕の場合には君という存在の他何もないからねえ。まあいいや。じゃあ聞くよ。まず、君は突然僕の部屋に来て、そこらを遊泳して、折り見て僕に話しかける。一体君は何者なんだよ。」

「飛んでいるのは、そのように感じるだけだよ。突然来ることだって、これもどうにもならない。誰かにここに来るように命じられているような気がするんだよ。というべきか、自然にここへ来てしまうんだ。神のはからいとでもいうのだろうね。自らの意志なんてものを感じたことは、感じたことがない。あくまで自然の成り行きなんだよ。」

「君の存在というのは何だろうね。」

「そうだなあ。何かの組み合わせのようなものだろうな。」

「なんの?」

「様々さ。時間とか空間とか、共時性とかね。」

「難しいね。コンピューターのようなものではないのかな?つまり、人工的なもの何じゃないかな。」

「いや違うね。コンピューターなどより随分揺れがあるよ。学習機能も違うような気がする。人間の脳の方がより近いだろうな。」

「なるほど。分かったような分からないような。霊魂ではないのかな。それから、エネルギーの塊とかさ。」

「とにかく組み合わせなんだよ。ありとあらゆるものの。れと、偶然だよ。ちょっとした弾みから生まれてきたんだと思う。」

「ますます分からないな。でも感じは分からないでもない。それじゃあ何でここにあらわれるの?」

「その『何で』ってのがないのが僕さ。実は本当のところは僕にもよく分からない。『何で?』と聞かれても困ってしまうんだ。偶然と共時性のたまものなんだから。」

 彼はうつむいて自分の青くくすんだコーヒーカップを両手で握った。

「それでは、僕にとってのピロティーは、一体どんな存在なんだろう。」

「おお、そっちの方が意味のある質問だよ。君がいるから僕がいるんだし、君がいなければ僕は決してここには存在しないよ。」

「ふん。そんなものかねえ。僕は君を呼んだつもりは全くないのだけどね。僕が君を必要としているのか、君が僕を必要としているのか、一体どっちなんだい?」

「両方さ。君と僕はおそらくコインの表と裏のようなもの。君がプラスの世界に存在しているとすれば、僕はマイナスの世界に生きているんだ。」

「じゃあ、プラスとマイナスが接し遭ってしまうと、宇宙は爆発してしまうのじゃあなかったんだっけ?」

「物理学、宇宙論だね。仮説に過ぎないよ。仮にこの空間の外に出て、君と僕が出会えば爆発が起こるかもしれないけれど、この閉じた空間の内部にいる限り大丈夫さ。逆に言えば、ここだから、僕と君とが話ができるんだよ。」

「ここでなければ君と出会えなかったんだね。」

「その通り。」

「しかし、ここは子宮のようなものだね。だって、拒絶反応が起きないんだから。」

「ははは、そうだね。ここはそんなに悪いところではないよ。」

ふたりはしばらく、静かに笑いあった。彼は思った。

・・・ここも悪くない。ここにいても悪くない?ここにいる意味はあるんだろう。ここにいてもいい?いいよね。ピロティー、いや、神様、お母さん。・・・・

 ピロティーは彼を静かに見守っていた。あたかも、マリアが、観音様が慈愛を衆生に投げかけるかのようであった。ここは、暑くて寒かった。どちらとも言えなかった。どちらとも感じ取れなかった。

 


 彼はコーヒーを飲み終わった。

「僕の脳の中はどうなっているんだろうね。ときどき、僕の脳の中に、ウジ虫がうじゃうじゃいて、僕の脳細胞を食い尽くしてしまうような気がするときがあるんだ。」

「嫌な妄想だね。」

「いや、妄想じゃなくて、現にあることなんだよ。」

「そうなの?」

「脳って進化しているんでしょう?でも僕の脳は退化していっているよ。間違いなくそう感じる。ホントに虫に食い尽くされているか、微生物によって腐敗してしまっているようだよ。もう何年も前からね。」

「ここに来る前からも?」

「そう。かなり幼い頃から。」

「で、君の脳は今はどうなっているの?」

「ううん、分からない。昔とあまり変わりはないのかもしれない。」

「そうだよ、それは錯覚さ。脳細胞なんてものは、日々何十万と死んでしまっているんだから。・・・昔の記憶も少しづつ捨てられているんだよ。」

「幼い頃の記憶からかな。」

「どうだろう。」

「僕には、幼い頃の記憶の方が、実に美しく鮮明に残っているんだ。」

「みんなそうだろう。では、最近の記憶はどうなの?」

「それが、2,3日前のことすら良く覚えていない。というよりも、覚えられないんだ。不思議なことだよ。ここに来る前の記憶だけは、美しく、心地よく残っているんだ。」

「ここでの記憶は虫に食われるか、腐ってしまっているんだね。」

「ふふふ、」

「ここでの記憶は残らないし、気持ちが良くないんでは、本音としてはここにいたくないんじゃないかい。」

「違うよ。」彼は強く否定した。あたかも、ここにいることが正しいことであると、自分に思いこませようとするかのように。

「ここにいると気分はいいよ。ぼうっとしているかもしれないし、脳の働きが弱まっているかもしれないけどさ。心地いいんだ。」

「そうか。」ピロティーは能面のようなに無表情で言った。

「脳は不思議な現象を生むよ。記憶とか、知覚とか、時間とか。それらが混沌として、はじめて心地いいんだと思う。ときどき君も現れるしね。」

「僕がここに来たって仕方がないじゃないか。僕がいると楽しいの?」

「楽しい。と思う。何となくだけどね。すごくわくわくするわけではないけど、君といる時間は一瞬のうちに過ぎ去ってくれる。」

「じゃあ、僕といることを苦痛にしてあげるよ。ははは。」

「やめてくれよ。苦痛はもうこりごりさ。」

「どうして?」

「頭痛さ。もうずっと直らない。ここへ来るずっと前からさ。いつからか記憶がないくらいだ。物心ついてからすぐくらいじゃあないかな。ずんずんとね。」

「大変だね。今も痛むの?」

「もちろんそうだよ。今も、というよりずっとだよ。一瞬たりとて、痛みから解放されたことはない。もう数十年ね。」

「医者に診てもらったのかい?」

「もちろん。母親に連れて行ってもらった。学生になってからは方々の医者を自分で訪ね歩いたよ。」

「どうして痛むの?」

「それが分かれば苦労はしないさ。原因不明なんだ。偏頭痛でもないようだし腫瘍でもない。もっとも悪性腫瘍ならとっくに死んでいるけどね。頭痛が始まってから数十年たって、今も生きているよ。」

「ほう。」

「医者に行った回数、医者からもらった薬は数知れない。東京の中心の立派な大学病院まで足を運んだこともあるし、目、耳、歯から来ているのではないかって調べたよ。歯のかみ合わせを調整してもらったこともある。しかし一向に改善の兆しなしさ。ほとほとあきらめた。もうこのまま死ぬまでこの状態なんだろうって、覚悟しなければならないかもしれない。それは嫌なんだけれどね。昔みたいに、頭がすっきりしている状態に戻りたいよ。ところが、その良い状態というものが一体道だったのかが、思い出せないんだ。最近は医者通いは中断している。また、気がむいたら行こうと思っているんだけれどね。」

「自律神経のバランスの問題かい?」

「だから、原因はよく分からないんだよ。ただ、それがもっとも正解に近いのかもしれないけれどね。薬を飲むと少し良くなったような気がするけれど、それが薬が効いているのかそうでないかの判別すらできなくなってしまっているんだ。」

「気のせいじゃないのかい?」

すると彼は怒った声で、

「違う。確かに痛むんだ。これだけは現実だ。この痛みがあるから自分が生きているって確認できているようなものなんだ。いや、この痛みがあるから生きていけるんだ。」

「どういうこと?」

「誰だって、向上しようとして生きているだろう?成長とか、改善とか、何でもいいんだ。自分にとってのライフワークは頭痛の治療なんだ。これしか生きる目標がないんだ。」

「それじゃあ、頭痛がなくなったらどうするんだい?」

「わからん。別のところが痛み始めるかもしれない。」

「仮病だね。」ピロティーは苦笑した。

「何だって、違うと言っただろう。確かに痛むんだ。この痛みは他人には分からない。母親にいくら話しても理解してもらえなかった。医者だってそうさ。本当に分かって欲しいことが、少しも医者には伝わらない。あれこれ難しい理論を僕に押しつけてくるけど、僕はどの理論も信じることができなかったね。半分は信じようとしたけれど、半分は疑ってかかってしまうんだ。」

「半信半疑ってやつだ。」

「でも医者はありが対面もあるのさ。医者に行っていないと、何にも予定がなくなってしまうからね。ずっとここにいる僕だって、予定表が真っ白だっていうのはさびしいものさ。・・・今日は東京の医者まで行かなければならない。あー忙しい。・・・」

「バカだね。でも分からないでもないな。」

「予定を埋めること。予定表が黒く埋まっていることが目標で、その予定を実行に移しても楽しいことなんてほとんどないものなんだ。」

「確かにそうだ。予定はもう生まれたときには決まっている。後はそれをこなすだけ。君がここにいるのも予定通りかもね。」

「やめてくれよ。意志の力が予定表を書き換えることができるんだと、少しだけ信じているのだから。」

「まあいい。ところで、君は医者が好きなのかい?」

「すきだ。医者と言うよりも病院がね。薬品がかすんだあの匂い。死にかけたり、壊れている人々。僕の同類たちだよ。彼らの姿を見ると少し安心するんだ。でも待つのはあまり好きではない。大きい病院程待たされるからね。薬をもらうのすらずいぶんと待たされる。」

「いつも病気で痛いんだね。」

「はは、そうだね。その通りだよ。病院に行けるから。でも頭痛は嫌だ。これは本当だ。」

「君は、幼い頃親にかまってもらいたくて病気になった口何じゃないかい。」

「トラウマみたいなものってこと?そうかもね。その習慣買いまでも残っているのかもしれない。僕が熱を出せば、母親は仕事を休んで1日一緒にいてくれたからなあ。」

「理屈をよく知っているね。」

「心理学の本は随分読んだよ。こんなところにいるということは病気じゃあないんじゃないかって思ったからなあ。もちろん今でもその疑念は晴れないけれどね。」

「じゃあ、ここにいるのは病気だからってこと?」

「それが分かれば苦労はないよ。普通と異常という世間一般の解釈じゃあ異常に分類されるんだろうな。でもさ、異常なやつなんて、この世界中に山ほどいるんだ。みんな僕の仲間なんだ。だから僕は異常な人を探してまわる。するといるもんだ。世界は狭いね。自分よりもっとひどいと思われる症例の人もいるんだよ。文献によるとね。僕だけじゃないって、少しホッとするものさ。」

「同病相憐れむか。」

「そうかもね。随分昔に入院していたことがあるんだけど、わずかに心を許せる友人ができたよ。自分の病状や、人生観について語ったものさ。お互いにね。ところが、山嵐の法則ってやつなんだろう。仲が良くなりすぎると、つまり、心の内をさらけ出しすぎると、何となくその人との人間関係がぎすぎすし始めるんだ。大切なことを離した翌朝に、廊下で顔を合わせたときなんか、なんだかぞーとした気分になったことがある。自分たちの秘密を知りすぎてしまったから何だろうな。」

「それで離れてしまうんだね。」

「そう。秘密を離しているときにはアドレナリンが放出されまくって、興奮するんだけれど、次にあったときはそういう状態じゃない。テンションがぐっと下がっているんだ。だから、あのときのお互いの興奮は何だったんだろう、という疑問と、余計なことを話しすぎてしまったという後悔の念が先に立ってしまうんだ。だから話した相手の顔を見ると、今度はなぜだかムカムカしてくる気がする。」

「自分を見ているんだよ。鏡に映った自分をね。」

「吐き気を催すこともあるよ。今でも廊下で会ったときの情景を思い出すとぞっとするね。言ってはならないことを話してしまったって。」

「何を?」

「あんまり言いたくないことをさ」

「そう。話したくないなら言わなくていいけど・・・僕になら話せるかい?」

「まあね。君は他の誰にもしゃべらないだろうからな。・・・ところで君は友達はいるの?」

「ふふ・・・。いないこともない。でも一番の友達は君だと思っている。」

「ありがたいな。生きている価値があるってもんだ。誰にも気にかけてもらえない人生なんて意味がないものな。ときどき僕は、絶対的な孤独感に襲われて、世を恨んだりすることがあるよ。生きていてもしょうがないんじゃないかってね。」

「そんなことを言うなよ。僕がいるじゃあないか。」

 彼は少し目を潤ませているように見えた。ピロティーはそんな彼を少し悲しげに見つめた。

「誰kに関心を持ってもらえることはほんとに嬉しいことなんだって最近思うようになったよ。親は偉大だね。子どもに無条件で関心を払う。愛情を注ぐ。」

「でも、親にネグレクトされる子どももいる。

「そうだ。」

「君はどうだったの?」

 彼はわずかな間沈黙したが、また話し始めた。

「いや、僕はそんなことはなかったんじゃないかな。と、信じたいね。自分のことって、客観的に見ることがしづらいものなのさ。でも、居心地のいい家だったとは思わない。親同士の仲があまり良くはなかった様に感じて育ったもの。そんな様子を見ると、胸がずきずき痛むような寂しさを感じたことはあるな。」

「虐待はなかったんだろ。」

「そうだろうね。ただ、虐待を受けている子どもや、親のことを想像するだけで吐き気がする。いうことは、それに近かったかもしれない。」

「どうして?」

「自分を見ているようだからさ。鏡に映った自分だって、さっき君が言っただろう?」

「うん。でもそれは被害妄想だと思うな。悲劇のヒロインになろうとしているんじゃあないかな。」ピロティーはにやにやしながら話した。

「そんなことはないはずだよ。いい訳にしていると言おうとしているんだろ。僕は正直に話しているつもりだよ。」

「わかった、ごめん、深読みしすぎたよ。ところで、今は親との関係はどうなの。」

「放っておかれているんじゃないかな。それに会わないよ。会おうともしていないしね。」

「そうだよなあ。話をするのは僕だけみたいだからなあ。」

「いや、電話線の向こう側の匿名の人となら話をすることもあるよ。」

「おっ。」

「コンピューターさ。これを通じてならね。少しだけ。音じゃあないよ。文字でさ。もちろん深入りはしない。いくら匿名でもね。怖いもの。あのときのトラウマが甦ってくるからね。あくまで慎重な台詞回しでやっている。」

「いいじゃない。灰色の壁から外の世界に通路が開けているんだね。」

「始めたのは最近のことだよ。でも疲れてしまうんだ。」

「何で疲れるの?」

「いくら匿名でも相手は生身の人間だよ。心を持っている。こんなことを書くと相手が気を悪くするんじゃあないかって気にかけてしまう。基本的に人間恐怖症なのかもしれない。」

「気にしなければいいじゃないか。所詮匿名なんだから。」

「それはコンピューター上でも外の世界でも似たようなものさ。特に都市はね。匿名であふれている。でも、持って生まれた習性なんだと思う。臆病なんだ。」

「でも誰かと繋がっていたい。」

「う~ん。そうだね。否定できない。だからつい、コンピューターの電源を入れてしまうのさ。そして、しばらくつなげておくと嫌になってくる、疲れてくる。その繰り返しだよ。」

「繋がりたいというのは、一体何に繋がりたいんだろうね?」

「何って?」

「いや、人類史みたいなものかと思って。」

「人類史か。壮大だね。僕みたいなちっぽけな存在からすると笑ってしまうよ。おそらく人類史からは切り離されているんじゃあないかな。そうでもなければこんなところにはいない。きっと盲腸みたいなものだと思う。」

「異性とはどうかい?異性と繋がるとどきどきするだろう?」

「うるさいなあ。原初的な欲望は、僕の中にも残っているさ。それくらいは自分で分析できているよ。」

「無意識にね。」

「そう無意識にだ。理性って言うか、新皮質ではコントロールができない部分だ。」

「生きているんだね。」

「もちろん生きているよ。ただ生きているだけだけどね。排出と、袋小路に入った欲望の塊さ。ところで君だって生きているんだろ?」

「ふふふ、どうかな。ピロティーはそう聞かれると、後ろを向き窓の外を見やった。

「君は生きていないの?」彼は驚いたように聞いた。

「分からないんだよ。生きているのだか死んでいるのだか。それともそれ以外の状態なのか。とにかくそのことには触れないでおいて欲しいんだ。」

「わかった。もう聞かない。も、僕の方は、どうやら生きているようだ。下世話な欲望が体に沈殿していることは確かだからね。それが行動に出てしまうし。」

「いいんだよ、それで。生きているとは素晴らしいことだよ。」

「何言っているんだ急に。ありきたりなことを言うなよ。君らしくないよ。」

 ふたりはくすくすと笑いあった。

「ところで、君がさっき言いかけた不安って、まだ教えてくれていないじゃない?」

「うーん、そうだったね。それはね、まず僕自身が病気かどうかということなんだ。」

「病気?君が今、病気の状態だってことかい?君はそう思っているのかい?」

「いや、よく分からないんだ。まずは、治らない頭痛があるだろう。これは肉体的な病さ。とにかくこれはしょうがないこととして、問題は、自分がこうしてここに居続けていることがなのかどうか。」

「病気じゃないだろ。それとも心の問題を言っているの?」

「そう。」

「少なくとも、会話をしている状態を聞いていると、理性的に話ができているね。行動は、他の人とは少し異質かもしれないけどね。」

「ほら、そこだ!他人と比較している。異常かどうかってことが本当に気になるんだ。でもそれだけじゃないよ。これがもっと進行していくんではないかと。不安なんだ。今の状態なら低位安定ってことで、何とか生きていくことはできるんだろうけど。」

「やっぱり生きていきたいんだね。」

「そうだなあ。そうだよ。君は今理性的に話ができているって言ったよね。でも、一見理性的に話ができているようでも、全体を見れば辻褄が合っていない可能性がある。つまり僕は異常だってね。」

「それより進行するってどういうこと?」

「廃人になってしまうんではないかってことだよ。」

「廃人って、はっきり言うと、統合失調症のこと?」

「うん・・・」

「心配するな。統合失調症の人は、世の中にたくさんいるよ。軽い人は薬を飲んでしっかり生きているではないか。」

「嫌だ、嫌だよ。僕は理性を失いたくない。どうにかして、人や、この世界を見つめていたいよ。」

「見つめるだけ?コミットしないの?」

「今は関係ない。怖いんだ。いつ発狂するかさ。ものすごい不安が胸の中を渦巻いているんだ。夜、怖くて眠れないこともある。」

「夜寝ていないんじゃない?」ピロティーは苦笑しながら言った。

「昼でも夜でもどっちでもいいの。」

「とにかく不安なんだね。」

「そう。時折、心臓がどきどきして急に目が覚めることがある。いよいよその時が来たんじゃないかってね。」

「困ったね。余計に、不安神経症になってしまうのか。」

「心気症。譫妄。白昼夢。幻聴。幻覚。過敏性大腸症候群。起立性調節障害、軽鬱・・・」

「病気のデパート。」

「そうだね。」

「その方が安心するんだろう?何か病気をしていた方がさ。」

「そうだけど、発狂するのだけは嫌だ。それだけは勘弁して欲しい。」

「わがままだな。同じ、病気、というカテゴリーでくくれるぞ。」

「死ぬまで直らないものは困るんだ。」

「だって、頭痛は治らないんだろう?」

「何とか、世の中や、自分を見つめながら生きていけるんだよ。ああ、早く35歳くらいになりたいよ。」

「どうして?」

「早発性痴呆はそれくらいになるとならないそうだ。」

「でも、アルツハイマー性痴呆はその年代から始まるんじゃないかい?」

「それは先のことだ。」

「狂わば狂え、という心境にはならないんだね。」

「ああ、それだけは困る。そうなった知人がいる。その様子を見ただけで恐怖感が全身を覆ったよ。」

「君の場合は大丈夫なんじゃないかな。」

「どうして?その根拠は?」

「わからない。ただそんな気がするだけなんだ。それにしたって、気にしてもなるものはなる、ならないものはならない。成り行きに任せるほか仕方がないんじゃないかな。」

「分かっているさ、そんなことはね。でも不安になるんだ。心臓のどきどきが止まらない。」

「今度は心臓神経症になるわけかい?」

「うるさい!そうなったら抗不安薬を飲むだけだ。」

「薬頼みの現代人だね。」

「昔の人たちは、よく薬なしにやって行けたと、不思議に思うよ。」

「あんまり、君みたいな症例は少なかったんじゃないのか。」

「そうかな。僕みたいになったら、確実に座敷牢か何かに隔離されるんだろうね。世間から抹殺されてしまうだろう。」

「人類史の流れから排除されるってことか。」

「そうさ。つまり必要とされない人間という烙印を押されるまでさ。種としての人類は厳しいからね。僕みたいな虫けらを相手にする余裕はない。昔だったらね。」

「昔ってどれくらい前よ。」

「日本じゃあ江戸時代だろうな。世界史では分からないけど、19世紀より前じゃないか。」

「昔だったら、人類の進化、子孫を残すことから取り残されていたんだねえ。寂しいねえ。」

「そう。現代だから生きていられる。ありがたいよ。科学のおかげさ。」

「感謝しなくちゃね。」

「ところがさ、こんな時代だから僕はこんな症状になってしまったんじゃないかと思っているんだ。」

「ほう。現代という時代のせいにしようってのかい。」

「そういう面はある。ある意味で時代のビクティムスさ。」

「かっこつけて。」

「そう思わないとやってられないよ。」

「君は現代の、というのか、もう少し古い時代、すなわち近代かの犠牲者ってことになるのかな。」

「ということにしておいてくれよ。」

「何か少しだけ君のことが分かったような気がするよ。かわいそうな人間なんだね。」

「同情はいらないね。僕はひとりで生きていける。」

「そうかい。それじゃあ君は何を食べているの?パソコンで誰と話をしているの?」

「そりゃあ外部だ。与えられた条件に過ぎないね。そこまで僕が感謝する必要はないと思っている。」

「まあいいや。でも、君にも少しはギブアンドテイクという考え方もあるのだろう?」

「そりゃあ、心の中にはあるさ。でもギブはしていない。何にもしていないね。人様のお役に立つことなんざ、これっぽっちも立っていないよ。人類の進化の袋小路に入った遺伝子を持っているんだろうから、逆に、人類史にギブ・・・コミットしないことが、ギブしていることになりはしないかと思っているんだ。何かを与えるなんてそんなたいそうなエネルギーを要することはできないし、そんな能力もない。誰かに何か影響を与えたり、もっといえば遺伝子を残したり、人類が営々と受け継ぐ文化に一滴を垂らすなんて、そんなの無理だよ。仮にその能力があったとしても、そもそもそのためのエネルギーが枯渇しているよ。いつでもエネルギーが底をついていて、どこからか注入してもらいたいくらいだ。創造のエネルギーが欲しいよ。僕にだってね。」

 彼が少し長く話をして、ふとピロティーの方を見ると、もうそこには姿はなかった。彼は呆然と座り込んでしまった。それから少し後悔した。話しすぎてしまったんではないかと。ピロティーにも、山嵐の法則があてはまるのではないかと思った。しかし、彼の心の中には、昔病院で出会った、近づきすぎた友人たちとの間に感じた毒々しい気持ちは湧いてこなかった。やはりピロティーは人間離れしているんだろうと彼は思った。人間の持つ毒気を、彼からは全く感じなかったと、彼は、ついさっきまでそこにいたはずなのに、もうそれは随分昔のことであったように感じながら、そう思ったのである。



 

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