春深く
タイトルは全て作中に出てくる映画のタイトルです。
実在しません。
役者を目指すようになったのは彼をとある映画館で見かけたときからだった。
吉祥寺にあるその小さな映画館は
映写機で上映していた時代からの遺産であり今や流石にそれらアナログの面影こそ消え失せたが、会館自体には未だに古き匂いが残る。
最新のフィルムではなく名作や、自主製作等を上映しており
その筋のファンにはもってこいのレトロシアターだ。
僕はその当時映像の専門学校に通っており、主に製作や監督業を学んでいた。
都市改革の成果か区外でさえビル群の喧騒を免れないこの東京の地で、吉祥寺駅を降りて街路樹を潜り大通を突き進み自営店の立ち並ぶ商店街を越え奥の細道を曲がって曲がって行けば、ひっそりと隠れ家のようにそのシアターは姿を現す。
知っている人は知っている、僕にとってそこは秘密基地だった。
とある日、小雨の降る中授業を終えた僕は時間をもて余していた。
台風が近づいているということで、バイト先の居酒屋も店を三日ほど閉めると言う。
ふと思い立ちあのレトロシアターに何か映画を観に行くことにした。
『あの日の君は、今まで観てきた君の中で一等美しかったよ』
館内にはいると外よりもじめりとして
その上重いガラス扉の向こう側で降る雨がやけに遠く感じたので、なんだか世界中のどこよりも静かなようだった。
「雨、やまないですね」
「そうだねえ、このまま振り続けて風も出るだろうねえ」
観たい映画まで上映時間に余裕があったので、もぎりのおじいさんと世間話をしながら待った。
さあさあと降る雨は嵐の前の静けさのようで少し怖い。
相も変わらず待合室は人がほとんど居らず、一人で留守番をする子供のような気分だった。
「孫がなあ、中学生になったんだよ」
「へえ、早いですね」
「もう娘にここを任せて私は映画をゆっくり観る側に戻りたいなあ」
「ふふ、間宮さん、いつも覗いてるじゃあないですか」
おや、バレてましたか、と間宮さんは柔和な顔で微笑む。
よく笑う落ち着いた声がとても素敵なおじいさん。
間宮さんとお話しするのも僕がここに来る楽しみの一つだった。
ビーー
低音のような高音のような、上演のベルがなる。
チケットの半券を渡して僕はシアタールームへ入っていった。
『君だって、なんだか小説家の様な佇まいで素敵でしたよ』
『ううん、それは誉められているのかなあ』
中に入るといつからそこに座っていたのか、ホールの中央から二、三列後方の少し画面から右寄りの席にフードを被った人物が居た。
先程の待合室には居なかったので僕が会館に来るより前に入りずっとあの大スクリーンのカーテンが開くのを待っていたらしい。
ーこんな時間に自分以外があるなんて珍しいな…
少し不思議に思いながらもいつも自分が座る席へと僕は静かに移動した。
生活に支障をきたすほどでは無いもののさすがに暗い部屋での上映となる映画を観るには僕の目は些か焦点を合わせにくく、板書とこの時だけいつも眼鏡をかけている。
だからいつもより視界がはっきりした僕の目はもう一人の観客の涙を捉えてしまった。
映画が始まり古い紙芝居式の広告が終わると、岩に波打つ海に金色の棒有名映画会社のロゴが現れる。
いつか僕も会社を興せるほどの監督になりたいなあ、といつもこの瞬間胸に熱いものが込み上げるのだ。
一人の学生の熱意を奮い立たせて本編は静かに幕を開けた。
それはカラーが取り入れられたばかりの頃の作品なのか、画面が全体的に黄色味がかっていて尚のこと時代を感じさせた。
舞台は京都。
呉服屋の娘が幼馴染みである舞妓の少女に恋をしたが叶わぬ恋だと時折新調しに来る彼女の横顔を眺めるばかりで、そっと機を織りながら想いを募らせ涙を流す。
終盤に差し掛かり、呉服屋の娘の見合い相手が彼女の憂いに気づき舞妓の幼馴染みへの恋心を後押ししてくれるが病に倒れた彼女に呉服屋の娘は最期まで想いを伝えることなく、隣で死に際を看取る、という切ない内容のものだった。
淡い描写と少ない台詞で描かれたそのストーリーに僕は魅入るばかりで、すっかり自分以外に観客がいることを忘れていた。
エンドロールが始まり、僕は暫く流れていくキャストを無意味に眺めながら余韻に浸っていると、その人は不意にぐらりと揺れた。
そこでようやく他人の存在を再び関知した僕はついつい大スクリーンよりその人の背中に興味を持っていかれてしまった。
あまりに細く、服越しにも背骨が見えそうなか弱い後ろ姿から、勝手に女性だと判断したが、その数秒後僕はその人の性別よりちらりと見えた横顔に涙が伝っていることにぎょっとする。
確かに素敵な物語ではあったが感動ものではなかった。
人の感性など十人十色と言われればそれまでだが、そのときの僕はその涙に感涙とはたがうものを感じたのだ。
一瞬垣間見たその横顔は端整で鼻筋が通っており長いまつげが瞳を覆い隠すような仕草を見せていた。
健康的でないほどの透き通った白い肌。
桜色の薄い唇の横をつうーっと涙は走っていった。
僕がその人に声をかけるのに時間はいらなかった。