刻印
飛行機と船を乗り継ぐこと二時間、三人は民宿マブヤに到着した。
「いらっしゃいませ、春日様でいらっしゃいますね」
「はい。お世話になります」
一通り挨拶を済ませると、三人は部屋へと案内された。その部屋は窓から海が一望でき、三人はしばしその景色に見とれた。
「そこからは夕陽が沈む様子がご覧になれますよ」
「へー、ロマンチック」
咲と里絵はイメージを膨らませ、口元を緩ませた。
「お食事は、朝七時から九時と夕方十八時から二十時までとなっております。お風呂は十七時から二十二時まで、男女別となっております。それでは、ごゆっくりどうぞ」
従業員は一通り説明を終えると、一礼をして部屋を後にした。
三人はしばらく部屋でくつろいだ後、とりあえず辺りを散歩することにした。
「あれ、かわいくない?」
「うん、かわいいね」
咲と里絵は蛙がサーフィンをしている置物を見つけると、土産屋に駆け寄った。
「もうお土産買うの?」
戒はゆっくりと二人に歩み寄った。
「どうしようかな?」
「いいのがあったら買うかもしれないね」
二人が話しているのを聞き、
(また、荷物持ちか)
戒は苦笑を浮かべた。そして、案の定二人は結局お土産屋さんで買い物をすることとなった。そして、一通り買い物を終えると、海に夕陽が沈むのを眺めながら三人は海沿いを歩いて民宿に戻っていった。
民宿に戻ると夕飯の支度がされていた。
「うわー、豪華」
海の幸から沖縄名物まで民宿料理とは思えない豪勢な料理が並んでいるのを見て、咲は瞳を輝かせた。
「初日だけですよ」
民宿の女将は咲に微笑みかけた。そして、三人は席に着くと早速料理に箸を入れた。
食事を終え、部屋に戻ると咲と里絵はすぐさま風呂へと向かった。戒は部屋に残り少し休むことにした。
「ここもまた綺麗」
「食事といい、お風呂といい、いい民宿だね」
二人は風呂に入ると、それから些細な話で盛り上がった。
風呂から上がり、二人が部屋の近くまでくると、戒が風呂に入る支度を整え、部屋から出てきた。
「お兄ちゃん、お風呂もいい感じだよ」
「へー、それは楽しみだ」
戒は子供のように笑いながら、小走りで風呂へと向かった。咲たちは部屋に戻ると、里絵はドライヤーで髪を乾かし、咲はタオルで髪を拭きながら窓を開け、星を眺めた。
しばらくすると、咲は誰かが浜を歩いているのに気がついた。咲はクスッと笑うと、
「ちょっと外を歩いてくるね」
里絵に一言告げ、ニコニコ笑みを浮かべながら部屋を出て行った。
「一人は危ないよ」
「大丈夫。私にはボディーガードが付いているから」
里絵は咲の言葉の意味を理解すると、ニヤリと笑い咲の背中を見送った。
咲は民宿を出ると、浜まで歩いていった。
「監視してなくていいんですか?」
咲は浜を歩いている小柳に話しかけながら、ゆっくりと近づいた。
「すまないね。折角の旅行なのに刑事が監視していたら羽が伸ばせないだろう」
「いいえ。十分楽しんでいますし、楽しみますから安心してください」
咲が優しく微笑みかけると、小柳は一瞬咲の笑顔に見とれた。すると、小柳はみるみる頬を赤らめ、咲から目を逸らした。
「座って少しお話しませんか?」
その様子をみた咲はクスッと笑うと、砂浜に腰を下ろした。そして、二人はしばし何気ない話で盛り上がった。
「明日から一緒に行動しませんか? そのほうが監視もしやすいでしょうし」
「……正直、君は監視する必要がないと思っている。でも、これが仕事だし、万一のため感情移入を避けたいんだ」
小柳はうつむきながら冷たく言い放つと、咲は黙ったまま突然立ち上がった。
「バカ」
咲は一言悲しげな表情で言うと、黙ってその場から走り去った。小柳はハッとして振り返り、走り去る咲の背中に慌てて声をかけようとしたが、掛ける言葉が何一つ出てこなかった。
風呂から上がり、部屋に戻ってきていた戒はその様子を窓から眺めていた。小柳に向けられるその眼があまりに冷ややかで、一緒に部屋にいた里絵は一瞬寒気を覚えた。
しかし、咲が部屋に戻ってくると、戒はいつものように優しい笑顔で微笑みかけた。咲もまた微笑み返すと、部屋の雰囲気は穏やかになり、里絵も安心したのか三人はゆったりと夜を過ごした。
翌日は咲と里絵が希望していたダイビングをすることとなった。
三人は昼食を終えると戒があらかじめ調べておいた、ダイビングの資格を持たない初心者でも潜ることができる施設へと移動した。その施設は民宿から歩いて行ける距離にあり、しかも海沿いにあるために移動の便はよかった。
「念願のダイビングだよ。ダイビング」
「楽しみだね」
咲と里絵はキャッキャッとはしゃぎながら戒の後ろをついて施設の中へと入っていった。戒はダイビングにあまり興味がないらしく、咲と里絵は受付を済ませると、二人でインストラクターの指導の下、複数名と一緒に講習を受けることとなった。
「では、浅瀬で練習してみましょう」
講習が終わるとインストラクター先導の下、咲たちは海に向かった。
「うわー、綺麗」
咲は光り輝く海に瞳を輝かせた。
「咲、早く練習しよう」
里絵に手を引かれて咲は海に入っていった。
しばらくして、咲たちは船に乗って沖へと移動した。
「では、潜りましょうか?」
インストラクターの許可が下りると、複数名は慣れた感じで一斉に海の中へ飛び込んだ。
「私たちも行こう」
咲は少し緊張し気味の里絵の手を引くと、優しく微笑みかけた。
「う、うん」
里絵は咲に先導されるがまま海に飛び込んだ。
海に入ると魚の群れが咲たちの目の前を通り過ぎていった。咲たちは瞳を輝かせ、互いに互いを見て微笑むと、手を繋いだまま魚の群れを追いかけた。
一方、小柳は咲たちが船に乗って移動するのを木陰からそっと見送ると、浜に出てきて腰を下ろした。そして、思いつめた表情でうつむき、時折ため息をついた。
「監視役なのにこんなところにいていいんですか?」
戒は後ろから声をかけると、振り返る小柳に缶ジュースを手渡し、横に腰を下ろした。
「彼女の笑顔を見る度に彼女を監視している自分に罪の意識を覚えます。」
小柳はうつむいたまま力強く言った。
「じゃあ、監視なんて止めて一緒に楽しみませんか?」
戒が優しく微笑みかけると、小柳はその顔に咲の笑顔を重なり合わせた。
「彼女の笑顔は春日さんがいてのものかもしれませんね」
小柳は寂しそうな表情を浮かべながらも笑顔を作りながら小さくつぶやいた。
しばらく沈黙が続くと、咲たちの乗った船が戻ってきた。
「仕事に戻ります」
小柳はそう言うと静かに立ち上がった。
「そうですか。 ……小柳さん、これからも咲を見守ってあげてください」
戒の言葉を聞くと、小柳は小さくうなずき、その場を去っていった。
「お兄ちゃん」
戒のもとに駆け寄る咲は、小柳の背中を見て足を止め、悲しげな表情を浮かべた。
「楽しかった?」
「うん。海はすごく澄んでいたし、魚の群れが目の前を通っていくのなんてもう絶景」
戒が穏やかな顔をして尋ねると、咲は沖縄の海のように輝いた瞳で答えた。
「咲、自分の荷物くらい持ってよ」
後方から走ってくる里絵は二人分の荷物を抱えていた。
「こら、咲」
戒は咲の頭をコツンと叩くと、里絵に歩み寄り二人の荷物を持った。
「あ、すみません」
里絵がニコッと笑うと、戒も優しく微笑み返した。その様子を見て咲が冷やかすようにニタニタ笑っていると、戒は咲の荷物だけをその場に置き、
「さぁ、里絵ちゃん。施設に戻って着替えようか」
と、里絵と一緒に歩いていった。
「あーん、お兄ちゃん」
咲は荷物を手にすると甘えた声で戒のもとへと駆け寄った。戒は満足気に微笑むと咲の荷物を持ち、三人は施設へと歩いていった。
そうして、三人が民宿に戻る頃、すでに夕陽が傾いていた。
「おかえりなさい。ダイビングのほうはいかがでした?」
「もう、最高でしたよ。沖縄の海は本当に美しいですね」
咲は今日感じた感動を必死に伝えた。
「お疲れのところすみません。夕飯の支度が少し遅れそうなものですから、部屋でお待ちいただけますか?」
従業員との話も盛り上がってきた頃、女将が申し訳なさそうな表情を浮かべながら咲たちのもとにやって来た。
「わかりました。出来たら呼んでいただけますか?」
「畏まりました」
戒が優しく微笑むと、女将は丁寧に答えて小さく頭を下げた。すると、戒は荷物を持ち直し、三人は部屋へと戻っていった。そして、三人は夕飯の時間まで部屋でしばし休息することにした。
部屋に戻り、咲と里絵は一通りダイビングの感動を戒に伝えると、咲はぼんやりと沈む夕陽を眺めていた。人が浜を歩く姿を見てはすぐさま反応するその姿は、まるで誰かを探しているようにも見えた。そんな夕陽に染まる咲の横顔を戒はただ静かに寂しそうに見つめていた。すると、トントンっと扉をノックする音が聞こえた。
「お食事の支度ができました」
「はい。すぐ行きます」
戒は返事をし、ゆっくりと立ち上がった。
「ご飯、ご飯」
咲は大きく伸びをすると、笑顔を作りゆっくりと立ち上がった。そして、三人は食堂へと向かった。
夕飯を終えると、昨夜同様に咲と里絵は風呂場へと直行した。
「ダイビングしようか?」
咲は他の宿泊客がいないことをいい事に、子供のようにはしゃいだ。そして、身体が温まると、のぼせる前に風呂を上がった。
「ジュース買ってくるね。咲は何がいい?」
「じゃあ、コーヒー」
里絵が民宿のすぐ外にある自販機に向かうと、咲は先に部屋へと戻っていった。すると、部屋の灯りが点いていないことに気がついた。
(お兄ちゃん、お風呂かな?)
咲が静かに扉を開けると、部屋の奥から何やら話し声が聞こえた。
「クックック。お前がどんなにあの娘を想おうとも、あの娘は違う男に惹かれている。いい加減、あの娘を引き渡せ。そうすればすべてを楽にしてやる」
「お前にさえ渡らなければそれでも構わないさ。どの道、俺にはその資格がない」
部屋の中に入った咲は、戒以外の誰もいないはずの部屋から野太く不気味な声を聞くと、驚きのあまり勢いよく扉を閉めた。
「誰かいるのか?」
「……咲」
戒が強い口調で問うと、咲は震えるような声で答え、ゆっくりと奥へと入っていった。そして、部屋の中を見渡し、戒のほかに誰一人いないことを確認した。
「ねぇ、誰と話していたの?」
咲は少し怯えた表情で戒に尋ねた。
「ん、携帯電話で仕事関係の人と話していたんだ。クライアントのことで少しもめていてね」
戒は穏やかな表情で微笑みかけたが、咲は疑念を拭い去れなかった。
「お兄ちゃん」
咲は深く追求しようと口を開いた。
「さぁ、お風呂に入ろうかな」
戒は咲の様子を察すると逃げるように部屋を立ち去った。すると、咲は一人静かに暗い部屋でうつむいた。
『笑顔でいてあげてね』
哀の声が頭に響くと、
「うん。わかっているよ」
咲は小さくうなずき、答えた。
戒が風呂から上がり部屋に戻ると、咲は笑顔で迎え入れた。
「明日は三時に民宿を出るから」
戒は二人の横に座ると、頭をタオルで拭きながら話しかけた。
「三時か。おみやげを買いに行ったら終わりかな?」
里絵は咲の顔を窺った。
「でも、最後に少し泳ぎたいよね」
咲は里絵の方を見ると、戒の顔をチラッと見た。
「じゃあ、朝おみやげを買って、昼食を食べたら少し泳いで帰る。これでどう?」
戒が二人に提案すると二人は笑顔で首を立てに振った。そして、三人はしばらく雑談を楽しんだ。
「今日は少し疲れたなぁ」
夜も更けると、咲はあくびをしながら言った。
「じゃあ、明日に備えてもう寝ようか」
里絵はニヤリと笑うと横に敷いてある布団を咲に被せた。咲はそのまま里絵に覆いかかり、二人は猫のようにじゃれ合った。
「はい、灯り消すよ」
戒は呆れた顔をすると、部屋の電気を切った。
翌朝、戒に叩き起こされると咲たちは予定通り買い物に出かけた。
店に入る度に必ず荷物が増えてゆき、戒の両手は二人の荷物でみるみる塞がっていった。
「もう持てないよ」
咲が雑貨屋に入ろうとすると、戒が敵わず声を上げた。
「大丈夫ですよ。いざとなったら、後ろにもう一人いますから。ね、咲」
里絵が咲に笑いかけると、咲は一瞬表情を曇らせた。しかし、すぐさま笑顔を作り、
「大丈夫。ここからは自分で持つから」
二人に微笑みかけると、まるで誰かから隠れるようにうつむきながら店の中に入っていった。戒は静かに目を閉じ、ため息をついた。しかし、その様子を悲しそうに見つめる里絵の視線に気づくと、優しく微笑みかけた。
「さぁ、入ろうか」
戒は里絵を先導して店の中に入っていった。
買い物を終えると三人は民宿へと戻り、沖縄で最後の昼食を摂った。そして、咲と里絵は水着に着替えると腰の重い戒を部屋に残して海へと駆けていった。
咲と里絵は民宿で借りたスノーケルを装着すると、海へと飛び込んだ。そして、咲たちは魚たちとの最後の遊泳を楽しんだ。
しばらくして咲は陸に上がると、戒がまだ来ていないことに気がついた。
(もう、最後の日なのに)
咲は呆れ顔で息をつくと、浜に上がった。そして、持ってきていた白いコートを羽織ると、一人波打ち際を歩いて回った。時々顔を見せる里絵に足元押し寄せる波を蹴り上げては、里絵に水をかけられてと、二人は穏やかな時間を過ごした。
戒は部屋で帰りの支度をし、しばし休息をすると渋々海辺へと向かった。すると、戒は木陰から咲を寂しそうに見つめる小柳の姿を見つけた。戒はそっと背後から小柳に近寄ると、静かな口調で話しかけた。
「あなたは咲よりも仕事のほうが大事なようだ」
「……」
小柳は一旦振り返り、戒の顔を見るとうつむくき黙り込んだ。
「あなたがどういう想いを抱いているかは関係ない。ただ、咲に悲しい想いをさせないで頂きたい。あいつに似合うのは笑顔であって涙ではない」
戒は険しい表情で静かに言い放つと、咲のいる浜へと向かおうと足を向けた。
「あなたは彼女をどう想っているのですか?」
戒は小柳の言葉に足を止めた。
「彼女は私のすべてです」
戒は堂々と答えると波打ち際で遊ぶ咲の姿をまっすぐ見つめた。
「……すべてですか」
小柳の煮え切らない態度に戒は苛立ちを浮かべた。
「最後まで咲は私が守ります。誰の手にも渡さない」
「最後まで? どういう意味ですか?」
戒の言葉に小柳は頭をひねった。
しばらく沈黙が続いた。戒はそれ以上何も言わずに黙って歩き始めた。
「ちょっと待って」
小柳が声をかけると同時に小柳の携帯電話が鳴った。戒は振り返ることなく咲のもとへ向かった。
「お兄ちゃん」
戒がこちらに歩いてくるのを見かけると、咲は大きく手を振った。すると、戒が鼻を掻きながら照れた表情を浮かべたため、咲は満面に笑みを浮かべた。
「お兄ちゃん、最後くらい一緒に泳ごう」
海に来たというのに一向に泳ごうとしない戒に声をかけた。しかし、戒はただ首を横に振るだけであった。
痺れを切らした咲は戒の手を引こうと戒のもとに駆け寄ろうとした。しかし、その瞬間左胸が急に苦しくなり、咲は胸を押さえたままその場にうずくまった。
「咲?」
戒は慌てて咲に駆け寄ると、咲を仰向けにして上半身を起こした。里絵も戒の声に反応し、咲のもとに駆け寄った。すると、血が滲むように咲の胸元に刺青が徐々に浮かび上がってきていた。
戒はそれが鳴海と同じ刺青であるとわかると、
「刺青のことは誰にも言うな」
鬼のような形相で里絵に強く念を押した。そして、戒は刺青を隠すためにコートのボタンを閉めると、抱え上げて民宿へと戻っていった。
咲は薄暗い部屋の中、布一枚を身体に巻きつけた状態で祭壇に拘束されていた。
(ここはどこ? また夢の中?)
咲が冷静に状況を把握しようと思考を巡らしていると、咲は数人に取り囲まれていることに気がついた。
『誰? ここはどこ? お願い、放して』
咲が必死に訴えかけても誰一人声を発することなく、ただ左胸に右手を置いて瞑想をしていた。
その異様な光景に恐怖を覚えながらも咲は目を凝らして注意深く観察した。すると、その人たちの左胸には鳴海と同じような刺青が彫られていた。左胸だけではなく、床にも文字のようなものが描かれており、その模様はテレビなどで見るような魔方陣によく似ていた。
(何これ? 怖いよ。夢なら早くさめて)
その中心で拘束されている咲は、心の中で必死に叫んだ。しかし、その想いも届かず、司祭のように神々しい衣装に面をつけた人物がゆっくりと咲に歩み寄った。そして、その者は咲の胸に手をかざしながら言葉を発し始めた。
『集いし我ら六名の命を楔として、悪魔との契約のもとにこの娘の魂をこの世に繋ぎ留めるものとする』
そして、その者は奇妙な呪文のような言葉を唱え始めた。咲は異様な雰囲気に滝のように冷や汗を流し、恐怖でもうろうとする意識の中、唯一日本語で話された言葉の意味を考えた。
『悪魔よ。彼ら刻みし胸の刻印を五芒星の鎖とし、この娘の魂を黄泉返らせよ。そして、我が胸の刻印とこれより刻む彼女の刻印をこの娘の魂の楔とせよ』
その者は両手を広げて天を仰ぐと、祭壇の四方にあるたいまつの一つから、火にくべてある小刀を取り出した。
(悪魔? 何言っているの?)
恐怖で声が出なくなった咲は、
(もうやめて)
必死に首を横に振った。司祭のような人物はそれに気がつかないのかそれを見ぬ振りしているのか、無言のまま小刀を咲の胸元に近づけた。
『Great Earth Mother Blessed Be. Grimoire Guerir.』
呪文のような言葉を咲の耳元でつぶやくと、その人物は咲の胸に刻印を刻み始めた。
『いやー』
苦痛に思わず身体を反らせると、咲を取り囲む五名の中に咲の目には見慣れた人物の姿が映った。
『お父さん』
暗がりにうつむいていたが、間違えるはずのない鳴海の姿に、咲は困惑しつつも救済の声を上げた。しかし、鳴海は左胸に手を置いたまま動作一つすることはなかった。
『悪魔との契約のもと、黄泉返りはここに成る』
咲は左胸に刻まれた刺青を見ると、極度の恐怖から意識を失った。
陽が沈みかかる頃、咲が意識を取り戻すと小柳の声が聞こえた。
(よかった。やっぱり、夢だったのね)
咲は安堵の表情で一息つくと、
(小柳さん、心配して来てくれたのかな)
嬉しく思いつつ眠った振りをしながら、そっと聞き耳を立てた。
「十四時頃、川本さんが意識を失う少し前に北海道の富良野で四人目の犠牲者が出ました。今回も刺青を断ち切るかのように刃物が左胸に入っていたそうです」
(よかった。やっぱりお兄ちゃんは事件に関係していなかったんだ。)
少なからず戒に疑いを向けていた咲は再び安堵の表情を浮かべた。
「では、監視を解いて東京に戻ってくるよう北島刑事に言われているので、失礼します」
小柳が静かに立ち上がると、里絵は冷ややかな視線を送った。
「咲の意識が戻ることを確認せずに帰られるのですか? その程度の想いならばもう咲には近づかないでください。あなたでは咲を支えられない」
戒は咲の顔を見つめながら落ち着いた口調で小柳に言った。
「……わかりました」
小柳は悲しそうな表情を浮かべながらもはっきりと答えると、静かに部屋を出て行った。扉が閉まる音を聞くと咲はゆっくりと目を開けた。すると、咲の目からは涙が溢れ出た。
「起きていたのか?」
「う、うん」
悲痛な表情を浮かべる戒を横目に、咲はしばらくの間天井を見つめたまま、黙って涙を流し続けた。
翌朝、戒の仕事を気遣って、咲たちは昼の便で帰ることにした。
「無理することはないよ。連絡してあるからもう一泊したって構わない」
タクシーに荷物を載せる咲に戒は心配そうな表情で声かけた。
「もう、大丈夫。だから帰ろう」
咲は笑顔で答えると、戒が持っていた荷物もタクシーに載せた。その表情を見た戒は咲の意思を尊重することに決め、
「わかった。帰ろう」
咲の肩に手を掛け、タクシーに乗り込んだ。
「ごめんね、里絵。楽しい旅行のはずだったのに、最後に大変な想いをさせちゃって」
「ううん、気にしないで。旅行、楽しかったよ」
笑顔で答える里絵を見て咲は気が緩んだのか、自然と涙が咲の頬を伝った。
「ごめんね」
うつむき涙を流す咲を里絵はただ黙って抱き寄せた。そして、一通り涙を流した咲は、いつも通りの笑顔で、里絵と思い出話をしながら東京へと帰っていった。




