転機
『……は生きていてはいけないの』
咲は暗闇の中で再度声を聞いた。
『あなたは誰?』
咲は声を上げ、辺りを見回した。
『私はあなたよ。私は哀』
『それはどういう意味? それに誰が生きていてはいけないの?』
必死に尋ねる咲だが、答えは返ってこなかった。
カーテンの隙間から差し込む光に包まれ、咲は静かに目を開けた。
「咲、北島さんが来ているよ」
「ノックぐらいしてよ」
戒が咲の部屋のドアを開けると、咲は枕を投げつけ頬を膨らました。
鳴海の死去で身寄りのなくなった咲を隣近所の人々や商店街の人々が引き取りたいと名乗り出たが、戒が精神科医ということや咲の希望もあって、戒の父親賢志が引き取り、咲は戒のマンションから高校に通っていた。
「悪かったよ。さぁ、早く着替えて起きておいで」
戒はそう言うと、逃げるように部屋を出て行った。咲は大きく伸びをすると眠い目をこすりながら静かに立ち上がった。そして、着替え終わるとリビングへと向かった。すると、リビングには椅子に座ってお茶をすする北島の姿があった。
「すみませんね。せっかくの日曜日に朝早く押しかけてしまって」
「いいんですよ。起こさないと昼まで寝ているんですから」
戒が咲のほうを見て、笑いながら言うと、
「余計なことは言わなくていいの」
咲は頬を赤らめながら恥ずかしそうに怒鳴りつけた。
「ハハハ、元気そうで安心しました」
その様子を見ていた北島は、声を上げて笑った。
「それで、今日は?」
咲が北島に尋ねると、北島はすぐさま真剣な面持ちに変わった。
「今日伺ったのは捜査状況を伝えるとともに、発見当時の状況を説明して頂くためです」
咲は北島が話し始めると席に座った。そして、戒の出した湯飲みを両手で握り、ジッと見つめた。
「鳴海さんは、心臓を一突きされており、ほぼ即死であったと考えられます。近所の方が、犯行時刻に黒いコートの人間が走り去るところを目撃していますので、おそらくその人物が犯人であると思われます」
「犯人の特定に繋がる手がかりは何か得られているのですか?」
戒が横から口を挿むと、北島は大きく首を横に振った。
「犯人について何か知っていることありませんか?」
北島は咲に問いかけた。
「ごめんなさい。父にはお客さんが来ているから部屋に来るなと言われただけで、他には何も聞かされていないんです」
咲はうつむきながら、静かに答えた。
「では、これについて何か知りませんか?」
そう言うと、北島は一枚の紙を取り出した。紙には文字のようなものが書かれていた。
「いえ、見たこともありません。何ですか、それ?」
それを見るなり咲は不思議な表情を浮かべた。
「鳴海さんの心臓部に同じものが彫られていました。何かの文字あるいは記号ではないかと考えて調べを行っていますが、未だこれが何を指すのかわかっていません」
「刺青ですか? それは事件と関係があるんですか?」
戒は席に腰掛けると北島に尋ねた。
「わかりません。ただ、可能性があることは調べておかないと」
北島は答えると、ゆっくりとお茶をすすった。そして、それからしばらく沈黙が続いた。
スズメの声が静かに響き渡る静けさの中、再び北島が口を開いた。
「アイというのは誰だかわかりますか?」
突然の質問に目を丸くする咲を前に、
「いや、ね。事件当時に咲さんが『アイ?』と言ったことが妙に引っかかりまして」
北島は話を続けた。
「私が言ったんですか?」
「ええ。確かに」
咲が驚いた顔で尋ねると、北島は強い口調ではっきりと答えた。
「……そうですか。でも、私の知り合いにアイという名前の人は一人もいません」
咲は複雑そうな顔を浮かべたままうつむくと、湯飲みを見つめた。
「事件のショックで意味もなく口に出てしまっただけでしょう。こういう事件の被害者や目撃者にありがちな症状ですよ」
咲の様子を見ていた戒は、弁護するかのように北島に説明した。
「そうですか」
北島は渋い顔のまま咲をジッと見た。
「今日はこのくらいにしていただけませんか? 少し頭痛がします」
咲はうつむいたまま、北島に静かに言った。北島はしばらく考えた後、
「わかりました。何か思い出したことがありましたら連絡ください」
穏やかな口調で咲に声をかけると、ゆっくりと席を立った。戒は玄関まで北島を見送ると、リビングへと戻った。
咲は湯飲みを握ったまま、静かにうつむいていた。
「ご飯を食べたら散歩でもしようか?」
その様子を見て戒は、心配そうな表情で話しかけた。
「うん」
咲はうつむいたまま小さな声で答えた。
連日降り続いていた雨も止み、外はめずらしく雲ひとつない晴天に恵まれていた。
「やっぱり晴れていると気持ちいいね」
咲は元気に笑いながら駆けていくと、
「走ったら散歩にならないだろう」
咲の元気そうな様子を見て安心したのか、戒も穏やかに微笑みながら咲を追いかけた。しかし、日頃の運動不足が祟って、咲になかなか追いつけない戒は、すぐに息切れを起こしてしまった。
「お兄ちゃん、もう歳だね」
咲は戒をからかうと、優しく微笑みながら戒の手を引いた。
「公園に行こうか?」
「お兄ちゃん、休みたいんでしょ」
戒が息を切らしながら言うと、咲はニヤリと笑った。そして、戒の手を強く引っ張ると、咲は全力で駆け出した。
「ばか、咲」
戒は息を整える間もなく、咲に引っ張られるがまま走っていった。
公園に着くと、久しぶりの運動で不甲斐なくも汗だくになってしまった戒は、膝に手を乗せて身体を支えた。そして、切れた息を整えると同時にすぐさま空いているベンチを探した。しかし、久しぶりの晴天で、しかも日曜日ということもあり、めぼしいところは子供たちや家族連れでほとんど埋め尽くされていた。
「あの木の下で休もうか?」
戒が一生懸命休むところを探している姿を横目に、咲はクスッと笑いながら、公園の隅にある大きな木を指差した。
「そうしよう」
待っていましたと言わんばかりに戒は満面笑みで答えた。咲はその顔を見て、再度笑いながら戒の手を静かに引いて歩き出した。
咲は木陰に座ると、遠くでボールを蹴って遊ぶ少年を見つめていた。
「まだ、辛いか?」
あまりに切なそうなその横顔に、戒が思わず尋ねた。
「まぁ、ね。でも、お兄ちゃんがいてくれるから、そんなでもないかも」
咲はゆっくりと戒のほうに顔を向け、静かに微笑んだ。
「ごめん、変なこと聞いて。悲しげな表情を浮かべていたから、つい」
戒はそう言うと、咲から目を逸らし、ゆっくりとうつむいた。その様子を見ていた咲は、穏やかな表情で空を見上げ、静かに話し始めた。
「最近ね、私変なの。突然、見たこともない情景が浮かんできたり、女性の声が聞こえたり」
「女性の声?」
戒は咲の横顔を見つめた。
「うん。北島さんには黙っていたけれど、哀っていう人の声。突然声が聞こえたり、夢に出てきて訳のわからないことを言ったりするの」
「たとえば、どのようなことを言うの?」
戒が尋ねると、咲は一瞬恥ずかしそうな表情を浮かべた。そして、
「私はあなた、だって。私って二重人格なのかな」
咲はうつむきながら続けると、自分で自分を笑いあげた。戒は咲の言葉を聞くなり、目を丸くし、難しい表情を浮かべた。
「私、病気なの?」
そんな戒の表情を見て、不安を抱いた咲は心配そうに尋ねた。すると、戒は一瞬ハッとした表情を浮かべたが、
「大丈夫だよ。あんな事件があったせいで一時的に記憶が錯乱しているだけだと思う」
微笑みながら咲に安心するよう言った。
「……そう。そうだよね」
咲は困惑した表情を浮かべたが、戒に心配をかけないように笑顔で答えた。
しばらく、二人静かに空を見上げていた。すると、先ほどまでの穏やかな陽気が一転し、風が強く吹き始め、それに乗って雨雲が徐々に空を覆い始めた。
「雨、降りそうだね」
咲が落ち着いた口調で言うと、
「ああ。帰ろうか」
戒はゆっくりと立ち上がり、咲に向かって手を伸ばした。咲は軽く微笑みながら戒の手をつかんで立ち上がると、ズボンに付いた砂を払った。そして、再度戒の手をつかみ、歩き始めた。
「近道しようか?」
公園を出ると咲はニコッと微笑み、戒の手を引いて狭い路地へと入っていった。
「よく知っているな。こんな道」
戒は咲に手を引かれるまま、狭い路地へと入っていった。比較的緑の多いその路地は、風にあおられ、植物の青々とした穏やかな香りが醸し出されていた。
「この香りが好きで、時々通って帰るんだ」
咲は戒のほうを振り向き、笑顔を見せた。
(よかった。咲、笑えている)
その笑顔を見た戒もまた、つられるように笑顔になった。
二人が狭い路地を抜けて、駐車場を横切ろうとしたとき、咲が突然立ち止まり、一点を見つめたまま硬直した。
「どうした、咲?」
戒は立ち止まった咲の顔を覗き込みながら尋ねた。すると、同時に頭上に雫が落ちてくるのを感じた。
「雨だ。急ぐぞ」
戒は空を見上げながら言うと、再度咲の顔を覗き見た。
「戒」
咲は呆けたまま一言発した。聞き覚えのある、しかし、明らかに咲とは異なる声色に戒は驚き、咲の見つめている先に視線を移した。すると、視線の先には一人の少年が三人がかりでいじめられている姿があった。その様子を見た戒は、慌てるように声を上げた。
「お前たち、何している?」
その声に驚いた少年たちは逃げ出すようにその場を後にした。いじめを受けていた少年もまた、何も言わずうつむいたまま歩いてその場を立ち去った。
「戒、どうして?」
うわ言のように声をあげる咲の肩に手を置き、
「おい、咲。しっかりしろ」
戒は激しく咲の肩を揺すった。しかし、虚ろな眼差しで戒を見つめる咲の瞳をみて、戒は悲しげな表情を浮かべた。
「哀?」
戒は下唇を噛み締めながら咲の耳元でささやいた。
咲は戒に静かに微笑みかけると、まるでブレーカーが落ちたかのように咲は意識を失った。戒は倒れこむ咲をそっと支え、そのまま抱きかかえると雨の中を家まで駆けていった。




