事件発生
第一の事件が発生したのは六月の初め、東京でのことであった。被害者は医師の川本鳴海四十五歳であり、彼には一人の娘がいた。名は咲という。当時高校一年生であった咲は、両親を事故で亡くし、去年鳴海に施設から引き取られた。そして、咲は施設から通っていた高校から鳴海の家の近くにある草華高等学校に転校し、通うこととなった。
近所には幼いころ父親に連れられて、度々施設に遊びに来ていた、細身だが背が高く、何よりも頼りがいのある咲の兄のような存在である精神科医の春日戒も住んでいたため、新しい土地で生活をする不安はなかった。
咲は笑顔の絶えない子で、鳴海が咲の誕生日に贈った白いコートを一番のお気に入りとしてよく着ていた。それを纏った姿はまるで天使のようだと、周囲の人に微笑を与え、そんな咲は学校でもすぐに友達を作ることができた。
咲は時折ふいに悲しげな表情を浮かべることがあったが、これから先は幸せな生活を送られるだろうと皆が確信していた。第一の事件はそんな矢先の出来事であった。
咲は学校が終わると、友達とのおしゃべりもほどほどにし、学校帰りに商店街へと夕飯の買い物に出かけた。すると、いつものようにあちこちの店から声がかかった。
「咲ちゃん、今日はエビが安いよ」
「ごめん、おじさん。今日は肉じゃがなの」
商店街に入ってすぐにある魚屋のおじさんが声をかけると、咲は笑顔で答え、二軒先にある八百屋へと向かった。
「おじさん、じゃがいもください」
「おう、咲ちゃん。じゃがいもだね」
八百屋のおじさんはじゃがいもを袋に入れると、
「ダイコンはどうだい? お買い得だよ」
一際大きなダイコンを手に取り薦めた。
「うーん。じゃあ、もらおうかな」
「よし来た。じゃあ、二割まけとくよ」
八百屋のおじさんは咲の気が変わらないうちにと、素早くダイコンをふくろにいれると咲に手渡した。すると、買い物に来ていた咲の家の向かいに住むおばさんが顔を覗かせた。
「あら、じゃあ私もダイコン頂こうかしら。もちろんまけてくれるわよね」
おばさんが笑いながらも強い口調で言うと、八百屋のおじさんは一瞬困った表情を浮かべた。しかし、
「よし、決めた。ただいまよりダイコンは二割引にしよう」
と、すぐさま値段を書き換えた。おばさんは慣れない仕草で咲にウィンクをしてみせると、咲も笑顔でウィンクをして返した。
「ありがと、おじさん」
咲は満面笑みを浮かべながら、お金を支払うと八百屋を後にし、肉屋へと向かった。
「こんにちは、おじさん」
咲は肉屋でも主人と同じように会話をし、ここでも少しおまけしてもらうと、上機嫌で家へと急いだ。
咲が家に着くと、玄関には男性の靴が二足あった。鳴海がお客さんを連れ、めずらしく早々と帰ってきていたのである。
「お父さん、早かったのね」
咲は台所でお茶を入れている鳴海に声をかけると、台所に買ってきた食材を置きエプロンを着けた。
「お客さんが来ているから、ゆっくりでいいよ」
鳴海はそう言うと、お茶を二つ持って部屋へと歩いて行った。
「お茶菓子持っていくね」
咲が廊下へ顔を出して言うと、
「いや、いい。大事な話だから部屋に来ないように」
鳴海はなぜか強張った表情で強く念を押して、部屋へと入っていった。
(あんな言い方しなくていいのに)
咲は右眉をピクりと上げ、大きく息をつくと台所で夕飯の支度をし始めた。
咲が肉じゃがを煮込み終わると同時に衝動買いしたダイコンでお味噌汁の一品を作り終える頃、バタンっと玄関の扉が閉まる音がした。
咲は玄関に向かい、お客さんの靴が無くなっていることを確認すると、台所に戻り、おかずを盛り付けた。そして、鳴海を呼びに部屋へと向かい、ドアを叩いた。しかし、しばらく待っても中から返事がしなかったため、咲は再度ドアを叩いて、
「お父さん、居るの?」
声かけた。それでも返事がしないので、
「開けるよ」
咲は静かにドアを開けた。すると、眠っているように鳴海は机の上で伏せていた。
「もう。お父さん、ご飯できたよ」
咲は頬を膨らませると鳴海の側へとゆっくりと歩み寄り、軽く肩を揺すった。それでも起きない鳴海に対して、咲は怒鳴り口調で、
「もう。お父さん」
今度は鳴海を強く揺すった。すると、鳴海は糸の切れたマリオネットのように椅子ごと倒れこんだ。
「お父さん?」
不思議そうな表情を浮かべ、咲は倒れた鳴海の身体を起こすと、何やら生温かい液体に触れた。咲は少し粘りのある赤い液体が血であることがわかると、
「いやー」
目を見開き、血のついた手を見つめながら甲高い声を上げた。
川本家に差し入れをしようと、すぐそこまで来ていた戒は、咲の悲鳴を聞くと、慌てて玄関の扉を開けた。
「咲、どうした?」
問いかけても何一つ反応がないため、戒は家の中に入り、部屋を一つ一つ覗き込んだ。そして、鳴海の部屋だけドアが開けっ放しになっているのを見つけると、戒は急いで鳴海の部屋へと入っていった。
「鳴海さん? 咲?」
戒が再度問いかけると、そこには深紅のジュータンに横たわる鳴海さんと血の付いた手を見つめ、放心状態になっている咲の姿があった。
「咲、どうした? 何があった?」
戒は咲のもとに駆け寄ると、咲の肩を両手で揺すった。しかし、咲は何も答えることができず、ただ茫然と自分の手を見つめていた。戒は鳴海の脈を取り、すでに息絶えていることを確認すると、ゆっくりと咲を抱き上げ、居間へと連れて行った。そして、咲を椅子に座らせると、戒は警察へと電話をかけた。
「もう大丈夫だよ」
戒は咲の手に付いた血をタオルで拭いながら優しく話しかけると、放心状態の咲を悲しげな表情を浮かべながら、静かに抱きしめた。
数分後、通報を受けた警察が到着した。
「失礼します。警察の者です」
戒が玄関まで行くと、数人の警察官が玄関の扉を開けて立っていた。
「どうも」
戒が会釈をすると、
「通報された方ですか。私、北島と申します」
茶色のコートを羽織った一人の男が前に出た。
「はい。私が通報しました。春日戒と言います」
戒が落ち着いた口調で答えると、
「では、早速被害者の所へ案内してもらえますか?」
北島は坦々と尋ねた。
「わかりました。中へどうぞ」
戒はそう言うと北島たちを家の中に上げ、鳴海の部屋へと案内した。途中、北島は居間の咲に挨拶をしたが、咲は未だ放心状態であった。
「とりあえず部屋へ」
その様子を見ていた戒は、北島たちを誘導した。咲の様子を不審に思った北島は刑事の一人を居間の前に立たせ、咲の様子を見させることにした。
鳴海の部屋に入ると、北島はすぐさま倒れている鳴海のもとへ歩み寄った。そして、脈と呼吸が無いことを確認すると、北島は静かに手を合わせた。
「おい、鑑識を呼べ」
北島はドア付近にいる一緒に来ていた刑事の一人に指示を出し、
「事件が発生したときの様子を説明してもらえますか?」
早速戒に事件当時の状況を尋ねた。
「はい。私が夕飯の差し入れを持って行こうとしたとき、家の中から咲の、先ほど居間にいた子の悲鳴が聞こえました。それで、慌てて家の中に入り、咲と彼を探してこの部屋に来ました。そうしたら、鳴海さんが倒れていて、隣には手に付いた血を見て呆けている咲がいました」
戒は北島の横まで歩み寄ると、鳴海の遺体を眺めながら説明を始めた。
「で、通報されたわけですね。それでは、あなたと被害者の関係は?」
「私は咲の幼馴染で、度々食事を共にしたり、一緒に遊びに出かけたりしていました」
北島は戒から一通り状況を聞き終えると、
「ここは直に来る鑑識に任せて、私たちは居間に行きましょう。咲さんにも話を伺いたい」
戒をつれて居間へと向かった。咲の様子を気遣い、戒は部屋を出てから終始心配そうな表情を浮かべていた。
「大丈夫。少し話を聞くだけですよ」
すると、北島は穏やかな表情で話しかけ、廊下を歩いていった。
「変わったことはなかったか?」
北島は居間の前に立っている刑事に尋ねた。
「先ほどから何かうわ言のようなことを言っています」
それを聞いた北島はそっと居間を覗き込んだ。すると、咲は確かに何かをつぶやいていた。北島は咲に気づかれないようにゆっくりと近づくと、咲の声に注意を傾けた。
「誰? あなた、誰?」
「私ですか? 北島と申します。安心してください。警察の者です」
北島は咲の問いかけに優しい口調で答えたが、咲の反応は変わらなかった。
「誰かがそこに居るのですか?」
北島は咲の顔を覗きこみながら尋ねた。
「誰か、居る。泣いている。アイ?」
咲はポロポロと涙をこぼし始めた。咲がその言葉を発した瞬間、
「今日は、もうやめてください」
戒は慌てた様子で咲のもとに駆け寄り、静かに抱き寄せた。そして、北島を睨み付けた。
「わかりました」
北島は困った顔で頭を掻くと、
「署に戻って事件の詳細を上の者に報告しておいてくれないか?」
後ろに立っていた、少し小太りの刑事の一人に指示を出した。
「わかりました」
その刑事はすぐさま家を出てパトカーに乗り込むと、川本家を後にした。
それからしばらくすると、警察署から鑑識が到着した。北島は玄関まで迎えに行き、彼らを家の中に招き入れると、鳴海の部屋まで案内した。
「よし、始めてくれ」
鑑識の管理官の一声で鑑識の人たちがそれぞれの仕事をし始めた。北島は管理官に歩み寄ると、北島が事件現場に到着した当時の状況について説明を始めた。
「死因等を詳しく調べるため、川本鳴海さんを司法解剖させていただきます」
鑑識が一通り仕事を撮り終わると、管理官が居間にいる戒のところにやって来て一言告げ、鑑識二名が担架で鳴海の遺体を運び出していった。
「お前たちは近所の人たちに事件発生前後、不審な人物を見かけなかったかなどの聞き込みをしてくれ」
管理官と一緒に居間へと戻ってきた北島は、一緒に来ていた刑事たちに指示を出すと、
「戒さんは、お引取り頂いて結構です。また後日話を伺わせてください」
ソファーで咲を抱きかかえている戒に告げた。
「いえ、今日はこの家に泊まらせてもらいます」
戒は強い口調で答えるた。
「咲を自分の部屋のベッドに寝かせてきます」
そして、戒は疲れ果てたのかいつの間にか眠ってしまった咲を抱きかかえ、居間を出て行った。
「では、私たちは聞き込みにいってきます」
「ああ。よろしく頼む」
刑事たちが家を出て行くと同時に戒は居間へと戻ってきた。
「私も今日はここに泊まらせてもらいます」
北島は戒に声をかけるとネクタイを緩めた。
「助かります。では、毛布を持ってきます」
疲れているのか、戒は冷ややかな顔で言うと、顔を強張らせたまま再び居間を出て行った。




