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記憶

 家の中に案内されると、咲は物珍しげな顔で部屋の一つ一つを覗き込んだ。しかし、どの部屋も初めて見るといった新鮮さはなく、咲の胸には懐かしさがこみ上げてきた。

「咲ちゃんの寝る部屋は二階だよ。戒の部屋の隣」

「はーい」

咲は自分の荷物を持つと笑顔で階段を駆け上がっていった。

「どれがその部屋かわからないだろう」

戒はそう言うと咲の後に続いて階段を上っていった。

 戒が階段を上り終えると、咲が戒の部屋に入ってゆくのが見えた。

「ほら、咲。部屋はその隣だよ」

戒が自分の部屋に入ると、咲は茫然と立ち尽くしていた。

「どうした、咲?」

「不思議だね。初めて入った部屋なのに、懐かしさで涙が溢れてくる」

咲はその瞳に涙を溜めたまま微笑みを浮かべた。そして、照れくさそうにうつむきながら、隣の部屋へと駆けていった。その顔を見た戒は悲しげな表情を浮かべた。

 夕方になり、賢志は夕飯の支度を済ますと部屋で休んでいる二人を呼んだ。

「待っていました。ご飯は何ですか?」

咲は部屋を出ると、階段を降りながら賢志に尋ねた。

「今日のために、昨日山で採って保存しておいた山菜とさっき川で釣ってきた魚だよ」

「うわー、すごい。お兄ちゃん、早く降りてきなよ」

咲はテーブルに並んだ料理を見て目を輝かせ、部屋からなかなか出てこない戒を呼んだ。

「ああ、すぐ行くよ」

戒は眺めていた写真を本の間に挟むと、うつろな顔をして下に降りていった。

 賢志の家にはテレビがなく、三人は静かに雑談をしつつ、夕飯を済ませた。

「片づけが済んだら離れを案内してあげるよ」

「本当ですか。じゃあ、手伝います」

咲はそう言うと、空いた食器をまとめ始めた。

「ごちそうさま。先に部屋で休ませてもらうよ。何かあったら呼んでくれ」

戒はそんな二人を横目にゆっくりと席を立つと自分の部屋へと向かった。

「何か元気ないですね」

咲は戒の食器を片付けながら、心配そうな表情を浮かべた。

「久しぶりの帰郷を懐かしんでいるだけさ」

賢志は戒のことを気に止めていなかったが、咲は戒の表情が懐かしんでいるのではなく、哀しんでいるように見えた。そして、戒だけではなく、賢志もまた同じ表情を浮かべているようだった。

 片づけを済ませると、咲は賢志の案内で離れを回った。

 一つ目の離れは母屋から少し歩いたところにあり、窓は一つもなく、換気のために天井付近にいくつか穴が開いているだけであった。部屋の中には人間や動物などのさまざまな彫刻や皿や湯飲みなどの陶器が棚の上に並べられていた。

「ここは彫刻をしたり陶器を作ったりするところだよ。釜はこの離れの裏にある」

賢志は道具や作品の一つ一つを咲に丁寧に説明した。咲はそれをただ黙って聞いていたが、賢志がどれ程の思い入れを持って作品を作っているのかをひしひしと感じ、時折満面の笑みで応えた。

「あれは何ですか?」

咲は純白のシーツに包まり鎖で錠までしてある、他の作品と比べてひと際大きく重々しい作品を指差して賢志に尋ねた。

「ああ、あれは戒が高校のときに作ったものだよ。戒の最も大切な人の等身さ」

 賢志はその作品を哀しげに見つめながら答えた。

「その人は今どうしているんですか?」

という咲の当然の疑問に賢志はいっそう表情を曇らせた。

「……作品が完成する頃に亡くなったよ。自殺した」

賢志は彫刻にゆっくりと歩み寄ると、うつむきながら続けた。

「最初は自分のことを忘れないよう、彼女は作品が完成するまで待ったのだろうと思っていたが、彼女は戒が寂しくならないように自分の身代わりを作らせたのかもしれない。誰よりも人を思いやれる優しい娘だったから」

 話を聞いた咲は腑に落ちない表情であった。

(人を誰よりも思いやれるのに、お兄ちゃんを残して?)

あからさまに不満を浮かべる咲の顔を見るなり、賢志は優しく微笑んだ。

「想いの表し方もさまざまなのさ。人によっても異なるし、状況や環境によっても変わってくる。 ……さぁ、次へ行こう」

賢志は咲の肩を軽く叩くと、うつむき加減の咲を連れてもう一つの離れへと向かった。

 次に案内された離れには、部屋中に大きな窓があった。その窓からは日中になると日が差し込み、穏やかな陽気が部屋を包んだ。

「ここが絵を描く場所だよ」

 その部屋は主に油絵を描くところでシンナーのような匂いが充満していた。また、部屋の中には数々の作品があり、額に入って飾られているものもあれば、無造作に置いてあるものもあった。

「そうだ、明日もし咲ちゃんの都合がよかったらスケッチさせてもらおうかな」

咲は賢志の突然の申し出に、一瞬目を丸くした。

「本当ですか? お願いします」

しかし、咲はすぐさま笑顔で答えた。すると、賢志も優しく微笑んだ。そして、咲は離れにある絵を一通り鑑賞すると、二人は母屋に戻った。

 翌日、三人が朝食を終えると、咲と賢志は早速離れへと向かった。

「油絵か?」

「本当はそうしたいところだが、あれは時間が掛かるからな。とりあえずスケッチさ」

咲は戒と賢志の会話を聞くと、

「大丈夫ですよ。冬休みも来ますから。ね、お兄ちゃん」

咲は戒にニコッと微笑みかけた。

「ああ、そうだな」

戒もまた咲に優しく微笑み返した。

「それじゃあ、お兄ちゃん、昼食作っておいてね」

「作っておいてね」

咲と賢志はそう言うと、逃げるように母屋を飛び出した。

 咲は離れに着くと、賢志の指示で大きな窓の前に置かれた椅子に腰掛けた。咲が持ってきていた白いコートを羽織ると、日光をよく反射して咲の清楚な印象を際立たせた。

「おじさん、どうかしました?」

咲の姿に見惚れ、涙を瞳に溜めている賢志を見て、咲は不思議な顔を浮かべた。

「いや、何でもないよ。咲ちゃんも大きくなったなぁって思っていたら思わずジーンとしてしまってね。駄目だね、歳をとると涙もろくて」

賢志が涙を拭うと、咲は優しく笑みを浮かべながら賢志を見つめた。

「いいね。その顔でいておくれ」

賢志はスケッチブックを取り出すと、リーゼルに載せて絵を描き始めた。

スケッチが始まり、一刻ほど過ぎる頃、

「お兄ちゃんって美術の成績よかったんですか?」

咲はスケッチブックで隠れた賢志の顔を覗きこんだ。すると、賢志は笑いながら首を横に振った。

「えー、だってあんなに大きな彫刻を作っているじゃないですか。あの彫刻も上手ではないんですか?」

「いや、あれは芸術だよ。ミロのヴィーナスと肩を並べてもおかしくない程のね。おそらく私が一生かかっても、あれだけの作品は作ることはできないだろう」

賢志は悲しげな瞳で答えると、一旦手を止めた。

「あれには戒と彼女、二人の心が入っているんだ。あれが未だに形あるのは、今でも二人は互いに互いを愛し合っているからだろう」

賢志は続けて話した。すると、咲の心には何か温かいものがこみ上げてきた。

「さぁ、顔を上げて」

賢志は声を張り上げて咲に言うと、咲は泣きそうになるのを堪えつつ、顔を上げて必死に笑顔を作った。

(……お兄ちゃん、そんな話してくれたことなかったなぁ。そういえば、お兄ちゃんの昔のことって、私何も知らない)

咲は自分の知らない戒の存在を知り、少し寂しさを覚えた。

 日が上がりきった頃、賢志はスケッチを終えた。

「時間があればこの絵を元に油絵を描くよ」

「本当ですか? 楽しみにしています」

咲はスケッチブックの絵を撫でながら賢志に笑いかけた。

「さぁ、戻ろうか。戒のやつが飯を作っているだろうから」

賢志は穏やかな表情で言い放つと、二人は母屋へと戻っていった。

「今度は陶芸を教えてください」

「あ、ああ。喜んで。二、三日は仕事があるから、それが終わったらね」

咲の申し出を嬉しく想った賢志は、快く受け入れた。

 咲がリビングに戻ると、食卓には料理が並べられていた。

「遅かったな」

「寂しかったのかな?」

咲は上目づかいで戒を子ども扱いしてからかった。

「咲のご飯はなしでいいのかな?」

戒はすねた表情で咲の器を盆に載せて提げ始めた。

「うそ。ごめんなさい」

咲は盆に載った器を戻しながら、慌てて戒に謝った。後ろから二人の様子を見ていた賢志は、クスクス笑いながら自分の席に着くと、黙って食事をとり始めた。

「黙って食べるなよ」

戒が賢志を指差して言うと、咲も真似をして食べ始めた。

「咲も」

慌てた様子で声を上げる戒を後目に、咲と賢志はにこやかな雰囲気で食事を進めた。

 昼過ぎからは咲の希望で、三人で山を歩くこととなった。山で山菜を採ったり、川で釣りをしたりと、夕飯の食材を採取しつつ、咲は都会では味わうことのできない時間の過ごし方を体験した。

 

 あっという間に三日が過ぎた。

 昼食を終えると咲は約束どおり賢志に陶芸を教えてもらうことになった。

「まずはこうやって粘土に空気が入らないように……」

 動作の一つ一つを実際にやって見せながら丁寧に教えてくれる賢志のおかげで、咲はテンポよく作業を進めていった。

「少し休憩しようか」

「はい」

咲は手の甲で汗を拭うと、轆轤の前にある椅子に腰掛けた。賢志は咲の粘土を轆轤に乗せると、咲の隣に座った。

「咲ちゃんには大切な人がいるかい?」

「はい」

咲は賢志の突然の質問に一瞬目を丸くしたが、すぐさま自信に満ちた表情で答えた。

「作品は心を表す。咲ちゃんもその人のことを想いながら作ると、きっといい作品ができるよ」

賢志は白いシートに覆われた戒の作品を哀しそうに見つめた。

「はい」

咲もまた哀しげな表情でその作品を見上げると、賢志に向かって天使のような笑顔で応えた。すると、二人は黙ったまま、穏やかな雰囲気の中、続きを始めた。

 夕陽が離れに差し込む頃、咲は三つもの器を完成させた。

「お疲れ様」

 賢志は咲の作品を炉に入れると、離れにある湯飲みにお茶を入れ、くたびれた様子でうな垂れる咲に手渡した。

「ありがとうございます」

咲は湯飲みを受け取ると、湯飲みに映った自分の姿を静かに見つめた。

「何か話しづらいこと、聞きづらいことでもあるのかな?」

離れに入ってからの咲の様子がいつもと違うことを感じ取り、賢志は穏やかな表情で咲に尋ねた。

「先にも言ったが、作品は心を表す。咲ちゃんの陶器も例外ではないのだよ」

咲はうつむき、哀しい表情を浮かべていた。

「どうして愛する人の彫刻に鎖が巻きつけられているんですか? それに錠までついて。何だか可哀想……」

「さぁ、ある日突然に戒のやつが巻きつけたのさ。彫刻が人目に触れることを避けたのか、あるいは戒自身が彫刻の目に触れることを恐れたのか。 ……戒自身しかわからないよ」

咲はうつむいたまま賢志の話を聞いた。そして、静かに顔を上げると戒の作った彫刻を見つめた。

「あれを見せていただけませんか? お兄ちゃんの愛した人、いえ、愛している人の姿を見たいんです」

咲は強い眼で賢志に願い出た。

「すまない、咲ちゃん。錠が錆び付いてしまっていて、もう鎖を外すことができないんだよ。中の状態がわからないから、無理に外すこともできない」

賢志から良い返事をもらえなかった咲は落胆の色を示した。。

 咲はため息をつき、ゆっくりと腰を上げると彫刻に歩み寄った。そして、彫刻に優しく触れた。

「さぁ、戻ろう」

賢志は咲の肩をポンッと叩き、離れを出て行った。

 咲が小さくうなずくと、土台に文字が刻まれているのを見つけた。

「A・N? 名前のイニシャルかな? A、アキ、アユミ、アイ ……哀」

咲は急いで賢志の後を追った。

「あの、せめて彼女の名前だけでも教えてもらえませんか?」

咲は声を張り上げて賢志の背中に問いかけた。しかし、賢志は立ち止まったが、黙ったまま振り返ろうとはしなかった。

「哀という名前ではないんですか? 私、何故だかよく彼女の夢を見るんです」

必死に問いかける咲の想いに押されたのか、締まった顔つきでゆっくりと振り返ると、

「中村哀。それが彼女の名前だよ。私が話したこと、戒には内緒にしといておくれ」

と、一言告げて母屋へと歩いていった。

(……哀さん、ここにいたのね。やっと見つけた)

咲はその場に立ち尽くすと、気を負いながら歩いてゆく賢志の背中を黙って見つめた。

 

 それからも咲は何も聞かなかったかのように、いつもどおりに二人と接した。

「明日で夏休みも終わりか。お兄ちゃん、明日は何時くらいに帰るの?」

「そうだな。昼に親父と出かける用事があるけれど、それでも夕方にはここを出ようと思っている」

戒が暗い調子で言うと、何やら重い空気が辺りを包んだ。

「なぁに、また来ればいいさ」

朝食を終え、お茶を運んできた賢志が笑顔で言うと、

「ですよね」

咲は笑顔で応えた。

「じゃあ、今日は三人で山を歩きましょう」

咲は二人の様子を窺いつつ、続けて言った。

「今日もの間違いだろう。たまには家でゆっくりしよう」

戒は賢志からお茶を受け取ると、一口すすり一息ついた。

「お前は運動しなさ過ぎるんだよ。咲ちゃん、おじさんと二人っきりで出掛けようか?」

「はい」

二人の会話を聞いた戒は少々ムッとした表情を浮かべた。

「わかった。行ってやる」

戒は何やら威張った口調で答えた。

 昼食を終えると、三人は山へと出掛けた。

 咲たちは山頂まで行くと、目の前に広がる景色を眺めた。

(ここ数ヶ月で色々なことがあったなぁ)

咲は鳴海が亡くなってから今までのことを思い返した。ふと隣を見ると、二人も各々の想いを巡らせているように見えた。

 三人はそこから見える景色を楽しむと川を沿って降りてきた。

「咲ちゃんたちが来てくれたおかげで、今年の夏は楽しかったよ」

賢志は川を眺めながらしみじみ話し始めた。

「そんなに寂しそうに言わないでください。また来ますよ」

咲は白いコートをなびかせながら、葉で作った船を川に浮かべると、その船はゆっくりと流れていった。

「すまないな、親父」

「構わないさ。お前が息子でよかったと思っているよ」

咲は二人が染み入った話をし始めたため、何やら重い空気が流れ出したのを感じた。すると、その雰囲気を変えるため突然川の中へと入っていった。

「おい、咲。お前が次々着替えたおかげで、その服は明日も着ないといけないんだ。転んで濡らしたりするなよ」

「大丈夫。そんなにドジじゃないよ」

咲はいつものように満面笑みを浮かべると、軽い足取りで川の中を歩いていった。

「……いい娘だな」

「ああ。あいつは天使だよ。 ……無理に留めてはいけなかったんだ。あいつは」

戒は咲に背を向けた。堪えることができない涙を咲に見られないようにするためである。

(お兄ちゃん?)

咲は二人の様子、特に戒の様子がいつもと違うことに気づいており、心に不安を抱いていた。

「二人とも、いつまでも深刻な顔していないで、こっちにおいでよ」

咲は両手を振って飛び跳ねると、川の流れに足をとられて転んでしまった。

「咲ちゃん」

涙を拭っていた戒は賢志の声を聞いて振り向くと、水浸しになっている咲の姿が目に入った。

「咲」

戒は慌てて駆け寄ると、

「だから言っただろう。明日は何を着るつもりだ?」

川の中で尻餅をついている咲の頭を軽く叩いた。

「いいもん、家の中ではパジャマを着るし、帰るときは来るときに着てきた制服を着るから」

咲は戒の手を掴むとゆっくりと立ち上がった。

「さぁ、陽も傾いてきたことだし、風邪をひかないうちに帰ろう」

戒は咲の肩を抱えると、転ばないように足元を確かめながらゆっくりと川から出た。

 陽が傾き始めると、三人はその景色に圧されるように黙ったまま山を降りていった。

「さようなら」

二人の後方をあるいていた咲は急に立ち止まると、夕陽に染まる木々を眺め、静かに山に別れを告げた。

「咲、早く帰って着替えないと風邪ひくよ」

その様子を黙って見つめていた戒は、大きく手招きをして咲を呼んだ。

「はーい」

 しかし、言葉とは裏腹に二人は山との別れを惜しむかのようにゆっくりと歩きながら母屋へと戻っていった。そして、咲は山で過ごす最後の一日を名残惜しくも過ごしていった。

 

 夏休み最後の日、咲は朝から帰りの支度を整え、制服に着替えた。そして、離れへと向かうと、シーツに覆われた哀の彫刻の前で立ち尽くしていた。

「哀さん、あなたはどういう人なのかな? せめて顔だけでも見たいな」

 昼もまだ過ぎぬ頃、しばらく離れにいた咲は一人つぶやくと、戒たちが出掛けていることを思い出した。

(そうだ、お兄ちゃんの部屋に行けば写真か何かあるかもしれない)

すると、咲はすぐさま母屋に戻り、家内に誰もいないことを確認すると、戒の部屋へと向かった。

(アルバムだ)

咲は戒の机の上にあるアルバムを手に取ると、躊躇うことなく開いてみせた。しかし、哀らしき人物の姿は見つけられなかった。

(あれ、おかしいな。最愛の人の写真、ないわけないないのに)

 それからも机の中やふすまの中など一通り部屋を探したが、咲はついに見つけることができなかった。

「捨てたのかな?」

咲は仕方なくあきらめて部屋を出ようとしたとき、

『そんなところではすぐに見つかってしまうだろう?』

戒の部屋から誰かの声がした。咲が慌てて振り返ると、夕陽が差し込むセピア色の部屋の中、ぼんやりと高校の制服を着た男女の姿が見えた。

『大切なものはこういうところに隠さないと』

男はふすまの上に登ると、天井の一角を開けてみせた。すると、自慢気に笑う男を見て、

『そんなところに何を隠すのかな? エッチな本とかテストの答案とか?』

女は声を上げて笑いながら男をからかった。

『ばか、そんなものじゃないよ。 ……そうだな、大切な思い出とか。この気持ちとか形のないものも一緒に、忘れないようにね』

二人は静かに寄り添うと、優しく口付けを交わした。そんな二人の頬を夕陽は赤く染めた。

 ふと我に返った咲は、再度部屋の中へと足を進めた。そして、ふすまに登ると恐る恐る天井の一角を開けた。

「何かある。本かな?」

咲はそれを手に取ると、ゆっくりと降りてきた。咲が手に取ったのは随分古びた本であり、表紙の文字は掠れて読めなくなっていた。

(ん、何か挟んである)

咲はしおりのようなものが挟んであるページを開いた。すると、よく使われているのか、そのページはボロボロになっていた。

「タイトルは『黄泉ガエリ』? あれ、本に挟んであるの手紙だ」

しおり代わりに使われていたものは、くしゃくしゃになっている手紙であり、差出人が中村哀となっていた。

咲はしばらく封を眺めた後、悩み迷いながらも読んでみることとした。

 

『愛する戒へ、

 あなたがこの手紙を読むときには私はこの世を去っているでしょう。先立つことを許してください。私たちを蔑む人たちを殺そうとしているあなたを、私の声すらほとんど届かなくなってしまったあなたを正気に戻す手段を、あなたを殺める以外にはこの方法しか思いつかなかったのです。私は祖父のような苦しみには耐えられそうにありません。大切な人を殺人者にしてしまう過ちに耐えることはできそうにありません。だから、さようなら。でも、忘れないで。ずっと、私はあなたの傍にいるから。

 願わくはあなたが先に手紙を読んで思い止まってくれることを祈って 哀』


 手紙から切なさがこみ上げ、涙が咲の頬を真っ直ぐ伝った。手紙には写真が同封されており、その写真には笑顔で肩を寄り添う二人の姿があった。

「これが哀さん?」

写真に写っている哀の姿が夢で見た通り自分に瓜二つであり、咲は驚きを隠しきれなかった。そして、次の瞬間いつものように記憶が咲の頭を駆け巡った。


 公園には顔中にあざを作った男子高生と彼の顔に濡れタオルを当てる女子高生の姿があった。

『どうして俺たちばかりひどい目に遭わされなければいけないんだ。俺があいつらに何をした? 君は俺を庇ってくれただけじゃないか。それなのにからかわれ、殴られ……』

『彼らに理由なんかないのよ。たぶん、誰でもよかったの。放っておこう。卒業するまで後一年足らず。それまでの辛抱よ』

女子高生は歯を食いしばりうつむく男子高生の顔を両手で優しく持ち上げると、優しく微笑んだ。

『悪いことをしている人間が平然と生きていることを許せと? 俺にはできない』

いつもの優しく穏やかな表情とは打って変わり、満面に憎悪を浮かべるその表情に女子高生は身を震わせた。そして、しばらく沈黙が続いた後、

『そうだ、呪い殺せばいいんだ。君が話してくれた黒魔術、あれなら罪にならない。悪を排除して俺たちの平穏を取り戻すんだ。待っていて、哀』

男子高生はゆっくりと立ち上がると、覚束ない足取りで公園を出て行った。

『待って、戒。祖父が言っていた。黒魔術は自然の摂理を歪める行為、その修復のためには用いた者に災いが降りかかる』

恐怖で腰を抜かし、その場に座り込んだ哀は、戒を止めようと必死に名を呼んだ。しかし、戒は振り返ることなく公園を後にした。

 哀は戒に黒魔術の話をしたことを深く悔いた。それと同時に祖父が犯した過ちと同じことが起こるのではないかと、不安で眠れない日々が続いた。

 ある日、哀は戒の部屋に入ったとき、黒魔術の儀式に使われる小刀を目にした。哀は慌ててそれを離れの一つに隠した。

『よし。彫刻もようやく完成したよ、哀』

『うん、これでいつでも私に逢えるね』

戒は哀が心なしか寂しげな表情を浮かべたのを感じた。

『ばか、哀はこの世で唯一の存在だよ。こんな石の塊に代わりができるものか』

戒は相変わらず黒魔術について熱心に調べているようだが、哀の前ではいつもどおりの穏やかな表情を見せた。

 哀は、本当は誰よりも優しい戒を失わないように、戒が取り返しのつかないことをする前にいじめ自体を終わらせようと、職員にいじめの実態を説明した。そして、クラスの皆に呼びかけた。しかし、そのことがきっかけで、哀は帰り道で酷いいじめを受けた。

『つらい。戒さえ傍にいてくれたら、いじめなんか耐えられるのに、私は幸せなのに。お願い、戒。自分を見失わないで』

 哀は一旦学校に戻ると、濡らしたハンカチで顔を押さえた。そして、制服を着たまま哀の足は自然と彼の家に向かった。

 戒の家に着くと、哀は離れにある戒が心を込めて作ってくれた彫刻を静かに眺めた。すると、哀が離れに入るのを部屋から見ていた戒が、様子を見にやってきた。

『哀、その顔?』

顔にあざを作っている哀の姿を見て戒は一瞬言葉を失った。

『あいつら、もう許さない。魔術なんてくそ食らえだ。この手で殺してやる』

形相が見る見る変わっていき、離れを飛び出そうとする戒を哀は後ろから強く抱きしめた。

『止めよう。二人で転校すればいいじゃない。高校なんて辞めて、二人で働いたって構わない。あなたが傍にいてくれれば……』

哀は涙を流しながら必死に戒を止めた。戒はしばらくうつむき、何かを考えていた。しかし、戒は哀の手を優しく振り払うと、黙ったまま出て行ってしまった。

 哀はしばらくの間その場に泣き崩れ、一通り泣きつくすと、すっきりした顔を浮かべて静かに彫刻を見上げた。

(やっぱりこうなっちゃったか。もう、これしか手がないの。彼のことよろしくね)

哀は離れにある湯飲みを入れておく棚の裏から、戒の小刀を取り出した。

 戒は学校に到着すると、息を切らしながらも校舎の中に入っていった。そして、土足のまま下駄箱前を通過しようとしたとき、自分の下駄箱に手紙が入っていることに気がついた。

(どうせ嫌がらせか、呼び出しだろう)

戒は手紙の裏を見て差出人を確認した。差出人が哀であり、紛れもなく哀の筆跡であることを確認すると、戒は警戒しつつ手紙を開いた。


『愛する戒へ、

 あなたがこの手紙を読むときには私はこの世を去っているでしょう。先立つことを許してください。私たちを蔑む人たちを殺そうとしているあなたを、私の声すらほとんど届かなくなってしまったあなたを正気に戻す手段を、あなたを殺める以外にはこの方法しか思いつかなかったのです。私は祖父のような苦しみには耐えられそうにありません。大切な人を殺人者にしてしまう過ちに耐えることはできそうにありません。だから、さようなら。でも、忘れないで。ずっと、私はあなたの傍にいるから。

 願わくはあなたが先に手紙を読んで思い止まってくれることを祈って 哀』


戒は肩で息をしながら手紙を読むと、慌てた様子で家へと引き返した。

(哀、待ってくれ)

戒は涙を溢しながら、手紙が風で飛ばないようにしっかりと握り締め、全力で家へと向かった。そして、家に到着するとすぐさま離れへと向かった。

『哀』

 離れに入った瞬間、戒の目に入ったのは哀が左手首を切って彫刻にもたれ掛かっている姿であった。

戒は哀に駆け寄るとポロポロと涙を溢しながら、哀の身体を揺すって何度も名前を呼んだ。

『よかった。いつもの戒だ』

『どうして、本当に死ぬ必要なんてないだろう?』

戒は必死に傷口を押さえたが、出血がひどく止まることはなかった。

『救急車を呼んでくる』

戒が立ち上がると、哀は傷ついていない右手で戒の手を掴み、首を横に振った。

『もう、間に合わないよ。私、バカだよね。本気で命を懸けていることを見せないといけないと思ったんだ。そうしないと、戒は何度も彼らを殺そうと考えるんじゃないかって、そのうち私の声が全く聞こえなくなるんじゃないかって、そう思ったんだ』

哀が涙を溢しながら必死に言うと、戒は一人では身体を支えることができなくなった哀の身体を抱きかかえた。

『本当にバカだよ。 ……でも、俺が一番バカだ。もっと早く気づくべきだった。君が傍にいればそれでよかったのに……』

戒の表情を見て、哀は安堵の表情を浮かべた。

(いつもの戒だ。もう、大丈夫だよね)

哀は戒の涙を拭うと、満面に笑顔を浮かべた。天使のようなその笑顔に戒はつられて笑顔になった。

『私、傍にいるから。 ……大好きだよ、戒』

静かに息を引き取る哀を強く抱きしめて、戒は哀の名を必死に呼んだ。しかし、どんなに力強く叫んでも言葉にならなかった。

(哀、アイ)

戒が哀を抱きしめたまま空を仰ぐと、そこには笑顔の哀の姿があった。

(傍にいるから)

その声は彫刻から聞こえてきたような気がした。

『ああ、忘れない』

戒は哀の髪を掻き揚げると安らかな表情で眠っている哀に、約束の意を込めて優しく口付けを交わした。

 八年後、哀の視線の先には黒いコートを羽織った戒の姿があった。

『君の笑顔を見る方法を見つけたよ。君は許してくれないかもしれないね。でも……』

戒は言葉を詰まらせると、それ以上は何も言わずに彫刻にシーツを被せた。そして、誰の目にも触れないようにと鎖を巻きつけた。


 咲が正気に戻ると全身に力が入らず、その場にうな垂れた。すると、咲は自分の左手首から血が流れていることに気がついた。

(どういうこと? この血は何? 哀さんと私は瓜二つだった。それに哀さんの『私はあなた』という言葉。どういう意味? 私は誰? 私は哀? もう何もわからない)

咲は精神的な疲労からか何も考えられなくなっていた。

「あの後、彫刻にシーツを掛けてから、お兄ちゃんは何をしたのだろう?」

「知りたいか? 知りたいなら全てを話そう」

いつの間にか家に戻ってきていた戒は部屋の前に立って、うな垂れる咲に問いかけた。すると、咲は慌てて身体を起こすと怯えた表情で後ずさりした。

「大丈夫だよ。何もしない。できるわけがない」

いつものように優しく微笑む戒を見て安心したのか、咲はきちんと座りなおすと、

「聞かせて欲しい」

戒の目を真っ直ぐ見て答えた。その勇ましい咲の表情はいじめられている自分をかばってくれた哀の表情と重なった。

「場所を変えよう。外へ出るから上を羽織っておいで」

戒はそう言うと一人階段を降りていった。咲は一旦自分の部屋に戻り、白いコートを羽織ると、急いで戒の後を追った。


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