03 □不思議な女□
湿りすぎ。軽すぎる。湿りすぎ。乾きすぎ。速すぎる。方角が違う。乾きすぎ……
水の柱の上は湿度が安定しなくて困る。
いくつも次の風を読んでいると、背中にいる女の髪がさらさらと風に揺れ、首筋にあたって少しくすぐったい。これじゃ集中できないじゃないか。
天地の柱にのぼって女を見つけたときは正直、心底驚いた。
透き通るような真っ白な肌に漆黒の髪をした女。風の民に違いない俺と同じ年頃の娘が古の樹の近くで眠っていたのだから。
天地の柱とは、俺の暮らす空の国を囲む7つある岩の柱のひとつ。螺旋状にそびえ立つ柱はそれぞれ色が違い、呼び名も違う。
北にある一番低い柱は薄い茶色をしたもので砂の柱と呼ばれる。柱の下あたりでは砂時計の砂に使う上質な砂がとれるらしく、近隣の村の特産品になっている。
その隣は蔦が絡み、コケがついている樹の柱。柱のどこかには呪文を記した石板が埋まっているらしく、空の国の周りにある守りの森の効力はその石板によるものだと言われている。
東の赤く透き通る岩の柱は太陽の柱と呼ばれ、太陽の光を通して影に浮き上がる模様から時刻を割り出し、時読みたちは仕事をしているらしい。
泉のほとりにそびえる水の柱。その白銀の輝きは泉の水を浄化し、国全体を潤している。
漆黒の岩で出来た風の柱の隣には大地の柱。黄金色に輝く柱だ。
そしてその隣に最も天に近いとされる蒼い柱がたつ。それこそが天地の柱だ。
空の国へ伝わる伝説にもこれらの柱に関するものが多く、国を守るものとして崇められている。
「あんな華奢な女が、どうやって、ここに……」
女を遠目で観察しながら俺は一人呟く。
空の国に住む子供で、俺以外に天地の柱へのぼろうとするやつはいない。
……訂正だ。のぼることが出来るやつは、いない。
空の国には風の民・太陽の民・雨の民が暮らしているが、柱にのぼることが出来る能力をもつのは風を操ることの出来る風の民だけ。漆黒の髪と瞳をもつ民だ。
だが、風を読んで、操ることが出来たとしても、またそれにうまく乗ることが出来たとしても、それだけで天地の柱までたどり着ける訳じゃない。
その時々に最適な風を自ら作り出し、風にのって柱をひとつずつのぼって……風を作り出すなんて技は特に、修行中の子供には到底出来ることではない。
俺は、風の民をまとめる風の民の長の息子。幼い頃から風使いになるために鍛練してきたのだから、天地の柱にだって余裕でのぼれる。
大人しかのぼることの出来ない天地の柱だが、彼らは神聖な場所だと言ってほとんどのぼってこない。
子供は来られない。大人は来ようとしない。だから、こんなところに人はいない。
それなのに……
俺すら知らないような目立たない娘が、なんで天地の柱までのぼってるんだ。
女はゆっくりと起き上がってしばらくぼけっとした顔でいたがすぐに立ち上がり、こっちへ向かってきた。
まずい……!
とっさに近くにあった岩陰にうまく身を潜めると女がすぐ目の前を通った。
特に悪いことをしているつもりもないが、なんとなく避けてしまう。
風になびく長い艶やかな黒髪。太陽の光を浴びて輝く雪のような透き通る肌。そして……
身体が凍る。雷にうたれたような衝撃が俺を襲った。自分が喉をならした音が嫌に大きく聞こえた。
こいつの瞳……蒼い。
女は柱の淵まで寄って身を乗り出し、景色を見てのんきにため息なんてついている。
漆黒の髪に蒼い瞳は、空の国の伝説に伝わるスカイの証。風の民のうち、魔力をもつ人間だ。今では王家の血筋以外は途絶えてしまったといわれる伝説の魔術師。
そんなやつが、なんで、ここに……?
ふっと頬を風が撫でた。考え事に夢中になりすぎて反応が遅れる。
まずい。風が、くる。
このままじゃこいつ、落ちる……!
「危なっ……!」
間一髪で二の腕を掴む。女の足元の岩がわずかに崩れ、まっ逆さまに落ちていく。
振り返った女の驚いて見開いたその目はやはり蒼い。空のように透き通る薄い蒼が俺を吸い込もうとしている。
「あの……ありがとう、ございました……」
思わず手をさしのべたが、スカイなら難なく風をかわせたはずだ。仮に落ちたとしても、どうにか出来たに違いない。
「気をつけろよ。風くらい読めるだろ」
ぶっきらぼうなその言葉に、がっかりとした思いが混じるのが自分でもわかる。
スカイは、憧れだった。最強の魔術師スカイ。いつかスカイに会って、修行して。俺は、強くなるんだ。もっと、もっと――
そう思っていたのに。
思わず腕を組んで背を向ける。こんな、こんな女に、魔術が使えるのか。いくら無理な体勢だったとはいえ突風に対応出来ないような、抜けた女に。
だったら、なぜ俺には――
俺に魔術の心得があれば、あのときだって――
「帰るぞ。お前、風の民だろ」
上から下まで用心深く眺めてみたが、スカイであろうとなかろうと、風の民であることに変わりはない。
あえて瞳のことには触れない。俺のわずかな意地だった。
黙りこくる女をおいて大地の柱に最も近いところへ立つ。女は少し遅れて着いてきたが、やがて立ち止まった。
先に行けと言っても反応なし。風を使えないらしい。
は、風を使えない? じゃあ、どうやってここに……?
当然のように湧き出た疑問を思わず口にしたが、女はアメリカだのなんだのわけのわからない言葉をぶつぶつと呟き、しかも竜巻に飛ばされてここへ来たという。……頭大丈夫かこの女。
竜巻で飛ばされて天地の柱へのぼるには隣の地の国から飛ばされる必要がある。そして最近、地の国でそんな大きな竜巻が発生したなんていう報告はなかったはずだ。
それに風の民の子供なら、俺くらいの年で風を使えないなんてことがあるはずがない。
……何者だ、こいつは。
ばば様の類いか。あの婆さんも蒼い瞳だが、スカイではないという。こいつもスカイではないということなのか。でもあの婆さんは少なくとも風の民だ。こいつは風の民ですらないかもしれない。
どうするべきか決めかねていたが、よく考えてみると俺はこの女をとりあえず国までおろしてやらないといけないらしい。
自力で人のいるところへ戻れない女が目の前に一名。そして、目撃者も一名。もし俺がこいつを見捨てて帰り、後で見回りに来た大人たちに助けられたら。
……確実にしばかれる。こんなところに女を置いて帰ったということがあとで母さんにばれたら、確実にしばかれる。
まあ、このまま放置すれば確実に死ぬだろうと思ったのもあるが。
降りるだけなら風に乗ればすぐだ。風を作る必要もないし、手が塞がらない限りはよっぽどのことが起きない限り大丈夫のはず。
あいにく手持ちのロープがないが抱き上げるわけにもいかない。腰元に携えた鞭を軽い手つきでほどき、脚を通せるほどの輪をつくる。これに脚を通して俺の背中に縛りつければ、なんとかなるだろう。
……そのあとのことはばば様に任せればいい。国一番のお年寄りのあの婆さんなら、なにか知っているだろう。
風の民であるなら、名前くらいは知っているか。そう思い、渡した鞭の輪へ脚を通そうとしている間に名を尋ねると、女はカザマツムギとか言うらしい。……長い。植物みたいな名前だ。
とにかく、そんな名前聞いたことがない。覚えるのも面倒だ。
「あの……あなたは?」
「ハヤテ」
「ミョウジは?」
なんだ、それ。いいから早くしろ。待つのは嫌いだ。顔をしかめてそう言うと女は固まり、どんどんと顔が白くなっていく。いや、青くか?
「……ねえ、この国の名前、教えてくれる?」
「空の国、だけど」
女の顔がさっと青ざめた。ただでさえ遅かった動きが完全に止まる。
俺、なんかまずいこと言ったか? てかなんで国の名前なんか聞くんだよ。知ってるだろ、それくらい。
普通そこらの男なら自分の失態を案じてどうしたのかと尋ねるのだろうが、俺はあいにくその手の社交術に長けていない。
そして動きを止めた女を、置いていかれたいのかと容赦なくどやし、柱を渡り始めた俺たちはやっと水の柱にいるのだった。
「……ね、ねぇ」
背中からの声にはっと我にかえる。
「なんだ」
「こ、腰抜けた……」
情けない。
とりあえず一度下ろしてやる。残りの柱は3つだけ。日暮れまで時間もあるし、そんなに急ぐこともない。
鞭をほどいた瞬間、女は息を大きく吐き出してしゃがみこむ。しばらくうつむいた後、女は顔をあげた。
「ハヤテ君、だったよね」
「ハヤテでいい」
「……じゃあ、ハヤテ。私、ツムギだから。さっきの長い名前は忘れて?」
「……」
なにを言い出すかと思ったら。不思議な女だ。ツムギ。うん、ちょうどいい長さ。これなら覚えてやってもいい。
風が、頬を撫でる。
「おいツムギ」
「な、なに?」
「行くぞ。風がくる」
「え、うっそ! ま、待って待って」
あたふたと鞭を脚に縛りなおし、ちょこちょことよってくる。
女とまともに喋るなんていつぶりだっけか――
そう思いながら鞭を自分の身体に縛り、風にのった。