第51話 祝杯
「あ...た.....あな........あなた、起きてフレッド!!」
―彼は意識の底から引きずり戻される。
視界を覆っていたのは渓谷の泥濘ではなく、見慣れた宿の天井だった。
彼は肺の奥にまだ残っていた冷気の残滓を吐き出す。
「ここは....」
レンガ造りの壁、女性もの雑貨の山...なるほどローズの宿か。
―生き延びたのだという実感が遅れてやってきた激痛とともに脳を叩く。
「良かった....目を覚ましてくれて...!」
視界の端でローズが折れそうなほど肩を落とすのが分かった。
その瞳は"お嬢様"というよりも、"等身大の女性"としての側面が滲み出ている。
「あぁ...ローズ....」
「大丈夫? 一応"ヒール"は掛けたけど....」
「...あぁ、問題ない。 ちょっとした夢を見ていただけだよ。」
―勿論、嘘である。
実際には、ロッソシュナイダーの体当たりを受けた五臓六腑が、今もひしゃげた鉄板のように悲鳴を上げている。
だが彼は、彼女も満身創痍の状態でここまで連れて来てくれたのだと分かっている。
故に心配は掛けたくないのだ。
彼は震える指先を隠し、作り笑いを口元に張り付けた。
だが、彼女の冷徹な視線はその虚勢を容易く切り裂く...
「嘘でしょ。 さぁ、観念してどこが痛むのか白状なさい!」
「....バレたか。」
「あなたは嘘を吐くのが下手なのよ。
鏡を見てみなさい、顔色が最悪だわ。」
鏡は確かここに...うわ、本当だ...
「分かった正直に話すよ、そうだな...内臓という内臓が痛む...というよりも違和感があるかな?」
「重症じゃない!? 早く治さないと.....ちょっと、早くシャツ、脱いで!」
―彼女の有無を言わさぬ口調に従い、彼はベストを脱ぎ捨てる。
シャツのボタンを外す指が止まることはない。
もはや彼女に対して素肌を見せるという行為はそれほど重要ではないからである。
露わになった彼の素肌に、彼女の指先が触れる。
直後、"ヒール"の熱い奔流が体内へ流し込まれ始めた。
だが....
「ローズ、そんなに密着しなくてもいいんじゃないか? 」
耳まで付けたって対して変わらないだろうに...
「この方が状態を把握しやすいのよ。 フレッドも男だったら、黙って我慢なさい!」
―彼は論理的な反論を飲み込む。
必死に目の前の男を繋ぎ止めようとする彼女の指先は僅かに震えていたからである。
........
元々、エール随一とは言わないがローズも紅顔の美女だ。
その彼女がますます頬を紅くしているのに何も思わない程、僕だって枯れてはいない。
まぁ、"エルフ?"の体のお陰か性欲はあまりないが...
「....祝杯を挙げよう。
最近見つけた良いレストランがあるんだ。」
「......駄目よ。 あなたの手料理が良いわ。」
―体の"ヒール"は終わったのか、彼女はゆっくりと、しかし少し未練がましく彼の体から手を離す。」
「小さくても良いわ、私達二人だけの祝杯....どうかしら?」
「あぁ、最高のディナーにしよう。」
「駄目よ、"最高"のディナーはもっと先にとっておきましょ?
ところで体の方はどう? もう大丈夫?」
「うん、今度こそ痛みも消えたよ。」
「そう...それは良かったわ! ヒーラー冥利に尽きるってものね!」
―少しおどけて話す彼女に、彼は微笑を返す。
"あぁ! やはり彼女は大切な人なのだ!"と...
「そうだ...ロッソシュナイダーは?」
「死骸はギルドが回収してくれたわ。」
「....あぁ、ありがとう。」
もう、報告までしてくれたのか...手際が良いことだ。
「それと.....これね。 あなたの勲章よ!」
―彼女がテーブルに置いたのは、一枚のプレート。
昨日まで彼を"新人"と嘲笑っていたCランクの文字は消え、そこには"Bランク"という称号が刻まれていた。
「ごめん、こんなことまでさせて....それと、ありがとう。」
「もう....そんなに感謝されても何も出ないわよ?」
――"私の愛以外は、ね"――
―最後の囁きは風の音に紛れて消え、彼に届くことはなかったが、彼は何となく察した様子だ。
「僕が満足していれば....それで良いんだよ。」
「そう...ふふっ、それなら! どういたしまして!」
―それは穏やかな一時だった、まるで騒乱の前触れか、あるいは平穏の来訪かを示すように.....
――――――――――――――――――――――――
その後、ローズは郵便局へと向かってしまった。
故郷へ"戦果"を報告しに行ったのだ。
まさか破けたままの服装で向かおうとしていたので止めたら、"大丈夫よ!"なんて言われるとは思わなかったが....
まぁ、命があれば憂い無しというものだ。
やっぱり契約の影響は大きかったなぁ...
それがなければ、何か手を打つ前に屍になっていただろう。
だが、今は料理だ。
二人っきりの祝杯の場に、料理は必須である。
「さて、何にするかな....」
―そう言いつつも彼の手が止まることはない。
水を含んだ鍋に火をかけると、彼は流れる様に電気冷蔵器から食材を取り出す。
そして切れ味の悪い、だが欠けることのない包丁を持ち、調理を始めるのだ。
食材達を仕立てるために....
――――――――――――――――――――――――
「ただいま、フレッド!」
―出立から二時間くらいで彼女はようやく宿へと帰ってきた。
郵便局へ向かっただけにしては、少々時間のかかり過ぎに感じる長さだ。
「お帰り....! でも随分と時間が掛かったね?」
「途中で友達に会って、つい話し込んじゃっただけよ。
あなたも料理してるだろうから、帰って来なかったけど...大丈夫だった?」
「あぁ、問題ないよ。
そんなことよりも、早く手を洗って来て! 祝杯の始まりだ。」
「あら、それは良かったわ。 じゃあ、ちょっと待ってて!」
......
― 1人残された彼は考える。
果たして、これらの料理を彼女は喜んでくれるだろうが、と。
そして答え合わせの時が来たようだ。
ラバー製の靴底が答えを伴って近づいて来る。
「待たせたわね。」
「いいや。 さぁ、早く座って!」
―彼女は言われた通りに席にへと腰を下ろす。
彼女の借りている宿であると考えれば変な話だが、これが彼らの日常なのだ。
「クロッシュを使うなんて、まるで晩餐会みたいね。」
「なら、素晴らしい晩餐会にしよう!」
「ふふっ、そうね...それじゃあ、私はそのワインにするわ。」
「え.....、これは南部の山岳地帯で採れた葡萄をふんだんに使った白ワインなんだ...確かに味は保障するけど......」
「何よ....祝杯の場でワインを嗜むなんて当然でしょ?」
「ローズにはちゃんとお茶を用意してあるよ...?
しかもディンブラ...イア産の、しかもクオリティシーズンのを...」
「何よ...この前は角瓶を10本飲んだからああなっただけよ!
大丈夫よ、ワインの1本くらい!」
「そう...? なら、まぁ...良いかな?」
「それで良いのよ。」
「それじゃあ!」
「主たるウーシアよ、聖戦のために神聖なる慈悲を我に...!」
「主よ、罪深き私をお赦し下さい。 そして、この素晴らしい食事に感謝を...」
―神への祈り...あるいはまた別の何かを終えると、2人は顔を見合わせ....
「「乾杯!!」」
―重なる器の縁を合図に、その儀式は静かに幕を開ける。
ジョッキに湛えられた黄金色のビールはグラスに揺れる高貴なパールのワインに対し、騎士の忠誠を誓うようにゆっくりとその表面を傾けた。
器という名の鎧を纏った二つの液体はまるで結界を越えるかのように、互いの境界線でわずかに震え合う。
それは、ビールとワインの接吻だった。
モルトの騎士はパールの姫君が持つ華奢な硝子の手袋に跪き、口吻を残す。
硝子の隔たりという名の礼節を守りながら、両者は一度の静止を経て深い盟約を魂に刻み込んだ....
儀式を終えたローズとフレッドは、高潔な余韻を口に含み、ゆっくりと喉へと流し込む。
部屋に響くのは、2つの器がテーブルへと根を下ろす澄んだ音と、互いの瞳を捉えて離さない静寂だけだった。
........
「さぁ、クロッシュを取ってみて!」
―彼に促されるままに彼女はその銀の覆いを取払う。
そして出て来た中身とは...
「シチュー...?」
「それは"ミノタウロスのタンシチュー 〜 ハーブとマジョラムのハーモニー 〜"」
「うーん...? まぁ、良いわ。 こっちは何かなぁ...」
「"シュバイネハクセ 〜 マルドン的な塩と共にに
〜"だよ!」
「"シュバインスハクセ"ね...それで最後のこれは何かな?」
「それは"固くて重いプレッツェル"だよ....仕込み要らずの売り文句を真に受けなければよかった...」
他事を考えながらの買い物は良くなかったな...
今後気を付けることにしよう。
「"ブレーツン"は仕込みが命よ...?
それにクロッシュは要らないんじゃ....でも食べられれば、それで良いと思うわ。」
「そ、そう....それは良かったよ。」
「そんなことよりも、早くワイン!」
「あぁ、ごめん失念してた...でも、ほどほどにしてよ? この前みたいなのはもう御免だ...」
「大・丈・夫!」
「えぇ...?」
「でも、もしそうなったら...その時は受け止めてね?」
「ハハッ...それはちょっと理不尽じゃないかな?」
「あら、ここまで瀕死のあなたを連れて来てくれた"親切さん"は誰かしら?」
「確かに君だね、ローズ。 ん? そう言えば...」
「何?」
「何で"テレポーター"は使わなかったの?」
使った方が安全だし、少々烏滸がましいが代価さえ払えばあのイカレエルフに治療して貰えたかも知らないのに...
「えっ? それは、その....そう、失念してたのよ!」
「へぇ...本当に?」
「ほ、本当に決まってるじゃない!」
「そうだね...ふっ、そういうことにしておくよ。」
「むぅ....!」
―"だって、私以外があなたを癒しちゃ駄目だもの"という彼女の呟きは汽車の警笛に掻き消され、彼には届かなかった。




