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アンラッキーブルース MLB選手 ハリー・ウォーカー(1918-1999)

作者: 滝 城太郎
掲載日:2025/11/15

第二次世界大戦を挟んでいるため、MLB所属期間は11年に過ぎず、レギュラーとして活躍したのはそのうちの5年間だが、規定打席不足も含めて11シーズン中5シーズンは3割を打ち、ほとんどのシーズンで3割5分以上の出塁率を挙げるなど信頼度は高い選手だった。では縁の下の力持ち的存在かというと、そうでななく結構目立ちたがり屋で、連続試合安打、オールスター出場、首位打者としっかりツボを押さえているところが憎い。

 ウォーカー家は、日本に比べると親子、兄弟選手が多いメジャーリーグの中でもとりわけ有名な野球一家である。親子、兄弟の組み合わせというと、ボンズ、グリフィー親子、ディマジオ、ワーナー兄弟あたりがよく知られているところだが、ウォーカー一家は一味違う。

 最も有名なのは、通算打率三割六厘、二千本安打を達成したディキシー・ウォーカー外野手で、首位打者、打点王のタイトルを獲得したこともある一九四〇年代のスタープレーヤーの一人だった。ハリーはこのディキシーの弟である。

 兄弟の父であるディキシー・ウォーカー・シニアは一九一〇年代のセネタースの主戦投手の一人で、同時期に叔父のアーニーもブラウンズに控えの外野手として在籍していた。つまりウォーカー一家は二世代続けて兄弟メジャーリーガーという珍しい一家なのだ。

 ここで紹介するのは二代目ディキシーの弟、ハリーである。

 ハリーは偉大な兄と同時期にプレーしていたこともあって、ジョーとドムのディマジオ兄弟のように何かと比較されることが多かったが、野球の実力は兄に引けを取らないだけのものは持っていた。ただ彼にはツキがなく、それが野球人生の足を引っ張ることになった。

 『アンラッキー・ハリー』と呼ばれたのは、そのツキの無さに起因するものだ。

 しかし、ハリーは数々の苦難を乗り越えてファミリーにさらなる栄光の一頁を加えるのである。


 ハリーが野球選手になろうと決心したのは、すでにメジャーでプレーしていた八つ年上の兄を訪ねてゆき、兄のチームメイトだったルースやゲーリッグを目の当たりにした時のことだ。十四歳のハリーにとってそれは夢のような空間であり、かつては父も伝説の名投手ウォルター・ジョンソンと同じベンチにいたことを想像するにつけ、居ても立ってもいられなくなった。

 一九三六年の春に兄に連れられてヤンキースのスプリングキャンプで出向いた時は、目にもかけてもらえなかったが、翌年にはタイガースとのマイナー契約にこぎつけた。

「リトル・ディクシー」と呼ばれていたハリーは、「リトル」とはいっても一家の中では最も大柄で一八八センチもあった。ただ線が細く、兄に比べると非力で長打を期待できるような選手ではなかった。しかも子供の頃から怪我が多く病弱だったため、プロ生活における最大の課題は、技術云々よりも体力的に過酷なスケジュールに耐えうるかどうかだった。

 D級でスタートしたハリーは、シーズン前にオハイオ州のティンフィンで調整中に腹膜炎を患い、六週間も死線を彷徨うはめになった。虫垂炎を町医者が腹痛と誤診したのが原因だった。

 シーズンが始まると今度はヘルニアに見舞われた。それを隠しながらプレーをしていると、今度は二度の死球で負傷し、ついに試合に出られなくなってしまった。この不運続きこそがハリーが「ハードラック」「アンラッキー」などと揶揄される所以である。


 マイナーを転々としながらもひとかどの成績を残してきたハリーにようやくメジャーから声がかかったのは、一九四〇年のシーズン終盤、二十一歳の時だった。

 ところが、イーノス・スローター、テリー・ムーア、ジョニー・ホップという巧打の名手が揃ったカージナルスの外野は層が厚く、なかなか出番がこない。ホップが移籍したジョニー・マイズの穴埋めに一塁に回された一九四二年にようやくレギュラーの座をつかんだと思ったのも束の間、スタン・ミュージアルという若き天才打者の登場によって、またしてもハリーは控えに追いやられることになった。

 ハリーは酒も煙草もやらない代わりにおしゃべり好きで、良い意味では社交的とも言えたが、中にはうっとうしがる選手もいたほど、試合前にもかかわらず敵味方関係なく話しかけては延々と野球談義をするのが日課だった。

 打席でも落ち着きがなく、ユニフォームの袖をいじったり、打席の足場を固めたりととにかくめまぐるしく動き、動作のたびに帽子を脱いで被りなおすことから『ハリー・ザ・ハット』と綽名されたほどだった。

 そんなハリーをキャプテンのテリー・ムーアが一喝したことがある。

 「相手チームの選手に話しかけるな。たとえ、それがお前の兄貴でもだ」 

 ムーアの助言を守り野球に集中するようになったハリーは、ムーアとスローターが兵役で抜けた一九四三年には、前半戦二十九試合連続安打の活躍でオールスターに選ばれると、後半戦にも二十六試合連続安打を記録し、ようやくレギュラーの座をつかんだ。

 年度成績は二割九分四厘、二本塁打、五十三打点で、三十六犠打はリーグトップだった。

この年に生まれた長男にテリー・ムーアと名付けたのは、喝を入れてくれたキャプテンに感謝してのことである。

 一九四四年は多くの若者たちがそうしたように軍隊を志願したが、入隊早々脳骨髄膜炎を発症し、五日間意識不明の重態となる。開発されたばかりの新薬によって何とか命だけは取り留めたものの、もはや野球をやれる身体には戻らないだろうと医師から告げられた。

 回復後に送り込まれたヨーロッパ戦線では、よりによって最も危険な偵察兵を命じられた。投降しないドイツ兵が潜む地域の偵察部隊の一員となったハリーは、何度も危険な目に遭いながらも敵兵数十名を一掃する手柄をあげ、ブロンズスターとパープルハートを受賞している。

 ハリーは幸運の女神とは相性が悪かったが、悪運は強かったのだ。


 除隊した一九四六年、ハリーはカージナルスに復帰したが、軍隊時代に足と背骨を傷めていたため、かつてのような活躍が望めなくなり、途中からはベンチを暖める日が続いた。そこに追い討ちをかけるように三歳の長男がトラックに轢かれ、足と頭蓋骨骨折の重傷を負ってしまう。

 ハリーが従軍中の一九四四年に首位打者、一九四五年に打点王に輝いた兄ディキシーは、今や球界のスーパースターの一人であり、二人の距離は開いてゆく一方だった。大型爆撃機B17の特等席に搭乗して凱旋帰国した戦争の英雄も、グラウンドでは日陰者の悲哀を味わっていた。

 そのうっぷんを晴らしたのが、ワールドシリーズである。球史に残るエノス・スローターの激走によって七戦目でワールドチャンピオンを勝ち取ったカージナルスにおいて、下位を打ちながら打率四割一分二厘、六打点はともにチームトップだったハリーは、今日でいうところのシリーズMVP候補の一人だった(ワールドシリーズMVPの表彰は一九四九年から)。

 気の毒だったのは、スローターの好走塁ばかりがクローズアップされ、この日決勝の二塁打を放ったハリーはアシスト程度の扱いしか受けていない。その代わり、ワールドシリーズの報奨金で生涯の住処を手に入れることができたのは、せめてもの救いだったかもしれない。 


 この活躍で一九四七年度のレギュラーの座は安泰と思いきや、往年のスター、メドウィックの復帰などによってチームの外野は激戦区となり、開幕から十試合で打率二割、本塁打、打点ともに〇と不振続きのハリーは突然フィリーズに放出されてしまう。

 新旧交代の過渡期にあったフィリーズは外野の層が薄く、打撃陣も粒が揃ってなかったこともあって、ハリーは即戦力となった。時には三番も打ったが二番がはまり役だったようで、久々に彼のバットから快音が聞かれるようになった。兄の勧めでクローズド・スタンスにしたことと、ジョニー・マイズタイプの重いバットに変えたことが功を奏したのだ。

 見違えるように打ち始めたハリーは、兄とともにオールスターに選出され、兄弟揃って先発ラインナップに名を連ねた。ハリーが一番センター、ディクシーが二番ライトだった。

 洒落のつもりか三番を打ったのはマイナー時代からカージナルスでも同僚だったウォーカー・クーパー捕手(当時はジャイアンツ)で、名字と名前の違いがあるにせよ、奇しくも「Walker」が一番から三番まで並んだことになる。

 古巣カージナルスからはスローター外野手とマリオン遊撃手が先発出場したほか、元同僚のマイズ(当時はジャイアンツ)が四番に座っており、まるでカージナルスの同窓会といった趣きだった。

 オールスター後も好調を維持したハリーは、終わってみれば三割六分三厘の高打率で初の首位打者に輝いた。兄弟がともに打撃主要三部門のタイトルを受賞したのは史上初のことで、ウォーカー兄弟以外には達成者がいない。

 よく比較されるディマジオ兄弟の場合は、三部門の全てを制した兄ジョーはともかく、弟のドムが受賞したタイトルは盗塁王だけである。それでも、兄弟で首位打者、本塁打王、打点王、盗塁王、MVPまであらゆるタイトルを総なめにしたのはこの兄弟が唯一の例だ。

 一九四七年はウォーカー兄弟の父にとっても最高の一年だった。兄弟揃ってオールスターに出場したばかりか、ディクシーはドジャースのワールドシリーズ出場の原動力となり、これまではともすれば愚弟扱いされていたハリーが、兄のキャリアハイである三割五分七厘を上回る成績でリーグの打撃王になったのだから。


 一九四八年、ようやく兄に匹敵する知名度を勝ち取ったハリーの前に新たなライバルが現れる。

 二十一歳のリッチー・アシュバーンは俊足巧打の外野手で、後に首位打者を二度獲得するスター候補生だった。新人にして三割三分三厘を打ち、盗塁王と新人王をダブル受賞したアシュバーンが相手では、ハリーも分が悪い。

 二割九分二厘とさほど悪い成績ではないにもかかわらず、シーズン後半は代打に回されたあげくに、オフにはカブスに放出されてしまう。

 年俸交渉で球団と揉めた経緯があるとはいえ、前年度は“フィラデルフィア最高のアスリート”として地方のレストランから新車を贈呈された男にとっては屈辱的な仕打ちだった。

 カブスではあまり活躍できずシーズン途中でレッズにトレードされたが、これで奮起したのか打率を三割に乗せレギュラー外野手の座に返り咲きを果たしている。

 ところが、ハリーのアンラッキーはまだ終わってはいなかった。なんと突然3Aコロンバスに落とされたのだ。

 さすがにメジャーではレギュラーを張れる実力者だけにマイナーでは突出しており、間もなく古巣のカージナルスに引き上げられるが、彼に用意されたのは控えの席だけだった。

 3Aでは高打率を残し、プレーイングマネージャーとしてもひとかどの実績を挙げていたハリーは、一九五五年、カージナルスの監督という大役を任されたが、代打としては三割五分七厘と見せ場を作ったものの、チームは七位に沈み、一年で解雇の憂き目に遭っている。

 その後、パイレーツ、アストロズでも監督を務め、3度のAクラス入りを果たしたが、監督としてのハリーの評判はあまり芳しいものではなかった。元来饒舌なせいか試合中でも小うるさく指示を出し、凡ミスをした選手を口汚くののしるところがあったからだ。

 本人としては兄ディキシーや先輩ムーアの教えを忠実に守っているつもりであっても、時代が変わりかつてのスパルタ指導が若い世代には受け入れられなくなっていったのだ。

 アストロズ監督時代には、黒人選手に辛く当たるという理由で、ジョー・モーガンからメジャーでも例を見ないほどの差別主義者と名指しで非難されたこともあるが、ロベルト・クレメンテのようなプエルトリカンとも親しくしていたように、ハリーには差別感情などなかった。ただ選手に厳しすぎるがゆえに、時に誤解を生んだことは確かである。

 むしろモーガンに対しては、その才能を高く評価していたにもかかわらず、本人にはそれが伝わらなかったようだ。

 またアストロズという新興の弱小球団を率いていたことで、思うように勝てず、監督が地元ファンのストレスの受け皿になっていたことも否めない。一時は地元記者とファンによるボイコット運動まで起こったが、アストロズを球団創立初のAクラス入り(2位)に導くなど、指導者としての手腕を買っていたオーナーの鶴の一声で契約を延長したこともある。

 ハリーは監督としての優勝経験がないため、チームの統率者としては過小評価されているが、コーチとしての手腕は今日でも高く評価されている。

 ハリーの指導によって一流メジャーリーガーになった最たる例は、日本でもおなじみのマティー・アルー(元太平洋クラブライオンズ)であろう。

 小柄で非力なアルーに、走力とバットコントロールの良さを生かした流し打ちとドラッグバントを徹底指導した結果、アルーは三割四分二厘で一九六六年度の首位打者に輝き、生涯打率三割七厘に達するリーグ有数の安打製造機へと変貌したのだ。

 面白いのは、これでマティーはすでに一流メジャーリーガーとして活躍していた兄フェリペとようやく肩を並べる選手になったことだ。

 弟より二まわりほど大柄なフェリペは三割、三〇本塁打をクリアするほどの長距離打者で、このシーズンも三割二分七厘でマティーに次ぐリーグ二位の打撃成績を残している。

 これまで賢兄愚弟と言われた兄弟が一転、打撃タイトル争いを演じるのは、ウォーカー兄弟以来のことである。

 その後、三男のヘススもメジャーのレギュラー外野手として活躍するようになったため、アルー三兄弟は一九六〇年代で最も有名な兄弟選手として注目を浴びた。

 さらにはフェリペの息子モーゼスも生涯打率三割、通算三〇〇本塁打を記録するなど、父や叔父をも凌ぐ名選手に成長し、野球一家としてはウォーカー一家と肩を並べる存在となった(但し、打撃タイトルを獲得したのはマティーだけである)。

 ハリーは選手として日本でプレーを見せる機会はなかったが、昭和三十七年の日米野球の際、カージナルスのコーチとして日本の地を踏んでいる。

 MLB通算(11年) 2割9分6厘 37本塁打 214打点 786安打

”アンラッキーハリー”の愛称はダテではない。運も実力のうちと考えれば、これほどツキのない男に運命の女神が微笑むことなどないはずだが、ことごとく人生の地雷を踏みながら、39歳まで野球人生を全うしたハリーの打たれ強さというかしぶとさは、社会人としての一歩を踏み出したなかりの方々にも勇気と希望を与えてくれるのではないだろうか。

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