平樹安
檀栴は蔵のなかで立ち尽くしていた。
蔵は灯りもなく、薄暗かった。やがて、空の雲が流れたのだろう、格子窓から不意に月の光が差しこみ、邪悪な蛇のようにじっくりと壁を這って、蔵の床に垂れてきた。そしてその光は、冷たく横たわる女の死体を優しく照らし出した。
死体は栴檀の女房だった。栴檀はだいぶ以前より女房の浮気に勘づいてはいた。しばらく泳がせたのち、動かぬ証拠をつかんで本人に突きつけたはいいが、はげしい口論となって近くにあった陶器で頭を殴ってしまい、打ちどころがわるく死んでしまったのである。
とはいえ栴檀は動揺しているわけでもなかった。自分を裏切った女にもはや未練などなかった。栴檀は死体をどう始末するか、そのことばかりを考えていた。しかし女房を殺した直後とあっては、頭が麻痺したようになって、なかなか考えがまとまらなかった。
そのときであった。遠くから鈴の音が聞こえてきた。平樹安だ。平樹安の夜の徘徊だ。栴檀は舌打ちする。
「そうだ。ちょうどあの娘の散歩する時間だったな。くそっ、いまいましい娘め」
平樹安とは気のふれた十七の娘のことだ。十二の年に兄に嬲られ、血のつながった兄弟をそそのかしたと父親に何百回と鞭で打たれて、ついには気がふれてしまった。あげくに、どうとでも暮らせと家を追い出されてしまったが、キリシタンである情けぶかい婆あばに拾われて暮らしている。昼間のうちこそ家に籠もっているものの、夜になると呑気に歌など唄いながら村を徘徊するのである。
以前、行商の旅人がこの村の宿に泊まった際、暑くて眠れなかったのか、夜分に村をぶらりと練り歩いた。そして運わるく徘徊する平樹安に遭遇し、気の毒な旅人は腰をぬかしてしまったのである。それ以来、平樹安は手首にきつく紐で鈴をつけられ、宿の女将は、きまって旅人たちにこう忠告するのが慣わしとなった。
「旅の者、夜更けに鈴の音が鳴るうちは、けっして外に出んように」
栴檀は神経を研ぎ澄ませて鈴の音を聞いた。いくら知能のたりぬ娘とはいえ、こんなところを見られては一大事だ。徐々に近づいてきた鈴の音は、壁や天井に反響して、蔵の至るところから聞こえてくるのだった。栴檀の全身に粘っこい汗が流れる。鈴の音は蔵のまえをゆっくりと過ぎ、やがて遠ざかっていった。栴檀はほっと安堵の息をついた。
だがとつぜん蔵の壁を蹴りあげる音が鳴り響いたかと思うと、平樹安が窓の格子を掴んで顔をのぞかせた。そして床に倒れている女を見て、節をつけ唄った。
こぉろした、こぉろした
にょうぼうをこぉろした
せんだんは、つみびとだ
せんだんは、つみびとだ
栴檀もいきおいよく壁を蹴って、その跳躍で窓までよじ登り、左手で格子を掴むと、平樹安がそれ以上唄わぬよう、右手で喉をつよく締めあげた。そして鬼のような形相で平樹安に問いただした。
「平樹安、答えろ、なぜここに死体があることがわかった?」
なにも答えようとしない平樹安の首を、牛の乳でも搾るように栴檀はさらに締めあげる。平樹安はかぼそい声で言った。
「ち‥‥血の匂いがしたからだ」
「なぜ鈴の音が鳴らなかった。つねにお前の右の手首にきつく結ばれているはずだぞ」
平樹安はさも嬉しそうににんまり笑うと、右の手のひらを開いて栴檀に鈴を見せた。それを見た栴檀はみるみる顔が青ざめていった。
「ええい、変に知恵のまわる女め。手で鈴を握りしめて音を殺し、ふたたびここに戻ってきたというわけか」
「そ、そうだ」
「うぬ、ふざけた娘め‥‥」
この場で平樹安の首を締めきってやりたいところだが、いくら男の栴檀でも片手ではさすがに叶わなかった。かといって蔵を出て外にまわったときには、いくら知能のたりぬ娘とて、全力で逃げ去っていることだろう。
だが娘をこのまま逃がすわけにはいかない。三度の飯より歌を唄うのが好きな女、いま唄ったような歌を、人前で唄われては困るのだ。栴檀は思案を巡らせてから、押し殺した低い声で言った。
「いいか、お前は二度と歌など唄うな。もし唄っているところを見たら、お前と暮らしている婆あばともども、この手でひねり殺してやる。このとおり女房を手にかけた男だ、もうひとりかふたり殺したところで良心など微塵も痛まん。お前がどうしても歌を唄いたければ、鳥にでも生まれかわってから唄え。よいな。人間の姿のまま唄ったときは婆あばとお前の命はない。これはけっして脅しではないぞ。わかったな?」
返事をしない平樹安の首を、栴檀はさらにつよく締めあげる。平樹安は観念したようにわずかに首を振った。
「わ‥‥わかった」
月の明かりが平樹安の端麗な顔を照らし、その光の綾がこの世ならぬ陰影の美をつくりだした。栴檀はほれぼれとその顔を眺め、ここにまで運ばれた互いの奇妙な運命に思いを馳せる。哀れな女よ。このような境遇でさえなれけば、男など憂いのうちにも入らぬものを。栴檀は平樹安の顔に落ちた長い髪をそっと指でかきわけてやった。女がうっとりとした目つきになったのを見て、栴檀はわれにかえる。
とつぜん平樹安の首をぐいと引っぱると、突っぱねるようにいきおいつけて手を離した。平樹安は窓から転げ落ちた。地面に叩きつけられた平樹安は、うめき声をあげながら顔をあげ、月に照らされた栴檀の冷ややかな顔を見て、ぞっと身体を震わせると、乱れた着物をなおしもせず、あたふたと走り去っていった。
栴檀は格子から手を離して床におりると、ふたたび女房の死体をじっと見入った。
女房の浮気を問いつめるため、母親と年のはなれた弟を旅行に出しているが、今日の昼には帰ってくる。おまけに弟はこの蔵で遊ぶのが大好きときている。疲れを知らぬ子供は、旅帰りであろうとこの蔵で遊びたがるだろう。のんびり思案している暇はない。
河原に埋めるのはどうであろう。穴を深く掘って埋めてしまえば、少なくとも自分が生きているあいだは、誰にも見つかるまい。うむ。それがいい。そうと決まれば、このまま朝を待つのはやはり得策ではないだろう。蔵から死体を運び出すのは今宵のうちがいい。闇夜はつねに人殺しの味方だ。
栴檀はあらためて床に冷たく横たわっている女房の死体に目を向けた。そして心のなかで問いかける。なぜあんなくだらぬ男になど身を任せたのだ。あの男のほうがお前の心をもう少し汲みとれたとでもいうのか。お前はおれを欺いた。だから死んで当然だ。千の日をともに過ごし、千の夢をともに見て、果てにこの仕打ちではあんまりではないか‥‥
栴檀は死んだ女房の腕を自分の背中にまわして持ちあげ、その魂のぬけた重い身体をなかば引きずるようにして蔵を出た。
旅行から帰ってきた母親は、栴檀の女房の姿が見あたらないのを、あまり不審に思わなかった。もともと仲がわるかったから、よい仲の男がいて出ていったらしいのだ、と栴檀が言えば、そうか、そんな女だったわい、もっとましなのを見つけてきたらええ、とだけ言う始末であった。
弟ももとから懐いていなかったので、口にこそ出さないものの、いかにもせいせいした感じであった。近所のものたちも、母親がことの顛末を吹聴してまわったあと、女がよその土地の人間だったせいもあり、しばらくするとみな栴檀に女房がいたことさえ忘れてしまったのだった。
村のものたちのあいだでは、むしろ平樹安が唄わなくなったことで話が持ちきりだった。あの不憫な娘、唄うのだけが生きがいだったろうに、と。なかにはそれを残念がるものさえいた。夜中に村に響きわたる、平樹安の幼女のように澄んだ歌声は、ひょっとすると眠れぬものたちの子守唄だったのかもしれなかった。栴檀の女房が姿を消したのと、平樹安が唄わなくなったことを結びつけるものなど、誰ひとりとしていなかった。
しばらく経ってから、平樹安が村はずれの森の木で首を吊って死んだ。平樹安のことなどほとんど忘れかけていたので、その報せを聞いた栴檀はふと、平樹安が家で歌を唄い、同居する婆あばがそれを聞いたのではないかという猜疑心に苛まれた。
栴檀は婆あばの家に線香をあげに行くことにした。平樹安のことについて、婆あばからさりげなく聞き出そうという魂胆である。もしあの歌を聞いていたのであれば、婆あばもやはりこの手にかけなければならぬ。
しかし栴檀は婆あばに家に招き入れられた際、笑いがこみあげてくるのを抑えきれなかった。この婆あば、耳が聞こえぬのだ。
どこまでも不憫な平樹安め。同居人の耳が聞こえぬのなら、せめて家のなかだけでも思う存分に唄えばよかったのだ。平樹安の仏壇に手をあわせ、婆あばに背をむけてるのをよいことに、栴檀は満面の笑みを湛えながら、そんな身勝手なことを考えていた。
やがてその婆あばも病気で死んだ。その頃にはもう、栴檀の女房や平樹安のことを思い出すものは誰ひとりいなくなっていた。
*
ある日、栴檀が耕している畑のあぜ道を、旅の女が通りかかった。
女は足をとめ、畑仕事をしている栴檀に向かって、にっこりと微笑んだ。美しい女だった。栴檀は鍬を持った手をとめると、素朴な農夫をよそおった卑しい笑顔を浮かべた。
女は父親を亡くしてから全国各地の寺を巡礼して、死者の魂を弔っているとのことだった。栴檀はひととおり身のうえ話を聞いたあと、女にこう説いた。おれも父親を亡くしているから、お前の気持ちもよくわかる。だが女というものは男にめとられて幸せになる生き物だ。それに結婚することが天国にいる親父さんへのいちばんの孝行にもなる。女は顔を赤らめて目を伏せた。
「結婚しようにも、相手がおりませぬ」
栴檀は気持ちよく笑って、どんと自分の胸をたたいた。
「ここにおるではないか」
じつによくできた女だった。料理も裁縫もケチのつけようがない。最初のうちこそ母親も、姑らしい意地のわるい目で見ていたものの、一から十まで神経の行きとどいた女の献身的な働きぶりに舌をまいて、ついには降参してしまった。
あえて欠点をあげるとすれば、鳥を好むことだろうか。あの血に染まった夜の平樹安との不吉な約束を、栴檀だってけっして忘れたことはなかったのである。女が庭の木にとまる鳥の名を言い当てるのを、栴檀は露骨に顔をしかめながら聞いた。しかし、女とともに市場に出かけた際、栴檀はどうしてもとせがまれ、珍しい模様の鳥をしぶしぶ買ってやったのだった。
女がなにやら鳥に向かって言葉を発し、鳥がその言葉を繰りかえすのを見て、栴檀は腰が抜けそうになった。人間の言葉を話す鳥が存在することを、栴檀はこのときまで知らなかったのである。栴檀にはこの鳥が不吉に思えてならなかった。だが一方で栴檀は神も仏も信じていなかったから、よもやこの鳥が歌を唄うなどとは思っていなかった。
だが鳥は唄ったのである。みなが寝しずまった夜更けに、鳥はとつぜん歌を唄ったのだ。栴檀がふと目をさますと、鳥籠のほうからなにやら聞こえてきた。鳥は平樹安があの晩に唄った歌を口ずさんでいるのだった。
こぉろした、こぉろした
にょうぼうをこぉろした
せんだんは、つみびとだ
せんだんは、つみびとだ
栴檀は布団をはねのけて起きあがり、隣りで寝ている弟を踏みつけながら、籠のなかで澄ました顔をしている鳥を呆然と見た。弟が悲鳴をあげて目をさました。その悲鳴に驚いたのか、鳥は唄うのをやめた。
「なんだよ、寝ているおいらの腹を蹴りたいほど、おいらのことが憎いってのかよ」
弟が目をこすりながらわめいた。
「聞いたか、いまの歌、聞いたか」
「なんの話だい」
「鳥が歌を唄ったんだ」
「人間の言葉をつかうぐれえさ、そりゃ歌ぐらい唄うわさ」
「するってぇと、お前は聞かなかったのか?」
「むしろ聞きたいぐれえさ、小鳥さまの唄う子守唄なら‥‥」
そう言ってから弟はまた布団にたおれて、すやすや眠ってしまった。
栴檀はおそるおそる鳥籠に近寄って、木枠でつくられた籠のなかの鳥を覗きこんだ。鳥はとぼけた表情で右と左を向いた。栴檀は心のなかで鳥に語りかける。卑しい平樹安め。鳥に生まれかわってまで歌を唄いたいというのか。ならばこの栴檀が何度でも殺してやるまでのことよ。
鳥籠を開くと、栴檀は腕を伸ばして無表情のまま鳥の頭を握りつぶし、布を持ってきて鳥を包んだ。そして小さな鍬を片手に持ち、もう片方の手に布をかついで女房の死体を埋めた河原まで行った。空は女房を殺したあの晩のようにぶあつい雲に覆われていた。
栴檀は女房を埋めた場所を完全に忘れてしまっていた。無我夢中で掘って埋めたので、場所など二の次だったのである。まあ、どこでもいいさ。また適当に地面を掘って、そこが女房を埋めた場所だったなんて偶然はあるめえよ。
女房を埋めるための穴を掘ったときは大変だった。まるひと晩かかった。しかし今回は小鳥だ。掘るのも浅い穴で済むし、骨となっちまえば、どこで飼っていた鳥だか、誰にも分かりはすまい。
鍬で地面を掘り進めると、なにやら固いものにあたった。石だろうか。せっかく掘った地面を埋め、またべつの地面を掘るのも面倒だ。小石ならば掘り起こしてやろうと栴檀は手で土をすくった。先のとがった鋭利なものに手が当たり、指から血が流れる。栴檀は夢中になって土をすくった。すると、細ながい石が地面から突き出てきた。
そこに月がひょっこり顔を出した。栴檀は生まれてはじめて月を見るように呆けた顔で天を仰いだ。それからゆっくり視線を落とすと、月の明かりは土から生えている五本の指の骨を照らしていた。栴檀はのけぞり、穴に向かって鳥を放り投げると、掘り出した土の小山を崩して穴を埋め、ナムアミダブツを唱えながらひたすら走って家路についた。月が冷ややかな顔をして、走る栴檀の姿をじっと見つめていた。
翌朝、目がさめると女が騒いでいた。栴檀が声をかける。
「いったい、なにがあった」
「朝になって起きてみますと、これこのとおり鳥籠が開いており、鳥の姿が見あたらないのです。心当たりはございませぬか」
栴檀は考えるふりをした。
「はて、そういえば、物音に目をさまして薄目をあけると、坊主が寝ぼけて籠をがちゃがちゃやっておったような‥‥」
名ざしされた当の弟は、たしかに夜中に起きたおぼえがあり、なにも言いかえせなかった。栴檀はその様子をみてほくそ笑む。
「近頃おねしょが治ったと思えば今度はこれか。そのうち寝ぼけて家に火をつけんでくれよ」
弟はなにか言いたそうであったが、顔を真っ赤にしながら家を飛びだしていってしまった。栴檀が女に言った。
「籠で飼われた鳥など、しょせん儚いもの。また市場で見かけたら、同じ鳥を買うてきてやる。だからそうめげるな」
女が栴檀の指の傷に目をとめた。
「栴檀さま、その指の傷はどうなされましたか」
「これは‥‥昨日、畑で切ってしまったのだ」
「昨日の晩に、たしかお怪我はなかったはずでは」
栴檀は言葉につまる。威嚇するような目つきで女を睨んだ。
「しかし、おれがそうだと申しておる。これが答えのすべてではないのか?」
「いいえ。私の記憶のなかでは、昨晩の栴檀さまの指に傷はございません」
「‥‥するってぇとなにか、おれについての自分の記憶より、お前の記憶のほうがたしかだと、そう言うのか」
「殿方にはそのような場合が多々ございます」
栴檀は苛立たしそうに言った。
「お前はなぜそんなつまらんことを知りたがるのだ」
「栴檀さまのいとおしい指についた傷ゆえ、知りたいのでございます」
「夫婦だからといって、なんでも話す必要はあるまい」
「栴檀さまのお身体の隅々にまでこの舌を這わせた女にさえ申せぬことですか」
女のこの物言いには、栴檀のほうが顔を赤らめてしまった。栴檀はしばし思案を巡らせてから口を開いた。
「うむ。亭主を思うお前の気持ちはよくわかった。だったら、ほんとうのことを話してやろう。じつは寝床に入るまえ、仕事道具を蔵にしまうのを忘れていたのを思い出してな。これはそのときにできた傷だ。大切な道具をしまうのを忘れたなど、お前にすら打ち明けるのが恥ずかしい話ではないか。だからお前には黙っていたのだ。どうだ、これで満足したか?」
「そうでございましたか‥‥」
だが女は怪訝そうな表情を崩さなかった。
それから数日後、栴檀は畑仕事を終えて家に帰ると、鳥籠のなかにあの鳥が鎮座しているのを見て仰天した。栴檀は叫んだ。
「この鳥はどうした」
「栴檀さまが畑にお出になったあと、ふらりと舞い戻ってきたのでごさいます」
見えすいた嘘を言う。栴檀は女を鋭く睨みつけた。どうせ女の浅知恵、ひとりで市場に行き、よく似た鳥を買ってきたのだ。
「ええい、嘘をつくな、嘘を」
「なぜ私が嘘をついていると?」
ところが、いざ女の嘘を指摘しようにも、もともと鳥に興味のない栴檀には、殺した鳥との違いなどまったくわからなかった。だがたしかに鳥を殺したのだから、これが同じ鳥であるわけがない。栴檀は腹を立てながら言った。
「いますぐ、この鳥を捨ててこい。おれはどうしてもこの鳥が気にくわん」
「なぜこの鳥がお気に召さないのです」
「それは‥‥家畜の分際のくせに人間の言葉を喋るからだ」
「どうして鳥は人間の言葉を喋ってはならぬのでしょう」
「人間は選ばれし生き物だ。こうやって言葉を喋り、魂の震えを伝えている。それをたかだか家畜風情が、うわべだけ真似るなど、噴飯ものとは思わぬか。もしこの世に神というものが存在するのであれば、これは神のつくった欠陥品に違いあるまい」
「しかし栴檀さま、人間は心にもないことを語っては他人を欺き、口先だけでありもしないことをあるように取りつくろいます。これがいったい神さまの望んだことでありましょうか。神さまのつくった欠陥のある生き物がこの世にあるとすれば、その最たるものが私たち人間なのではございませぬか」
栴檀は一本とられてしまった。そばでこのやりとりを聞いていた母親も女の味方についたため、栴檀はこれ以上反論することはできなかった。
しかし自分が鳥を殺したのは間違いのないことなのだから、女が新しく買ってきたこの鳥が唄うことなど、およそありえないことだ。それにこの鳥、よく見るとたいそう愛嬌のあるツラをしているではないか。栴檀は自分にそう言い聞かせ、女に言われるままに餌を指にのせ鳥に食わせてやった。
だが鳥は夜になるとやはりあの歌を唄った。栴檀は気がふれたように飛びおきた。性根のくさった平樹安め。お前は何度でも鳥に生まれかわって歌を唄うつもりか。栴檀は心のなかで平樹安の霊に語りかける。平樹安よ、なぜ歌を唄うのを禁じたくらいで、こうもおれを目のかたきにして呪うのだ。そもそも首をくくって死んだのはお前の勝手ではないか。
それからも鳥は毎晩のように歌を唄った。両手で耳をふさぎ、闇のなかで唄う鳥籠の鳥を、布団のなかの怯えたふたつの目で恨めしげに見る。栴檀にはなみならぬ確信があった。この鳥を殺したとて、何度でもここに舞い戻ってくるのだろう。女は執念ぶかい生き物。おれをとことん追いつめ懲らしめ、やれこれで気も済んだと成仏するまでは、何度でも鳥に生まれかわってあの歌を唄うつもりなのだ。
わかった。平樹安、お前の気の済むまで唄え。喉が枯れきるまで唄うがいい。こうなれば根くらべ。互いに刀をもちあって、どちらが先に相手の喉を突き刺せるか、刃と刃のせめぎあい。相手の喉を突き刺せずとも、刃が折れちまえばそいつの負けよ。一世一代の男の勝負、この栴檀さま、受けてやらあな。
風が吹きすさぶ夜、誰かが家の戸を何度もはげしく叩く。栴檀は鳥が唄っているのを尻目に戸を開けた。
そこには平樹安が立っている。栴檀は土間にへたりこんだ。鳥はぴたりと唄うのをやめ、かわりに平樹安が唄った。栴檀は頭を垂れ、震えながら両手をあわせ、許しを乞うように頭上に掲げる。平樹安は笑みを浮かべた。つぎの瞬間、ひと際つよく吹いた風が、平樹安の姿をかき消した。だが鳥はまた歌を唄いはじめるのだった。
栴檀は寝床に戻ると、髪をかきむしり、布団をかぶって身体を丸める。
そんなある日、栴檀が畑仕事をしていると、ひどく険しい表情をした老人が近づいてきた。
「あんたが、栴檀っつうのかね」
「そうだ。なにか用事か」
「あんたにひとつ、聞きたいことがあるんだ」
「ほう。なんだ」
「あんたはいったい誰を殺したってのかね」
栴檀は絶句した。老人は話をつづけた。
「わしは行商人でな、あちこち旅をしながら、つまらぬものを売っている。数年まえにこの村を通りかかったとき、婆さまが唄っているのをたまたま耳にしたんだ。栴檀が女房を殺した、なんていう物騒な歌をな」
栴檀は思わず叫んだ。
「嘘だ。あの婆あばは耳が聞こえなかったはずだ」
「いや、わしが聞いたのは、耳の聞こえぬ者の調子はずれな歌などではなかった。だが村の者に婆さまの消息を聞けば、かわいがっていた娘っこが首を吊ったあと、耳が聞こえなくなったと言うておったから、おぬしが言うのもまんざらあやまりではない」
栴檀は愕然として虚ろな目をした。
「これがまた妙に耳にのこる歌でな。旅の宿で湯船にのんびり浸かってるときなんぞ、つい口ずさんでしまう。それでわしはまたこの村に来ることがあったら、ちょいと調べてやろうと思っていたわけさ」
老人は見さだめるように栴檀の足元から頭までじっくり眺めてから言った。
「しかしお前さん、いったい誰を殺したってんだね。女房を殺したと歌にあるが、村の者に聞いても、栴檀の女房はぴんぴん生きてるっつうじゃないか。‥‥いや、さりとてわしも老いたる身、これ以上は詮索する気もないがね」
栴檀は鍬を握る手に思わず力が入るが、老人はそれを見逃さなかった。
「おっと、変な気を起こさねえでくれよ。わしだってこんな話をするのに、丸腰で臨んだわけじゃねえからな‥‥」
そう言って老人は、着ている袴を少しだけひろげ、腹のあたりに忍ばせた鈍く光る小刀を栴檀にみせた。栴檀はぎょっとして鍬を畑に投げ捨てると、家へと急いだ。
家のまえまで辿りつくと、なかからあの歌が聞こえてきた。しかし唄っているのは明らかに鳥の声ではなかった。栴檀は力まかせに木戸を開けた。
女は畳に足を崩したまま鳥に向かってあの歌を唄っていた。物憂げな流し目で鳥から栴檀に視線をうつし、栴檀などまるで見てもないような瞳でにっこりと微笑んだ。栴檀は生まれてこのかた味わったことのない恐怖に背筋が凍った。
「お前は‥‥お前は平樹安のなんなのだ」
「なんでもございませぬ。旅の途中の宿で、栴檀さま、あなたさまが女房を殺めたという歌を、たまたま耳にしただけのものでございます」
「こんなことをして、おれをどうしようというのだ」
「どうもいたしませぬ。ただ、哀れな女は、不憫な境遇の女に心を寄せるものなのです」
「お前はなにか勘違いをしている。あの女は夫がありながら他の男に身を委ねたのだ。殺されるだけの理由があったのだ」
「私は先代を哀れんでいるのではありませぬ。さしたる理由もなく心を燃やし尽くされ、自死を選んだ娘さまを哀れんでいるのです」
「それは‥‥あいつが覗き見したからだ」
「それが殺されるだけの理由になるとは、私にはどうしても思えないのです」
栴檀は獣のような唸り声をあげた。そして獣のように歩き、獣のように笑い、女のしなやかな首に手をかけるのだった。首を締められた女は、苦しげではあったが、はっきりとした声で言った。
「無念ながら女の身、あきらめてお手にかかりましょう。でも、栴檀さま、これだけはおぼえておいてくださいませ。虐げられた女たちはみな、心が通じているということを‥‥」