浄化
凪さんの店に戻った頃には、もう暗くなっていた。
タクシーから降りた私は、夜になると活発になる迷い人に怯え、いそいそとドアに向かう。
視線を感じてチラッと横を見ると、少し離れた所に一体の迷い人がいる。
――あいつだ。
黒い靄の判別なんてつかないけれど、直感で私たちにずっと付きまとっている奴だと理解した私は、なるべく気にしないように店の中に入った。
店に入るとフワッといい香りが私たちを包み、新宿三丁目の喧噪が消える。
「お疲れさん、神野くんを連れておいで」
凪さんの声がし、神野さんを背負った緋一さんは、彼の脚が商品棚に当たらないように気をつけながら慎重に進む。
例の応接セットに向かおうとすると、彼女は「こっち」とバックヤードに入っていった。
やがて私たちは、例のゴージャスな住まいに入る。
「すっご……、どうなってるんですか?」
光輝さんも緋一さんも、店の奥にこんなに素敵な家があると思っていなかったようで、目を丸くしている。
「まあまあ。……神野くんはそこにでも寝かせて」
凪さんが指さしたのは、シングルベッドほどの幅があるカウチソファで、緋一さんはそこに腰かけるようにして神野さんを寝かせた。
「ふん……」
彼女は神野さんの顔を覗き込み、何かを見定めるように凝視する。
凪さんは一旦店に戻り、少ししてからガラスの小瓶を持って戻ってきた。
そして彼女は神野さんの額に、小瓶に入っているアロマオイルを数滴垂らす。
「ジュニパーとラベンダーだ。……ラベンダーはもともとラテン語で『ラヴァレ』と言ってね、〝洗う〟という意味がある。二つとも浄化する力を持っているんだ」
彼女は説明しながら人差し指でアロマオイルを伸ばし、口元で何か呪文を唱える。
「放っておこう。そのうち目を覚ます」
最後に凪さんは、サイドテーブルの上に小皿を置いて二つの香りを垂らし、神野さんの顔の近くで香らせた。
「それにしても、彼は厄介な事になってるね」
「どういう事ですか?」
凪さんの言葉を聞いて首を傾げると、彼女は溜め息をつく。
「彼は緋一や光輝に憎悪を抱いていたけど、自分を許せずがんじがらめにもなっている。悪感情を増長させたのはペンダントだけど、それ以前から彼は、強い思い込みと怒りとで自分を責め続けてきた」
それを聞き、私は意外に思った。
何でも他人のせいにしていた神野さんが、まさか自責の念を抱いていたとは思えなかったからだ。
「人の心は複雑でね。相反する感情も存在するんだよ。エリートなら勉強ができただろうし、人間観察も得意だったと思う。ニュースなども見て情報を得て、世の中の人は何を考え、何を正しいとしているかも理解していたはずだ。……でもどんなに正しい答えが分かっていても、自分の中の常識が正論を阻む事もある。……彼はきっと、複雑な環境で生きていたんじゃないかな」
凪さんを前にすると、どんな人も〝面倒をみる相手〟になってしまうのが不思議だ。
「その気持ちも、少し楽にしてあげようか」
彼女はそう言うと、ポケットから大きめのクリスタルの結晶を出し、神野さんの胸元に置いた。
「クリスタルは浄化作用がある。これはかなりの力を持つ物なんだ。目覚めるまで、神野くんの心に巣くった悪いものを吸い出してくれると思う」
「ありがとうございます」
緋一さんは凪さんに頭を下げる。
「彼はここで回復させるとして……、あとは千秋の体だね」
そう言われ、八方塞がりな私は溜め息をつく。
「一体どこにあるんだろう……」
呟いた私を、光輝さんは心配そうに見てくる。
「凪さん、お守りの効果はまだ続いていますか? ずっと俺たちを追っている迷い人がいて、少し心配なんです」
尋ねられた彼女はソファに腰かけるとゆったりとした服の中で脚を組み、意味ありげな表情で光輝さんを見つめる。
「その迷い人は千秋を襲おうとしている?」
改めて尋ねられ、光輝さんは戸惑いを見せる。
「……分かりません。お守りがあるから近づけないみたいです。……でも、寄ってくるという事は千秋ちゃんの匂いにつられているからでは?」
「千秋、その迷い人の他に、追ってくる人は?」
凪さんに尋ねられ、私は今までの事を思いだして首を横に振った。
「……いいえ、多分いないと思います。お守りは確かに効いていて、しつこく追いかけて来る人以外には襲われていません」
その時、緋一さんがおずおずと意見を口にした。




