邪悪
「…………あれ…………。本当にいないんだ……」
けれど中には水があるだけで、縛られた私が押し込まれるように入っている……、なんて事はなかった。
(……じゃあ、私の体はどこにあるの?)
混乱しきった私は呆然と立ち尽くしたあと、のろのろと光輝さんたちのもとへ戻った。
光輝さんは私の表情を見ただけで、本当に体がないと理解したようだった。
「……何もありませんでした」
報告した私の声を聞き、彼は小さく頷いた。
仕方がないので、私は床の上に座って三人のやり取りを聞く事にした。
家の中にはコーヒーのいい香りが充満している……、と言いたいところだけど、二階に来た時からずっと嫌な匂いがしていて具合が悪い。
光輝さんも顔色が良くなく、私は心配して彼に声を掛ける。
「大丈夫ですか?」
すると彼は力なく笑って答えた。
[頭痛が酷いんだ。匂いがきついのもあるけど、それ以外の何か……、頭がボーッとして、意識が混濁してくる……]
どうする事もできない私は「無理しないでください」と言うしかできなかった。
神野さんはテーブルを挟んで私と反対側の床に胡座をかき、ブラックコーヒーを一口飲んでからニヤニヤと笑う。
それを見た緋一さんは表情を引き締めて尋ねる。
「羽根谷千秋ちゃんをご存知ですね?」
「誰? それ」
けれど神野さんはニヤつきながらしらばっくれ、緋一さんは苛立った声で言う。
「神野さんは俺や、俺を慕う光輝まで嫌っていましたよね? ……なのにどうして四月末、俺をイタリアンバルに誘ったんですか? あの誘いに応じたのは神野さんの本心が知りたかったからです。……なのにあの日から俺は自分を見失い、気がついたら柚良ちゃんと付き合っていた。……それに光輝にも酷い言葉を浴びせ、同僚にも無神経な言葉をぶつける最低野郎に成り下がった。……沙織にだって……」
緋一さんは苦悩に満ちた表情で言ってから、キッと神野さんを睨む。
「あの時、千秋ちゃんと柚良ちゃんには偶然会っただけですよね? なのにどうして彼女たちを巻き込んだんですか? 俺が嫌いなら、俺だけをターゲットにすればいいじゃないですか。……千秋ちゃんはどこにいるんですか? 知っているなら教えてください!」
彼の言葉を聞いて神野さんは皮肉げな表情を浮かべた。
「……お前、どうして自分は嫌われてるって思ってるわけ?」
それに緋一さんは視線を逸らし、苦しげに言う。
「……営業成績で神野さんを抜かしたから……、と思っています」
すると神野さんは彼の回答を鼻で嗤った。
「結局、お前みたいな奴は自分がどれだけ周囲の人を傷つけてるか、まったく分かってないんだよ。全部だよ! ぜーんぶ!」
態度を急変させた彼の声を聞き、私はゾクッと背筋を震わせる。
神野さんが感情を高ぶらせると同時に、悪臭がさらに濃くなった。
「女たちはお前を見てキャーキャーしてるし、お前だっていい気になってるだろ? 俺や他の奴らの事も見下してるし、皆の人気者を装っているが、本当は性格が悪いのを隠していい子ぶってるだけのくせに! それに俺が目を掛けてやろうと思った後輩を横取りしたよな!? 部長からも飯に誘われて、月間MVPにも何回も選ばれて、それで幼馴染みはSNS映えする人気のカフェの美人オーナー? できすぎだろ! お前のやってる事、存在、すべてが嘘っぽいだよ! この嘘つきが!」
彼の口から迸るのは、すべてただの妬みだ。
大人ならそれぐらいの事を自覚できてもいいはずなのに、神野さんは表情を醜く歪めて緋一さんを罵っている。
(……いや、彼も緋一さんみたいに取り憑かれているのかもしれない)
その証拠に、神野さんが感情を高ぶらせると同時に、彼の輪郭が揺れるように黒いオーラがはみ出ている。
光輝さんを見ると、たじろいだ表情をしているものの、私を見てコクンと頷いた。
[あとでカクを呼ぶ。でも、まずは神野さんの話をすべて聞いてからだ]
「分かりました」
私たちがやり取りしている間も、神野さんは緋一さんへの恨み辛みをぶちまけていた。
「だからお前の性格を歪める石をつけさせて、嫌われ者にしてやろうと思ったんだよ。その辺の女子大生とでも付き合ったら、あの花屋の女だってお前を敬遠するだろう? いや、今思えば高校生のほうが良かったかもな」
緋一さんは強張った表情で彼を見つめ、自分を律するようにグッと拳を握り、言い返した。
「だからといって、関係ない女子大生を巻き込んでいい理由にはなりません。……千秋ちゃんはどこにいるんですか? 俺に渡したペンダントは、どこから入手したんですか?」
すると神野さんは憎たらしい顔で笑って舌を出した。
「俺は犯人じゃない。だから俺が警察に捕まる事もない。俺はただ、バーで一人で飲んでたら、知らない男に声を掛けられて『願いを叶える石を売ってやる』って言われただけだ。あの女子大生については、石が効かない上に『友達をもとに戻せ』ってしつこくつきまとってきたから、相応の目に遭ってもらっただけだ」
私は神野さんの言葉を聞き、ハッとする。
(……霊体になった直前の事は覚えていなかったけど……、言われてみれば……)
イタリアンバルで神野さんと緋一さんに声を掛けられたのは、今年の四月末だ。
それから柚良はおかしくなって緋一さんと付き合い、私との関係をギクシャクさせていった。
九月になって後期が始まり、柚良とはいっそう仲が悪くなっての十月だった。
(私は柚良にも緋一さんにも『別れてほしい』と言い続けていた。それにイタリアンバルで二人に変なペンダントをあげた神野さんの事も、ずっと疑っていたんだ)
霧に包まれていたように思えた記憶が、神野さんの言葉をきっかけに少し晴れる。
「〝相応の目〟ってなんですか? どうして関係ない彼女を巻き込んだんですか」
光輝さんは表情を険しくさせて問う。
すると神野さんはニタリといやらしい笑みを浮かべ、人を見下した表情で言った。
「あんな頭の悪そうなガキの一人や二人、どうなってもいいだろう。この俺がせっかく一晩付き合ってやろうと誘ってやったのに、ブスのくせに一丁前に警戒して『お断りです』だぁ? 何様のつもりだよ!」
せせら笑った神野さんからはブワッと黒いオーラが立ち上り、悪臭がさらに増す。
頭痛がすると言っていた光輝さんは顔をしかめ、緋一さんは一時は憧れていた先輩の変わりように顔をしかめる。
「あなたがやっている事は犯罪です」
光輝さんが咎めたけれど、神野さんは嘲笑するだけだ。
「はぁー? 犯罪? 俺、いつどこで犯罪をおかしましたか? なーんにも証拠がないんですけど。この家にあのガキがいるとでも思ったのか? そう思うなら探してみろよ! 自由にどこでも開けていいからさぁ!」
煽られて限界を覚えた光輝さんは勢いよく立ちあがり、「失礼します!」とトイレや洗面所、バスルームを見に行った。
緋一さんもベッドの下や収納などを確認し始めたけれど、私はすでに何もない事を確認したから、黙って待つしかできなかった。
十分後、光輝さんと緋一さんは何もない事実に打ちのめされ、顔色を悪くしている。
「ほらな!? 俺は何も悪くないんだよ! お前らが悪いし、あのガキ共が悪い! 天罰が当たったんだよ!」
そんな二人を見て神野さんは哄笑し、――――命令した。
「光輝、緋一なんて殺っちまえ」
「――――はい」
えっ!?
何が起こった? と確認する間もなく、光輝さんは緋一さんに掴みかかり、首を絞め始めた。




