ついてくる〝迷い人〟、また凪の店へ
「……光輝さん」
私は小さな声で彼の名前を呼び、[ん?]とこちらを向いた彼に、視線で迷い人を示す。
光輝さんは〝それ〟を見て表情を強張らせ、[こっちに来て]と反対側を示す。
[……またあいつか。気づいていないふりをするんだ。もう少しで新宿に着くし、何事もなかったように電車を降りて店に行くよ]
「はい」
それから数分間、私は生きた心地がしない状態で息を殺していた。
凪さんはこのお守りを、半径三メートルは大丈夫と言っていたけれど、黒い靄はジリジリと近づいて、ギリギリの距離で私を凝視している。
(ん……?)
その時、私はスンッと鼻を鳴らした。
以前に私を追っていた迷い人は何かが腐ったような匂いがしていたのに、この迷い人はオレンジみたいないい匂いがする。
(でも死者は死者だし!)
「あれに取り込まれたら……」と思うだけで、怖ろしくて堪らない。
やがて新宿駅に着いたあと、私たちはドッと吐き出されるようにホームに出た。
チラッと後ろを見ると、――――ついてきてる!?
(ギャーッ!!)
私は悲鳴を上げ、左手首に嵌めているブレスレットを右手で押さえ「あっちに行け、あっちに行け」と心の中で唱える。
そのまま私たちは早足でルミネエスト新宿を通り、外に出た。
三丁目に差し掛かり、光輝さんが適当に目を付けたドアをくぐった瞬間、フワッといい香りと静けさが私たちを包んだ。
「いらっしゃーい!」
カクの声が聞こえると、緋一さんはどこから声がしたのか不思議そうな顔をする。
知らないのは幸せな事だ。
絶対、あとから絶妙なタイミングでカクが驚かせてくるだろうけど……。
でも、これは洗礼だと思って教えないでおこう。
緋一さんは珍しそうに店内を見回し、――不意に隣に立っている私を見て「わっ」と驚いた。
「……き、君、千秋ちゃん?」
「はい。初めまして、宜しくお願いします」
ペコリと頭を下げると、彼は「本当にいたんだ……」と呟き、また店内を見回してから溜め息をつく。
「……こんな事があるのか……」
「俺も最初は驚きました」
光輝さんが緋一さんに笑いかけた時、奥から「いらっしゃい」と凪さんの声がした。
「お茶を淹れてあげるから、奥においで」
彼女の声に導かれ、私たちは店内を進んで例の応接椅子に着席する。
「ふーん、君が猟沢緋一ね」
緋一さんは男性とも女性ともつかない凪さんの美貌に圧倒され、言葉を失っていた。
「私は宇津美凪。この店の店主だ。沙織ちゃんとも面識があるよ」
彼女の名前を出され、緋一さんは少し安堵した表情になる。
「急いでるのは分かるけど、お茶を飲むぐらいの余裕はあるでしょ」
そう言って彼女はカーテンをくぐって姿を消す。
バックヤードからカチャカチャと小さな音が聞こえるなか、緋一さんは飽きずに店内を見回していた。
「……不思議な所だな。……新宿三丁目にまさかこんな店があるとは思わなかった。……でも、現実にあるわけじゃない? 二重という世界?」
彼が独り言のように言うと、聞こえていたのか凪さんが声だけで返事をする。
「そう。この店は現世と隠世の間にある。千秋みたいに体から魂が抜けちゃった子も迷い込んでくるけど、一般に霊感のある人は二重の世界を見る事もできる……と言っていいかな。ここは現実世界とまったく同じではあるけど、ヒト以外の者も存在している世界だ」
「……俺、テレビの特番で、きさらぎ駅とか神隠しのネタが好きなんですけど、ああいうのも二重が関係していますか?」
緋一さんはやけに順応能力の高い事を言う。
「ある意味ね。ああいうのって、誰かがうっかり現世から二重に迷い込んでしまった状態を言っていると思う。隠世は完全に死者の世界だから、鬼やら天狗やら……という話が出てくるなら、二重だと言っていいかな。隠世って呼び方は小説でも一般的になってきてるから、なんだかフワッとした幻の世界にも思える。でも実際は黄泉平坂の向こうにある、黄泉の国だ。あっちの物を口にしたら戻れなくなるよ」
彼女の言葉を聞いて、私はハッとする。
「な、凪さんがここで毎回お茶を準備してるのって……!」
「あはは! バレた!?」
明るく笑われ、私はゾッと背筋を震わせる。
(……まさか……)
ドキドキしていると、カーテンをくぐってトレーを手にした凪さんが現れた。




