壱島光輝の過去
『兄貴は神社を継ぐのに、迷いはないの?』
大学生になってすぐ、俺は一人暮らしの兄貴が実家に帰ってきたタイミングで尋ねた。
兄貴は柑橘系の香水をつけていて、俺は柑橘の香りを嗅ぐと兄貴を思い出すようになっていた。
香水と言っても市販の物ではなく、うちの神社で売っている〝橘〟という名前の商品だ。
兄貴はその爽やかな香りを気に入っているらしく、ほんの少し香る程度に愛用している。
参拝者に『いい匂いですね』と言われた時はさりげなく紹介しているので、なかなかのやり手だ。
俺の質問を聞いた兄貴は、穏やかな表情で答える。
『俺には光輝みたいな才能はないけど、実家が神社をやっているなら継がないといけないと思ってるよ』
『そっか。……俺はそれほどの情熱はないかな』
『光輝はまだ学生だし、そう思うのは仕方がない。確かに普通の人とは異なる道だけど、悪くないと思う。子供の頃から親しんできたものだし、跡を継ぐために頑張ってきたから嫌だとは思わない。……ただ、俺は光輝ほど霊感はないから、お前の天賦の才能が羨ましいけどね』
才能に溢れる兄貴に、ただ幽霊が視えるだけの体質を羨ましいと言われても、褒められているように思えなかった。
『……視えて嬉しいなんて思った事ないよ。……俺は兄貴みたいに器用な人になりたかった』
『……嫌な思いをさせたならごめん。……俺は光輝みたいな才能がないから、勉強で自分の価値を示すしかないんだ』
ハッとして兄貴を見ると、彼は少し寂しそうな表情をしていた。
『祖父ちゃんや父さんは光輝にとても期待してる。……もっと自分の力を信じていいよ』
そう言ったあと、兄貴は俺の頭をクシャッと撫でた。
兄貴は実家の神社で働いているけれど、私生活も仕事も家族と一緒なのは何なので、神社の近くにある物件で一人暮らしをしていた。
有名女子大で学んでいる妹は、化粧品が好きなのでその関係の会社に入りたいと言っている。
俺は祖父や父が望んだ通りに神道系の大学に通っていたが、どうせ神職に就くなら、その前に少しぐらい普通に働きたいと思った。
――このままでは〝普通〟を知らないまま人生を終えてしまう。
祖父と父に頼み込んだら、兄貴の口添えもあって『三十歳までなら』という期限付きで了承を得られた。
宮司とは一社における責任者で、神社における職名だ。
大きな神社には権宮司という副宮司がいて、禰宜は神職についている人をざっくりと指す事が多い。その下に権禰宜という一般職員、見習いである出仕がいる。
さらに神職には階位があり、上から浄階、明階、正階、権正階、直階に分かれている。
これは神社本庁の階位検定委員会の選考を経て決められるもので、養成所出身か、大学出身かなどで左右される。
加えて特級、一級、二級上、二級、三級、四級という身分に分かれ、それに応じて穿く袴の色が異なる。
これは経歴や人格、功績などで左右され、会社での役職みたいなものだ。
祖父は二級上の宮司で、紫に藤の丸の文が入った袴を穿いていて、父は二級の禰宜で紫無地の袴だ。兄貴は三級で浅葱色の袴を穿いている。
階位が直階なら四級からのスタートとなるが、権正階以上の位を持つなら三級からのスタートとなる。
禰宜となるための養成所を出た人は正階の階位を得て、すぐに神職として働ける力がある。いわば養成所は世間で言う専門学校的な位置づけだ。
その上の明階は大学を出て数年神職の経験を積んだ者に授与され、大きな神社の宮司、権宮司になるにはこの階位以上が必要となる。
俺はこの明階を得るためにエリート教育を受けて今に至っているのだが、土壇場になって普通の社会人経験をしたいと言い始めたので、祖父や父には酷く落胆された。
しっかりお膳立てされて、あとは実際に神職に就いて働くだけなのに、下積みとなる時期を放棄すれば、それだけ結果を出すのが遅くなる。
父が有している二級神職の身分も、三級神職を十五年以上こなさなければ得る事はできず、それだけ神職として過ごす時間は大切なものなのだ。
本当はきちんと修行をしたほうが自分のためにもなるし、祖父や父の期待にも応えられる。
だがこのままでは自分は世間知らずになってしまう気がして、とても怖かった。
友人が就職して合コンなりをして彼女を作り、沢山遊んで結婚する傍ら、俺は大学を卒業したらすぐ家の神社で働き始め、毎日顔を合わせるのは家族だけ。
それではあまりに人としての経験の差がついてしまう。
だから祖父と父に土下座をし、『普通の生活を経験してみたい』と頼み込んだのだ。
認められたものの、たまに雑務を頼まれる事もあり、その時はバイト扱いで働く約束をした。
森浜フーズにも実家が神社である事や三十歳までという事情は話してあり、昇進なしの前提で籍を置かせてもらっている。
その事情は上層部や人事部だけが知っている事で、一般社員が知るはずはなかった。
けれど、いつからか『壱島くんって神主の息子なんだって?』と言われ、俺が神道の大学出身である事も知られ、いつか会社を辞めて神職になるのでは……という噂が広まっていった。
だからなのか、神野さんに『本気で働いてないやつは辞めちまえ』と言われたし、周りの人にも『会社を辞めても太い実家があるお気楽な奴』扱いをされている。
そんな中、緋一さんは俺を気遣ってくれ、先輩として優しく指導してくれた。
彼は家の事情には触れず、営業というハードな仕事をいかに楽しむかを語り、ちょっとしたコツや、取引先相手との逸話も教えてくれた。
はみ出し者を放っておけなかっただけかもしれないが、俺は彼にこの上ない恩を感じたのだ。
その一方で、俺は〝視える〟者として色んなものを目にし、他者の気分や状態で発する匂いを鋭敏に感じていた。
神野さんはいつも何かに苛立っているようで、燻ったような匂いをさせていた。
他の同僚も酷い疲労や悩みを抱え、中には憑かれている者もいた。
けれど俺は神道系の大学を卒業しただけで、そういう人を祓う力は持たない。
祝詞は唱えられるが、神職についていない者が口にすべきではないと思っているし、祖父や父から『一般人なのに、遊び半分で祝詞を唱えるな』ときつく言われたのもある。
そもそも、人に対して『お祓いが必要ですよ』なんて言ったら、怖がられるだろう。
だから俺は視える事は秘密にし、ごく普通のサラリーマンとして過ごしている。
――自分は何も特別じゃない。ただ視えるだけ。
そう言い聞かせ、色んなモノが視えても視えないふりを貫き続けていた。




