女子大生、新宿三丁目にて逃げ惑う
「助けて……っ!」
私――十九歳の女子大生、羽根谷千秋は、夜の新宿を倒けつ転びつ逃げていた。
後ろから私を追いかけるのは強面の男ではなく、ハッキリとした形をとらない人型の黒い靄だ。
ゆらり、ゆらりと輪郭を揺らめかせたそれは半透明の体を持ち、周囲の建物や人々を透かしている。
それなのに、靄は意志あるモノとして私を追いかけていた。
私は全力で走っていて、のったりとした動きの黒い靄が追い付く事はない。
けれど足を止めて呼吸を整えていれば、割とすぐに追い付かれるかもしれない速さだ。
不思議な事に、先ほどから悲鳴を上げて逃げ惑っても、周囲にいる人は私を見もしない。酷すぎる。
『東京の人は冷たい』と言うけれど、女子大学生が声を上げて助けを求めているのに、誰も反応しないのは如何なものか。
「こんな可愛い私が助けを呼んでいるのに、助けてくれないなんて!」……とまでは言わないけれど、大人から見れば十九歳の女の子は守るべき対象なんじゃないだろうか。
十月上旬の暑さが和らいだ頃、ボウタイブラウスを着てマーメイドスカートを穿いた私は、必死に黒い靄から逃げながらそんな事を考えていた。
私は高校を卒業したのち、アルバイトを始めて好きな服やコスメを少しずつ買い集め、楽しい大学生活を送るお気楽学生だ。
丁寧に伸ばしているロングヘアは毎日欠かさずブラッシングをし、メイク動画を見てメイクの勉強をしているお陰か、一般的な顔立ちではあるものの、可愛く見せられているのではないかと思っている。
最近友達と仲違いしてしまったものの、家族とは仲がいいし、バイト先の人間関係も良好だ。
基本的に毎日楽しく過ごしていたはずなのに、なぜか私は夜の新宿で謎の存在から逃げ惑っていた。
私は普段からさほど新宿に興味を持っていなかった。
遊び場なら他にもあるし、両親から「夜は近づくんじゃない」と言われているのに、自分から進んで行く事はない。
だからこそ、自分がどうしてここにいるのか分からない。
最初に気がついた時、私は歌舞伎町と書かれた看板の下に立っていた。
帰ろうと思って歩いているうちに、引き寄せられるように黒い靄が迫ってくるのに気づいたのだ。
黒い靄は私を追ってくる個体の他にも、人気のない場所にもわだかまっている。
下手に道を間違えると新手が増えてしまうと思ったので、私はなるべく大きな通りを選んで走っていた。
実体のないそれに捕まればどうなるか分からないが、黒い靄は思わず「うっ……」と顔をしかめたくなる匂いを放っているので、冗談でも「捕まってみよう」と思えなかった。
こんな異様なモノが徘徊しているのに、周りの人はまったく気づいていない上、中には靄に包まれていても平気そうな人もいる。
「なら、捕まっても大丈夫なんじゃ……?」と一瞬思ったけれど、自分が黒い靄に囚われている事を自覚していない人と、追いかけられている私とでは天と地の差がある。
「お願いだから誰か気づいてよ!」
苛立って叫んだ時――、ふ……っ、と鼻腔をいい匂いがかすめた。
(なんだろう、この匂い)
私はスンッと鼻を鳴らす。
認識したのは、香水とはまた違う、とても清らかで芳しい人の心に訴えかけてくる香りだ。
悪臭の塊に追いかけられている事もあり、私は無意識に香りがするほうへ走り始めた。
匂いを辿って移動するなんて、漫画に出てくる食いしん坊キャラみたいだ。
けれど私は不思議とその匂いを辿る事ができた。
私は大した土地勘もないのに妙な確信を抱いて角を曲がり、路地を突き抜けてさらに奥へ向かう。
走れば走るほど、いい匂いは強くなっていく。
今や香りは目に見えるようになり、微かな光の帯となって、たなびきながら私をいざなっていた。
――もっと奥に行けば匂いの源にたどり着ける!
――きっと助かる!
そんな思いを抱きながら一心不乱に足を動かした先――。
(光ってる)
煌々としたネオンが主張する都会の谷間で、そのドアはホワッと柔らかく温かな光を放っていた。
蹄鉄がつけられた木製のドアの横には葉を束ねた物が下がり、壁にはアンティークなデザインのランプもある。
玄関横のちょっとしたスペースには、クローバーが植えられていた。
新宿三丁目らしからぬその店構えに見とれたのもつかの間――。
「うわっ! 来てる!」
振り向くと通りの角に黒い靄が顔を出し、私は悲鳴を上げると店の中に逃げ込んだ。
その店の名は――。