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いじめるのが愉快な女性

 なんとまつりは、川越デートの翌週、仕事がすんなりと決まった。帰宅した駿に早速報告した。


「え? あ、おめでとうございます……え?」


 宇那木家や真冬の学校行事等に慣れるために奔走していたまつり。その姿しか見ていなかった駿は、今は転職活動をしていないと思い込んでいた。


 その間にしっかり自分の心と向き合って、まつりへの気持ちをくっきりさせて、宇那木家の未来ビジョンもばっちり設計し――と、じっくりゆっくり考えようとしていたところだった。こんなに早く無職時代が終わるとは予想外だった、というのも失礼だが、お金の心配はないのだし、まつりものんびりゆるゆるしてくれると勝手に想像していたのだ。


「会社の場所は」


「本社は横浜の先の―」


「よよよ、横浜?! と、遠い?! です?!」


 勤務地が遠かったらまつりは引っ越すかもしれない。そんな先日の会話が駿の脳内に甦る。冗談の類だとは感じたが、通えるけど意外と遠い場所に恐怖した。


「そこまで遠くは。まぁ、しばらく研修は」


「出ていかないでくれ!」


 駿は素早く激しい土下座をした。勢いが良すぎて、駿はごんと、額を床にぶつけた。


 なぜそんな展開にと驚くまつりだったが、川越の帰りの車内を思い出した。すっかり忘れていたが、ちょっとからかったのだった。


 確かに「本社」は、宇那木家から1時間半ほどかかる。けれど、今回決まった仕事はほぼ「テレワーク」。家から出る必要があまりない、引っ越す必要もない仕事だった。いままでオフィスで働くことしか念頭においていなかった彼女だが、顔を合わさなければ諍いを起こすことは少なそうだし、何より「もっと二人と過ごす時間が欲しい」と思って選んだのだった。


 なかなか見下ろすことのない彼が足元にいる。


 まつりを必要とし、手放さないよう必死になっている。


 ぞくぞくする愉快を感じたまつりは、この事実を伝えるのが惜しくなった。もっと自分を追いかけてすがってほしくなった。


「そうねえ。いままで電車で30分以内にしか住んでこなかったからなあ……」


「えええ!? じゃあなんで横浜なんて」


「落ちまくってたからなりふり構わず……」


「ここならすぐ都内出られるのに」


「前職は都内だったけど」


「さ、埼玉だって会社あるよ?」


 まつりはサイドの髪の毛を軽くねじねじといじる。


「それよりお風呂入ってよ。真冬ちゃん、お腹すいてるよね?」


「いや先に」


「整理つけない駿君のせいじゃない。あとで話そ」


 まつりはぷいと台所で夕飯の支度を始めてしまった。これ以上話しかけても無視されるだろうと推測した駿は、背中を丸めとぼとぼとリビングの扉をあけて閉め、風呂に続く扉を開けて中へ入った。


 という様子を、実はリビングのテーブルで宿題をしていた真冬は一部始終、見学していた。立ち上がり、キッチンカウンター越しにまつりに話しかける。


「お家で仕事ってなんで言わないの?」


 まつりは口を片端だけ上げ、鼻から息をふんと吐き「面白いから」


 お母さんは意外と性格が悪い。ということを心に刻んだ真冬だが、ふとあることを思いついた。


「学童、やめていいってことかな?」


「そうね、いいかもね」


「水泳とか英語とか、他にも習い事できる?」


「おー、いいじゃない。うん、いっぱいやるといいよ。私も働くから、お金は心配しなくていいし」


「え、え、じゃあ見学行く。それとそれと、友達を家に呼んでもいいのかな」


「どうぞ。桜ちゃんたちに会ってみたいな」


 帰宅したら誰かがいる。


 それは真冬の自由度があがることになるのだった。遠慮して友人を家に招かなかったし、習い事もわざわざ、駿の休日に合わせて選んでいた。もう、そんな遠慮はいらないのだ。


「嬉しい~」


 と、真冬が特上の大トロを食べたようにつぶやくと、風呂上がりのどんよりした駿が「何が嬉しいの?」どんよりと尋ねてきた。髪の毛が中途半端に濡れて中途半端に乾いている。


「お母さん、いなくなっちゃうかもしれないのに、何が嬉しいんだ」


「今日は真冬ちゃんの好物だから。これから満足に夕飯作れないしね」


 というのは、研修で本社に通う間の事である。


 まつりの駿いじめは続いていた。真冬は彼女のわくわくした雰囲気を察し、宿題に戻る。まつりが出ていくかもという恐怖に周りが見えなくなっている駿は、何一つ感知できない。


 台所でご飯をよそうまつりに接近し「まつりさん、俺、頑張るからもう少し」


「近いなあ。子供の前で辛気臭い顔と辛気臭い話題はしないでよ。後にして。真冬ちゃん、ご飯運んで」


 ほーいと、真冬はキッチンカウンターに置かれたご飯と味噌汁をテーブルに置いた。


 まつりは駿にチーズハンバーグの皿を2つ目の前に出し「持ってって」と指示する。ぬるりと手を出し、駿は受け取ってテーブルに持っていった。


 美味しい匂いの夕飯を前にしても、駿はお葬式のような顔から回復しない。さすがにこれでご飯は食べられない。


 やり過ぎたかとまつりは反省し「あのね、実は」と言いかけたところで、駿が窓が割れるような声で「いただきます!」と、がつがつ食べ始めた。


 この行動に、前に座るまつりも真冬も呆気にとられた。つっこみをいれる隙もなく、駿は早食いをし、あっという間に平らげ、食器をシンクに運んで洗い、リビングの扉を開けて部屋に閉じこもってしまった。


「とりあえず、いただきまーす」


 今日は体育もあって腹ペコの真冬は、ばくばくと食事を始めた。まつりは反省しながらしんみりと、味噌汁を飲んだ。




◇◇◇◇◇




 優柔不断でどんくさい。分かり切っている弱点なのに。


 駿は部屋の真ん中で立ち尽くし、自分の弱い部分を恨み始めた。恨んだところで、結局は自分の過失だ。負の矢印はループする。


 川越氷川神社の帰り道、駿は隣にまつりがいることに幸せを感じた。「必要」は「好き」なんだと、じわじわと気持ちがあぶり出されているところだった。


 それでも、まだ「あぶり出されている」段階で、クリアにそう伝えるには何かが足りなかった。


 駿は本棚の一番下に、本のように収納されている鮮やかな黄色の缶を取り出した。缶の表にはお菓子の名前とシンプルな鳩の絵が描かれている。


 長い間閉じられていた缶はキレイなままだが、固く、ぽこんと簡単にはあけられなかった。ベッドに腰かけ、駿はさまざまな角度から力を入れてぐいぐいと引き上げた。がぽん、という音共に缶が開いた。写真が乱雑に詰め込まれている中、一番上に駿の姉、このみの写真。駿はおっかなびっくり手を伸ばし、このみの写真を取り上げた。


 駿が上京したての頃のもので、黒い電子ピアノの前で演奏する姿が写っている。真冬の部屋にある、あのピアノだ。


 ぱちぱち、と脳の中で写真と記憶がつながる。


 一年半くらい前の事だ。真冬が突然、「お母さんってどんな人?」「趣味は?」「子供の頃はどんなだった?」など、細かいことを次々と質問してきたことがあった。その時にピアノが好きだったと答え、それから真冬はあのピアノを触り始め、しばらく後にピアノを習ってみたいと言ったのだった。


 写真も見たいと言われ、パソコンのフォルダに入っていた、真冬と写っているものを見せた。


 実は宇那木家には、このみの写真はどこにも飾られていない。亡くなった直後はリビングに置いていたのだけれど、見るたびに駿は悲しく切なく、守れなかった後悔やこのみの元気だったころの記憶がどばっと脳内に溢れ、再生され、仕事や真冬の世話どころではなくなりそうになった。そういう訳で、このみを思い出すようなものは処分したり隠したりしてきた。


 服や携帯、本などの「物」は処分できた。しかし、彼女の生前の姿を映し出す写真は捨てられなかった。実家に送ることも考えたが、上京してからのこのみ、自分だけの知っている彼女を手放したくないという矛盾も起こり、とりあえず缶やパソコンに押し込めた。


 そしてもう一つ捨てられなかったのが、電子ピアノ。このみが一番愛していたこと。アマチュアではあったけれどなかなかの腕前で、学校から帰るとピアノ、休日もピアノと、気づけばピアノを弾いていた。実家にはアップライトピアノがあったのだが、こっちでは賃貸ということもあり、ヘッドホンが付けられる電子ピアノを買って使っていたのだ。


 このみの音色は駿の心の薬だった。幼い頃より背は高くも性格は小さく、なかなかクラスメイトと仲良くなれない。それでも家に帰ればこのみがいて、ピアノを聞かせてくれて。そのおかげで、学校に対してネガティブにはならずに済んでいた。そして上京してからも彼女の音色に癒されていた。


 ピアノを捨てることは、このみを捨てること。それに、いつか真冬が弾くかもしれないし、という言い訳のような期待から、ずっと取っておいた。実際に娘はピアノを習い始めた。


 駿はもう一枚、このみの写真を取り出す。正面を向いて笑っている。


 久しぶりに顔を合わせた姉。


 亡くなって何年も経っているけれど、


「やっぱり、好きだな……」


 と、駿は思わずこぼしてしまった。


 この気持ちを「整理」しなければ、駿はまつりに気持ちを伝えられない。


 まつりとこのみ。どっちが好きか比べられるものではないほどに、駿の中ではまつりも大切な人にはなりつつあるけれど、このみの顔を久しぶりに見つめると、どうしようもなく恋しくなるのだった。駿は写真を缶に戻し、また本棚の一番下へ差し込んだ。


 どのくらいの時間、部屋に引きこもっていただろうか。コンコンと、扉を叩く音がした。


「はい」と駿が声をかけると、扉が開き真冬が顔を出した。


「もう寝る」


「おやすみ」


「お母さん、謝りたいって」


「謝る……?」


「うん。私はとってもすっごくぐっすり眠るから、お母さんとじっくりお話してね。じゃ」


 真冬は音もなく丁寧に扉を閉めた。

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