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あなたの理屈

 理屈からいえばなんだって肯定できるし否定もできる。理屈は楽だ。誰もが義務教育の数学において、いくつかの理屈のこね方を習っているし、頭の中に理屈の種類が少なければ少ないほど取捨選択をしないで済んで、なおさら理屈を組み立てやすくなる。すでに理屈に従えばいい頭に成り下がっている。理屈にはなぜか説得力がある感じがする。でもだからといって、理屈の奴隷になってはいけない。あくまで方法の一つとして、頭の片隅に置いておく程度に留めるべきものなのだ。

 昔嫌っていたサッカー部の顧問の声が聞こえた。口答えするな。理屈でものを言うな。そんなのは生意気だ。


 あなたは目の前のドアの鍵を開け、次の部屋へと進んだ。それは間違いなく前進であって、決して後退などではなかった。部屋には自分の母親の子守歌の声が充満していた。これまでに母親の子守歌など聞いたことがなかったはずなのに。あなたはこの部屋で、母親の子守歌を初めて耳にしたのだった。

 そして部屋は庭園でもあった。上下左右、計6面の壁が囲う立方体の部屋である。その中で美しい花が咲き乱れ、それらを種別・色別に仕切る柵も立っている。この状況を、部屋と判別するべきか庭園と判別するべきか、あなたは決めかねていた。どうでもいいことであるはずが、むしろどうでもいいことにこそ、今のあなたには心惹かれるのであった。そうやって判別できないのも、もしかしたら今のあなたの経験が足りないせいなのかもしれない。この部屋に入ってあなたは生まれたてだった。母親の子守歌に抱かれ、美しい庭園に囲まれた、順風満帆の幼少期。これは後退ではなかった。この部屋に入ったのは紛れもない前進のはずだった。

 そこであなたはあることに気が付いた。どうしても理屈を使えなくなっていた。まるで最初から持っていない三本目の腕を動かそうとするようだった。代わりに両手の指を動かしてみる。以前まで数を数えていたはずの指折りという動作に、その残像さえも浮かんでこない。風が吹いてピンクの花びらを掴んだ。あなたは訳も分からず、それを口にした。花びらが舌の上に貼りつくように置いて、口の中に爽やかで不味い風味が広がる。すると背中に体重が傾いて、足が耐えきれず倒れ込んでしまう。花がクッションになったおかげで痛みを感じなかった。


 部屋の天井に昼の太陽が貼り付いていた。空は高い。限りがないから高いと思うのか、今みたいに天井があるから高さを認識して「高い」と感想をもつのか。やはり判断がつかない。この部屋で唯一、疑問に答えてくれるかもしれない、あなたの母親は子守歌をやめない。育児放棄。歌って子育ての不安をかき消そうと、読経を編み出してしまった。姿もみせないで、自身のために歌っている声だけをあなたに聞かせている。

 だが母の不安などあなたの知るところではない。あなたは生まれたての赤ちゃんだから、母親の気持ちなど知らなくてもいい。知りたいと思う、その思いやりか知的好奇心だけで、庭園の花と一緒に育っていけばいい。あなたに語り掛けてくる、この声の正体を知るために純文学なんて領域に足を突っ込んではいけない。あなたはこの部屋に入って、生まれ直すことに成功したのだ。これは紛れもない前進だった。決して後退などではないし、もはやこの部屋には、進むための扉も戻るための扉も備え付けられてはいなかった。花が咲くことに理屈が存在しないように。

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