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魚の夢

作者: 雪咲

 僕には夢がなかった。子供の頃はなりたいものなんていくらでもあったが、それらは年齢を重ねるにつれて馬鹿馬鹿しいと思われ始め、次第に気泡のように消えていく。

 高校三年生になった現在、僕には何もなかった。

 勉強はたいして得意ではない。運動も苦手。趣味は近所の水族館に通うことくらいか。幼い頃から年間フリーパスを毎年購入し、週一くらいで水族館に通っていた。田舎の小さな水族館なので、人もそれほど多くはなく、静かに魚たちを眺めることができる。

 僕はこの静寂が大好きだった。


 担任に進路希望調査書を書いて提出するよう言われ、何も書くことが思いつかない僕は、水族館を訪れた。悩み事があると、いつもここにやってくる。

 入口の顔見知りのおじさんと少し会話し、顔パスで館内に入った。

 少し進むと、通路の左右の壁に小さな水槽が並んでいる。ここには熱帯魚や貝などが入れられている。

 ゆっくりと時間をかけて、それらを眺めながら進んでいった。

 通路を出ると大きな水槽がある。海洋大水槽といい、ここにはイワシやネコザメ、エイといった多くの魚たちが住んでいる。

 海洋大水槽の前にはソファがあり、僕はそこに腰かけた。一面の水色と優雅に泳ぐイワシの群れを見ながら、僕は進路について考え始めた。

 あの魚のように何も考えずにふらふらと泳いでいたい。

 そんなことを考えながら、ゆらゆらと揺れる海藻や魚を見ているうちに、僕はすっかり眠りこけていた。


 気が付くと、景色が変わっていた。

 あたり一面が水色なのは変わっていないが、何かおかしい。水の中にいるみたいだ。しかし呼吸には問題がなさそうである。呼吸をしている感覚はないが、溺れている感覚もない。

 自分の身体が見えない。視線を下に下げようとしても下がらないし、手を動かそうと試みるが何も動かない。

 そして周りに意識を向けてみると、そこには魚たちが泳いでいた。────まさか。体ごと反転させようと意識することで上下左右を認識することができて、同時に自分の状況を把握した。


 僕は海洋大水槽の中の、一匹の魚になっていた。


 これは夢だ。でなければ妄想だ。だがこのまま醒めないでほしいとも思う。

 『胡蝶の夢』という中国の話では、男が蝶になって空を舞う夢を見て、人間の自分は蝶が見ている夢なのではないかと考える。

 僕の場合は、それが魚だったみたいだ。

 進路に悩んでいる僕が、魚の見た夢だったらどれだけ良いか。

 そんなことを考えていると、近くを泳いでいた魚のうちの一匹が声をかけてきた。

「新入り? 海から連れてこられたの?」

 どうやら魚の姿の僕は、もともとこの水槽の中にはいなかった、という設定らしい。

 とりあえず、そうだと答えておく。

「そっかぁ、よかったね」

 そんな魚の反応に、僕は疑問を持たざるを得なかった。

 よかった? 確かにこうやって魚になっていることで現実から逃避できていることは嬉しいよ。人間だった僕にとっては。でも、魚にとっては自由に泳げる海の方がいいのではないのか。

「君は海よりここの方がいいって言うのか」

 他の魚たちも、いつの間にか僕らの周りに集まってきていた。

 そして皆、口々にこのようなことを言った。


 ────ここは定期的にごはんをもらえるし、敵に怯えることがない。海で怯えながら泳ぐよりずっといい、と。


 彼らは囚われたままでいることを是としているのだった。自由を捨て、人に飼われることを受け入れ、狭い水槽を自分たちの世界としている。

 僕はなぜか少しだけ、嫌悪感を覚えた。

「あの人間、今日も来ているよ」

 一匹の魚が向いている方向に目を向けると、そこには人間の僕が寝ていた。魚の夢を見る直前に座っていた、あのソファだ。

 僕は今、この世界に二人(正確には一人と一匹)存在していることになるのだろうか。それとも、向こうの意識がそのままこちらに来ていて、あれはただの抜け殻なのか。

 まあきっと夢なのだから、細かいことは考えるだけ無駄か。

 魚たちが人間の僕のいる方に集まっていくので、僕もそちらに向かった。自分の顔、身体を見るのは不思議な気分だ。

「あの人間さ、目が腐っているよね、最近は特に」

 ある魚が呆れたように言った。目が腐っているなんて魚にだけは言われたくない。

「今日は寝ているから目が見えないね、残念」

 どうやらある種の見世物のようになっていたようだ。魚を覗いているとき、魚もまた僕を覗いていた。なかなか哲学っぽいじゃないか。ただのパクリだが。

「かわいそうだね」

 と、また別の魚が呟いた。

「あの人間は何かに悩んでいるみたいだけど、自由な外に生まれたから選択肢が多すぎて選べなくなっているんだ。僕らみたいに、生き方が全て決められた世界に生まれていれば悩むことなんて何もないのに」

 他の魚たちも頷くように体を動かす。それが僕にはとても気持ちの悪いものに感じた。

 彼らは自由に生きるという権利を捨てることで、選択するという義務から逃れている。そしてそれを幸福だと嘯いているのだ。

 そんな彼らに、僕は強い嫌悪感を抱いた。そしてそれは、同族嫌悪のようなものだったと気付いた。

 将来なんてまるで考えず、適当にその場凌ぎで流されながら生きていた今までの僕と、狭い箱庭で与えられる餌を食べながら生きる彼らは同族だ。

 魚になりたいだなんて、もはや思えない。

 彼らのようになんて、なりたくない。

 そう強く願った瞬間、強烈な睡魔が襲ってきた。力の抜けた身体が水に浮かんでいき、煌々と光る照明が近付いてくる。乱反射する光でキラキラと輝いている水面に出て、空気に触れたことがわかった瞬間、僕の意識は人間の身体に戻ったようだった。人間の身体と魚の身体との間に見えない糸が通じていて、そこをまっすぐに辿って行ったような感覚が訪れたのが分かった。


 瞼を持ち上げると、だんだん目が光に慣れていく。正面を見ると、水槽の端に魚が集まっていた。さっきまで僕がいたはずの場所だ。

 あの夢がたまたま現実とリンクしたようになっていただけなのか、それとも何らかの不思議な現象により現実に魚になっていたのかは僕には分からない。

 だが、あの経験が僕を少しだけ前に進ませた。


 僕は家に帰ると、すぐにシャープペンシルと進路希望調査の紙を取り出した。二度ノックして芯を出し、氏名やクラス番号しか書いていなかったその紙に、さらさらと文字を増やしていく。

 僕は水族館が好きだった。周りの人間には恐らく進路を決めた理由がそれだと勝手に判断されるだろう。

 書き終えると、机を離れる。

 しばらくしたらきっと会いに行くよ、魚たち。

 今度は君たちを従える立場としてね。


 ────机に置きっぱなしにされた紙の、希望する進路の欄には、このように書かれている。

 『水族館スタッフ』と。


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