前編
僕は今日、告白をする。
相手の名前は本橋柚葉。隣のクラスの高校2年生。
彼女のことを初めて知ったのは去年の始業式、クラスの自己紹介の挨拶。その時はクールで物静かな印象だったのもあり、元来女性に対して奥手な僕とはあまり関わり合いになる人ではないなと思っていた。
しかし、同じクラスで過ごしているうちに知った、彼女が友達と話す時に見せる時の楽しそうな様子、明るい笑顔のギャップにすっかりやられてしまった。
その時はその笑顔が僕に向けられることがなくても、少し離れた席でその様子を見守り、たまに挨拶を交わすことができればそれで充分幸せだと思っていた。
しかし、今年のクラス替えで僕のささやかな幸せはあえなく崩れ去ることとなった。
ただのクラスメートに過ぎなかった僕と彼女の間柄はクラスが変わればただの他人に逆戻りだ。
教室でおはようと挨拶をすることも、彼女の笑顔を見ることももう叶わない。
それならばいっそ、この想いを伝えてしまいたい。勝算は無いに等しいけれど、延々この想いを抱えて過ごすくらいなら思い切って告白した方がいい気がする。それに、どうせ違うクラスなんだから失うものは何もない。
そう自分に何度も言い聞かせ、ついに今日覚悟を決めて放課後、彼女の教室に顔を出してみた。
教室には何人かの生徒が残っており、友達とだらだら喋ったり、ノートを開いて自習したりしていた。去年のクラスメートなど、ちらほら知っている顔もいる。
しかし、その中に彼女の姿はなかった。
遅かった。つい、がっくりと肩を落とす。流石に30分は悩み過ぎたか。もう少し早く覚悟を決めていれば……
「おう、松下じゃん。どうした?」
僕が教室の扉の前でぼんやり立ち尽くしていると聞き覚えのある声が耳に入ってきた。顔をあげると、池谷がこちらに向かって手を振っているのが見えた。
数少ない、中学時代からの友人だ。
「誰か探してんの?」
「あぁ……本橋さん、いるかな、と思って……」
「本橋?本橋……って誰だっけ」
そう言って首を捻る池谷。まあ、無理もないかもしれない。クラス替えを終えてまだ2週間ほどしか経っていないし、本橋さんも積極的に男子と喋るようなタイプじゃない。
「本橋さんなら多分図書室じゃない?帰りの会終わってからずっと寝てたみたいだけど、さっき起きて図書室の本抱えて出て行ったよ」
僕がなんと説明しようか考えあぐねていると、池谷の隣の隣の席で自習していた眼鏡の男子が顔をあげ、話に入ってきた。
「そっか……ありがとう、助かったよ。それじゃ」
「あっ、おい、待てよ松下……」
僕は彼らに手短に礼を言うと踵を返し足早に図書室へと向かった。池谷が何か言いかけていたが、今はそれどころじゃない。
渡り廊下を通り、3階の図書室を目指す。階段を1段登るたび、心臓の鼓動も一段と高鳴っていくのを感じる。
ついに図書室の前まで辿り着いた時には緊張と興奮で身体が張り裂けそうな思いだった。
震える手でドアノブを掴んで捻る。キイイと金属の擦れるような音と共に、ゆっくりとドアが開く。
放課後の図書室はいつにも増して静まり返っており、レースのカーテン越しに差し込む西日に照らされ淡いオレンジに染められた空間はどこか人間を寄せ付けないような、神秘的な空気が漂っていた。
しかし、彼女は確かにそこにいた。
肩まで伸びた癖のない黒のストレートヘア。本のページを捲る白く細い指先。
扉の音に気付いて本橋さんは顔をあげた。切長の瞳が僕に向けられる。
「あっ……松……下くん?」
静まり返った空間に本橋さんのハスキーボイスが響く。
本橋さんが僕の名前を覚えていてくれた!
それだけで僕の心は浮き足立ち、まるで羽が生えたかのような気分だ。
内心の興奮を隠しつつ、僕は一歩一歩探るよう図書室に足を踏み入れ、本橋さんの顔に目を向けた。
「う、うん。久しぶ…………っ!!?」
「? どうかした?」
改めて本橋さんの顔を近くで見て「それ」に気付いた時、僕はあまりの衝撃に言葉を失ってしまった。
僕の異変に気付いて彼女は眉間に皺を寄せる。とっさに僕は何でもない、と大袈裟に手を振って顔を逸らした。
しかし、僕の脳内には一瞬前の光景が焼き付いて離れなかった。
本橋さんの斜めに流した前髪の奥、真っ白な額の中央には大きく「肉」の字が刻まれていた。
もう一度、ゆっくりと彼女の顔、というか額に目を向ける。やはり見間違いではなかった。1/4ほど隠れているが、黒のマッキーペンで描かれたそれは間違いなく「肉」の字を表していた。
一体なぜ?僕は悪い夢でも見ているのだろうか?
しかし、これは間違いなく現実で、目の前の本橋さんは実在し、口元に手を当て怪訝そうな顔で僕のことを見つめていた。おでこに落書きされながら。
「……松下くんも、何か借りにきたの?」
「……えっ?……あっ……う、うん!そんなところ……」
ほとんど脊椎の反射で文字を並べて言葉を返す。本橋さんから話しかけてきてくれるなんて、いつもの僕なら内心ガッツポーズが止まらないところだが、今の僕の脳内は全くそれどころではなかった。
(普通に話しかけてきたっ!こ、これは……ドッキリなのか!?僕に対する!)
この意味不明な状況をどうにか理解しようと、脳をフル回転させ直感で思考を進める。
それと同時に、現状を冷静に整理し、直感を論理で突き詰める。
(……いや、その可能性はないだろう。僕が今日ここに来たのは全くの偶然。告白することも本橋さんはもちろん、周囲の人間にだって伝えていない。ドッキリの線は薄いだろう……だとすると……)
ここまで考えて、僕はある一つの仮説に辿り着いた。
(本橋さんは、落書きに気付いていない……?)
本橋さんは再び手元の本に視線を戻している。眉一本動かさないいつものクールなポーカーフェイスだ。まるで落書きなどされていないかのような。
(マ、マズい……非常にマズい状況だ。すっかり告白どころではなくなってしまった……だが、どうすれば……)
この状況に対する答えはおそらくこの図書室のどの本にも、世界中のどの参考書にも書かれていないだろう。
問1.落書きの件を彼女に伝えるべきか否か.
まず最初の問題。そもそも僕は彼女に愛の告白をするためにここに来たのであって、「あなたおでこに落書きされてますよ」と伝えに来たわけじゃない。このまま落書きの件には触れずに告白をして、ダメならそれまで。万が一オッケーをもらえたらラッキー。それだけの話じゃないか?
いや、違う。
この場で告白が上手くいこうがいくまいが、この後本橋さんが落書きに気付くタイミングは訪れる。遅くとも今日中には確実に。
その時、本橋さんはどう思うだろうか。おそらくかなり恥ずかしい思いをするだろう。それに、僕のことをめちゃくちゃ変なやつだと思うだろう。仮に今告白して上手くいっても、そこで気持ち悪がられて振られる可能性もある。
もちろん、ごく僅かではあるが本橋さんが気付かないままお風呂に入り、汚れを落とす可能性もあるだろう。ただもう一点、懸念すべき事項がある。
確実に本橋さんのおでこに落書きされていることを知っている人物。そう、落書きをした張本人の存在だ。
その人物が何者なのかは分からないが、このまま僕が告白したとして、この件がそいつの耳に入るようなことがあったら……
僕は「おでこに落書きされた女に告白した男」として噂されることになるだろう。
いや、それだけではすまない。「おでこに落書きされた女に振られた男」として、学校中から後ろ指差される存在になりかねない。流石にそれは残りの学生生活、耐えられそうにない。
やはりここは、告白の前に落書きの件を伝えるべきだろう。
問2.落書きの件をどのように彼女に伝えるべきか.
ここが最大の難問。流石に僕の口から直接指摘するのは憚られる。告白のムードも何もあったもんじゃない。最悪そこで嫌われるパターンもあり得る。
やはり、彼女自身に気付いてもらうしかない。では、どうやったら自然に気付かせる流れに持っていけるのか……
「……じゃあ私、そろそろ帰るね」
「えっ!?」
本橋さん突然の帰宅宣言。思考をフル回転させていた僕は思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。本橋さんは一瞬身体をこわばらせたが、すぐに気を取り直したようにそそくさと帰る準備を始めた。
このままじゃマズい!告白するにせよしないにせよ、本橋さんをこのままの状態で下校させるのは……!
「ちょ、ちょっと待って!」
緊張と焦りから思わず大声で呼び止めてしまった。もちろん、その先に続く言葉は何も用意できてない。
本橋さんもびっくりしたのか、その場でピタリと動きを止め僕の顔を覗き込んできた。微かに眉間に皺を寄せているが、その表情からは何も読み取れない。読み取れるのは「肉」の1文字のみ。
思わず目を逸らすと窓辺から差す夕日が目に入り、眩しさに目を細める。
同時に、僕の脳内にも一筋の光明が差し込んだ。
「……あー!ここ、夕陽が綺麗に見えるね!いい景色だなー!」
「え……夕陽?」
「ほら、こっち来てみなよ!図書室って、こんないい眺めだったんだなー!」
僕は唐突に図書室の窓に近づいてカーテンを開け、戸惑っている本橋さんに声をかけた。
確かに今日はよく晴れていて夕陽も綺麗に見えたが、本当はそんなことどうでも良かった。
本橋さんにガラス越しに外の景色を見せる。それこそが僕の狙いだった。
ガラスに映る自分の顔を見れば、落書きに気付くかもしれない。ちょっと苦しいが他の手に比べれば自然な流れだろう。
「……!そうだね!確かに、綺麗な景色かも……!」
一瞬、奇人を見るような目で僕のことを見ていた本橋さんだったが、突然思い直したかのようにそう言うと、窓のそばに近づいてきてくれた。
本橋さんとの距離が近くなり、思わずドキリとする。クールで大人びた印象の本橋さんだったが近くで並ぶと思ったよりも華奢なのが分かる。
「あっ、あそこ、陸上部が練習してる。今走ってるの、髙橋じゃない?去年一緒のクラスだった……」
「うん、そうかも……」
僕はなんとか外の景色に目を向けさそうと努力を試みたものの、本橋さんはどこか落ち着かない様子で、しきりに僕の方へ目線を送ってきていた。
(おかしい……なんで僕の方ばかり……これはまさか……バレている!?告白しようとしていたことが!!)
そう考えてみると、別におかしな話ではない。
放課後、2人だけの図書室。皮肉にも、告白にはおあつらえ向きのシチュエーションだ。
再び心臓の鼓動が高鳴るのを感じる。
(だが、今はマズい!本橋さんが落書きに気付いていないこの状況では!しかし……言うしか、ないのか!?)
今や本橋さんは外の景色になど目もくれず、ほとんど真っ直ぐ僕と向き合っている。
彼女の頬が赤いのは、夕陽に照らされているせいだけなのだろうか。
もうダメだ。僕は一度大きく深呼吸をすると、覚悟を決めた。
「「あの……」」