子供たちの楽園
先月、暇を持て余していたので近くの自然公園まで行った。
そこを選んだのに、これといった理由はない。
ただ何となく歩いてみたかった。
自然公園に行くと、人でごった返していた。
想定外の事態に驚くが、そういえば今日は日曜日だったか、と思い出す。
曜日を把握するのない生活を送っていたせいだろうか、曜日という感覚がない。
電車に乗ったとしても、自分の目的地の最寄り駅で降りても気づかず、目的地についてようやく「ああ、人が少ないと思ったけど今日は日曜日だったか」となることが多く、その日もそんな感じだった。
この公園は入ってすぐに大きな噴水が設置されている。
噴水だから大きくて当然なんだが。
自然公園に私が最後に行ったのは一年前の話であり、その時には噴水の中に二羽のオシドリがいた。
今はすでにいない。
どこか別の場所に移ったのか、あるいはこの世のどこにもいないのか、わからない。
いずれであっても確かめる術は無く、確かめる意味もない。
もうここに入って鳥はいないことに変わりはないのだ。
それがなんとなく寂しかった。
噴水を通り過ぎて、花畑が見えてきた。
わたしにはパンジーくらいしか花の名前はわからないが、それでもピンク、オレンジ、紫など色とりどりの花は綺麗だと思った。
綺麗だなとしか、思わなかった。
花畑とはいえ、全て花で覆われているわけではない。
大規模な公園だけあって多くの道が花畑に設けられている。
中には車が二台通れるサイズの道さえあった。
そんな花に囲まれた道を歩くのは殆どが親子、もっと言えば子連れの母親である。
花を見てはしゃぐ子供を見て喜ぶ親。
ママ友とのお喋りに夢中な連中。
花畑に入ろうとする子供とそれを止める母親。
花には目もくれず、ベビーカーの中しか見ていない若い夫婦。
色々な人がいたのだが、感じた事は二つだけだ。
一つには足が痛いな、という事。
二つ目には、私にもあんな頃があったのだろうか、ということ。
幼少期の記憶がさほどなく、4歳以前のことは何一つ覚えていない。
母親にそれを言ったら驚かれてしまったので、多分普通ではないのだろうな、と思った。
花畑を通り過ぎると、今度は草原だった。
というよりは、バーベキュー場であるらしく、ほかの場所以上に人が多かった。
親子連れのほうがここでは少なく、大学生と思しき若者や、会社の集まりだろうか中高年の集団もいる。
近くには、軽食を出しているカフェもあったので、そこで食事をとった。
頼んだのはフランクフルトとポテト(ケチャップ付き)だ。
油なのか、水なのか、いずれが原因なのかはわからないが、どうにもポテトはふやけていた。
フランクフルトはどうにも物足りないと感じた。
ポテトのケチャップを流用したら足りなかったのだ。
昔からいまだにからいものがダメなので、マスタードとケチャップがセットになった奴は使えないのである。
本当に、あれから都合よくケチャップだけ絞り出す方法はないものだろうか、と思う。
そこでは梅の花がちょうど咲いていた。
三月の半ばとなると、梅の花が咲いているというのはまれだと思うが、ここではちょうど満開となっていた。
酒を飲んでいる人もいるのか、笑い声と話し声が絶えなかった。
だというのに、どこか私はそれをこそ寂しいと感じていた。
バーベキュー場となっている草むらを過ぎたところにあるのは、公園であった。
いや、今までも公園であったのだが、より公園らしくなったというべきだろうか。
それは巨大な遊具の設置された広場だった。
滑り台やらジャングルジムやら様々な遊具が一体化して巨大な遊具になっている。
公園に建てられた看板によれば、その遊具がある広場は「子供たちの楽園」というそうだ。
なるほど。
この言葉を見たとき、私は納得した。
ただ単に、その広場と遊具が子供たちにとって楽園なのだろう、という納得ではない。
ああ、あの場所は子供たちだけにとってだけの楽園なのだろうな、という諦念だった。
私は、あの場所を楽園だとはもう思えない。
あそこで遊ぼうとは思わない。
人の目が気になるからではない。
たとえ誰も見ていなくても、あるいは私以外の大勢の大人があそこで遊んでいたとしても、私はあそこには戻らないし、戻れない。
私はもう子供ではないから、戻れない、戻らない。
緑に囲まれた楽園、なんてものを見たせいだろうか。
とある童話を思い出した。
年を取らない子供だけの楽園、ネバーランド。
だけど、一度そこを出てしまったら、大人になってしまう。
そして大人になってしまったら、もう戻ることはできないのだ。
その光景を見た後、私はすぐにその場を離れ、帰宅した。
あそこは、私のいるべき場所ではなかったからだ。
そしてきっと、もう二度と来てはいけない。




