21,満足
泥を啜りながら這い回るような心地だった。
惨めで、苦しくて、それでも止まる訳にはいかなくて。
世界のすべてが敵に思えた。
世界のすべてに絶望しそうだった。
嘆きたかった。恨みたかった。憎みたかった。
でも、ダメだ。
――祖父の最期に、願いを聞いた。
余りにも強烈な支配者として生れ落ち、世界のすべてから排除されそうになったこの異形の身を、愛してくれた、そして守り抜いてくれた――たった一人、凡庸な男が、最期に願った事。
純真無垢な幼子のように、笑い続けろ。
そして、笑いながら死ねるように、生きろ。
――「孫を一人、立派に育てあげる」。
そんなささやかな願いすらままならず踏み躙られた凡人が、苦渋にまみれながらもどうにか取り繕った笑顔を孫に向けて、願ったのだ。
願ってくれたのだ。
だから、止まれない。
惨めで、苦しくて、絶望しそうで、嘆きたくて、恨みたくて、憎みたくても。
それらすべてを笑い飛ばして、生きていかなければ。
笑いながら死ねるその日まで、どんな手段を使ってでも、笑いながら生き続けてやる。
声高らかに笑い続けて、死んでやる。
◆
「ヴァハハハハハハハ、ヴァハハハハ!」
声高らかに笑いながら、ナラク・シュラクが右拳を振るう!
漆黒の拳は地面を削り取るような軌道で、シエルフィオーレの腹を抉った!
声もなく血反吐を撒き散らしながら、シエルフィオーレは自身の腹にめり込んで拳を抱きかかえ、全力で捩じる!
ボギゴキボガッと湿った鈍い音が連続して、ナラク・シュラクの右手首の関節が粉砕ッ!
「ギャッ」
ナラク・シュラクの短い悲鳴を一切気にかけず、シエルフィオーレが跳ぶ! 狙うは、ナラク・シュラクの顎ッ――白い牙を砕き散らす、渾身の膝蹴りッ!
シエルフィオーレは止まらない! 空中で身を翻し、白い破片を散らしながら仰け反るナラク・シュラクの胸に足刀を叩き込――もうとしたが、漆黒の左手で受け止められた!
「!」
「ヴァアアアアアアア!」
もはや笑い声なのか雄叫びなのか。境界が不明瞭になったナラク・シュラクの咆哮!
咆哮に任せてナラク・シュラクはなんと、手首がグシャグシャに砕けたはずの右手を思い切り振り回した!
再生機能が役立たずになった今、当然、拳は握れていない。言うなればその一撃は、ラリアット! しかし粉砕骨折した腕を振り回すなど、正気の沙汰ではなし!
――この遊び、絶対に負けるものかッ!
そんな信念……いや、執念が、ナラク・シュラクに手段を選ばせない!
「ッ……!」
炎を出す霊力が尽きたシエルフィオーレに、空中で身を躱す術は無い! 腕を盾にして防御、これが精一杯!
「ヴァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
渾身の咆哮=渾身のパワー!
漆黒のラリアットが、シエルフィオーレを薙ぎ払う!
――そして、追撃がくる!
薙ぎ払われて空中を滑っているシエルフィオーレに漆黒の光塊――全力疾走のナラク・シュラクが並走!
「ヴァルアアアア!」
吠え、そして踵落とし!
吹っ飛んでいる途中のシエルフィオーレを、鋭い一撃で大地へと叩き落とした!
「が、ぁ……!?」
大きくバウンドしながら、シエルフィオーレが喘ぐ。もう、半ば意識が途切れかけているのだろう、右目は完全に白目を剥き、左目も後を追いかけていた。
「ヴォオオオ!」
なおも、ナラク・シュラクは追撃を続ける!
バウンドしたシエルフィオーレの喉を目がけて、左の手刀! 首を斬り飛ばす意気込み!
「あ、あああああッ!」
ここで、シエルフィオーレも吐血で濁った声で吠えた!
僅かに顔を動かして、喉狙いの手刀を――噛み付いて受け止めた!
「!?」
歯が何本か砕け散ったが、成功! が、そのまま地面に叩き付けられてしまう!
それでもなお、シエルフィオーレはナラク・シュラクの手に噛み付いて放さない! そのまま――ナラク・シュラクの掌の一部を、食い千切ったッ!
「ヅァ……!?」
一瞬の怯みが命取りッ!
シエルフィオーレはナラク・シュラクの左手を胸に抱き寄せて、その反動で浮かせた下半身、足を思い切り振り回す!
ナラク・シュラクの左肘を、蹴り砕くッ!
「グアアア!?」
「……殺す……!」
ナラク・シュラクが立て直す前にシエルフィオーレは立ち上がった。
しかし追撃の前にナラク・シュラクも仕切り直しが間に合った。
「精霊の女……貴様、最高かァ!」
「殺す!」
――流石に、そろそろ意識が飛びそうね……!
認めたくはないが、意地を張って機を図り違え敗北する訳にはいかない。
己のコンディションを的確に推し量り、シエルフィオーレは決断する。
――次の一撃で、決める。
……できれば使いたくない「手」だが、ここまで来てケチな事は言うまい。
ナラク・シュラクはもう再生できない。「この一撃」を受ければ、流石にもう立ち上がれないだろう。
問題はどうやって「この一撃」を確実に叩き込むかだが……目はある。
先の応酬で、ナラク・シュラクの両腕を砕いた。奴の腕を使った攻撃は、多少なり精細を欠くはずだ。
蹴り技はモーションが大きい。牽制も無しで蹴りに頼るほど、ナラク・シュラクも愚ではないだろう。
なら、ここでシエルフィオーレが突進すれば、ナラク・シュラクはおそらく迎撃と牽制を兼ねて腕を使った大振りな攻撃を使うはず!
それを躱すなり防ぐなりした一瞬を狙って、更に追撃してくると予想できる。
だったら――止まらずに突っ込み続ければ!
「あああああッ!」
シエルフィオーレ、咆哮! 気合を入れて、走る! ナラク・シュラクへ、突進!
「ヴォアアアア!」
満面の笑みで応えるナラク・シュラク!
右腕を大きく振りかぶり、ラリアットを以てシエルフィオーレを迎撃する!
――狙い通り、雑な大振り!
シエルフィオーレはそれを、躱しも防ぎもしなかった!
彼女はただ、直前で少しだけ腰を落として背を丸め、全力で地を蹴ったのだ!
そう、シエルフィオーレは――ギリギリでナラク・シュラクのラリアットを掻い潜った!
「なんとォ!?」
敵の大振りに対して前傾で勢い良く突っ込むなど、下手すれば致命的な一撃を自ら浴びに行く事になる、蛮勇に等しいリスキーな賭けッ!
だがシエルフィオーレは賭けに勝ったッ!
「――っしァ!」
シエルフィオーレ、歓喜の猛りと共に一歩、強烈に踏み込んだ!
「!!!!」
ナラク・シュラクが目を剥く!
深く腰を落として拳を引いたシエルフィオーレのその手を見て、驚愕した!
――陽色の炎!!
シエルフィオーレの拳に、炎が灯っている!
「【日輪はお前の生を認めない】……!」
霊術起動、シエルフィオーレの霊力が回復した――のではない!
シエルフィオーレの表情は、「隠していた奥の手を取り出した」と言うような自慢気なものではない!
その表情は、何か、体の奥底から大事なものを抉り取られているような、そんな激しい苦痛を堪える表情!
彼女の表情から、ナラク・シュラクは即座に察した――この女、命に関わるような無茶をしているのかッ! と!
そう、その通り! シエルフィオーレは今、命がけの――と言うより、命を削る無茶をしている!
霊力とは、魂の代謝によって作られるエネルギー!
つまり、魂から無理矢理、霊力を捻出する事も可能!
シエルフィオーレは今、自らの魂を引き千切って霊力へと変換し、その拳に陽を灯したのだ!
「――殺す!」
正拳突き――この世で最も拳に力を乗せられると言われるパンチの極致。
陽の炎を纏ったその一撃が、ナラク・シュラクの腹へ向けて、放たれる!
「グアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!?」
ナラク・シュラク――炎上ッ!
漆黒の巨体が、陽色の炎に包まれ、焼かれる!
「アギ、ハ、バ、アアア、アアアアアアアアアアアアガアアアアア!!」
再生力は失っていても、霊術殺しの体質はまだ生きている。
しばらくの悶絶の後、ナラク・シュラクを包み込んでいた炎は消えた。
「カ、ハ、ァ……」
全身を丹念に焼き尽くされ、漆黒の肌を更に黒く焦がしたナラク・シュラクが、茫然と立ち、ゆらゆらと小さく揺れている。
シエルフィオーレは片膝で地を突きながら、ナラク・シュラクの一挙手一投足を警戒した。
――もう、立つ事もできない……このまま、死ね!
シエルフィオーレが祈るように睨み付ける中、
「あ、ぁ。が。ヴァ、ヴァハ、ヴァハハ、ァハハハ……」
……やがて、ナラク・シュラクは笑い始めた。
だが、もはやその声に生命力はない。消えかけの掠れ声だ。
フラフラと後退しながら、力無く、ナラク・シュラクは笑い続ける。
「強い、な……貴様、本当、に……一体、何が、そこまで、貴様を……?」
その質問に、答えてやる義理は無い。
だが、ヤンキー時代の精神性――例えどんなクソ野郎だろうと、タイマン張った相手の遺言くらいは聞いてやる情けが、シエルフィオーレにはある。
なので、必要最低限の言葉ではあるが、彼女は答えた。
「……あの子を守るためよ」
「!」
あの子、とやらが誰なのか、ナラク・シュラクには皆目見当がつかない。
だがしかし、理解できる事はあった。
「成程……愛する者を……守る、ためか……」
ナラク・シュラクが目を細める。
まるで……この世で唯一、自らを愛してくれた何者かを追憶するように。
凡庸な老いぼれのくせに、押し寄せる大軍を相手に一歩も退かなかった祖父の背中を懐かしむように。
「――道理で、勝ち難いはずだ」
納得して、また、ナラク・シュラクは笑った。
「負け、か……貴様のような女を支配できた心地は……如何なものか、知りたかったが……やはり、世の中ままならん。……だが、不思議なものよ……ヴァハ……最期の最後で思い通りにいかなかったと言うのに……ヴァハ、ハハハハ……笑いが、止まらんよ……成程、成程……これが……満足、か……!」
――……きっと、日が暮れたのだ。
遊ぶのをやめて、片付けをして、親御の元へと帰る時が来た。
最高の一日だったと笑いながら、影を伸ばして家路に就く時が来た。
やり残しなど微塵も無い。満ち足りた愉しい日が、終わるだけ。
「うむ。良い。好い。――祖父よ……貴様の願い、確かに叶えたぞ」
それだけ言って、ナラク・シュラクは倒れた。満面の笑顔のまま。
まるで、遊び疲れた子供のように、満足げに笑いながら――深い深い夢の世界へと、沈んでいった。




