19,無垢の邪神と殺意の太陽
視界の端に黄色い何かが見えたと思った瞬間、思いっきり蹴り飛ばされた。
自身を襲った事態を冷静に解析して、ナラク・シュラクは起き上がる。
「おっと……危うく、死ぬ所だったな」
起き上がると、蹴りを決められた首がだらりと横に垂れた。首の骨が粉々になり、筋繊維もズタズタ。千切れかけになっている。
流石のナラク・シュラクも首がもげたら死ぬ……まぁ、試した事は無いので、もしかしら首がもげても数秒以内なら治せるかもだが。
ナラク・シュラクは手で頭を持ち上げ、首に意識を集中。
秒もかからず、千切れかけだった首を元通りに修復した。
「よし……ん?」
ふと、気付く。何やら、辺りの様相が今までの森や草原とは一味違う。
苔が這った規格外の巨木の根元、太陽花の花が咲き乱れている……差し込む木漏れ日が、近くにあった湖の奥底まで照らし出す。
静けさがありつつ、森のさざめきや小鳥の声があるので寂しくはない。
妙に幻想的な場所だ。
――ナラク・シュラクは知る由もないが、ここは陽だまりの園。
とある精霊の庭園である。
「ふむ。風情のある場所だな。好い」
うん、と一度だけ頷いて、ナラク・シュラクは意識を戻す。
何にかと言えば、当然、先ほど自分を蹴り飛ばした何者か。
「ヴァハハハ。意識の外からの一撃とは言え、危うく即死する所だった……面白いッ!」
何者かは知らんが、是非遊ぼう!
と言う訳で、ナラク・シュラクが腰を落とし、疾駆しようとした、その時。
陽だまりの園に、パァンッ! と手を叩き合わせる音が響いた。
「!」
ナラク・シュラクは異変に気付く。
――体が、動かないッ!
「ツォツォツォ! 申し訳ございませぇん。かっちり・がっちり・少しばかり! 固定させていただきました!」
ふわりと軽く空を舞いながら、ナラク・シュラクの視界に踊り込んだ全身桃色コーデの派手紳士。
――濃桃色薔薇の精霊、スケルッツォ!
ナラク・シュラクに負けず劣らず、いつも笑っている精霊界の騒音災害ッ!
「状況から察するに、アナタがナラク・シュラクですねぇ? ツォツォツォ! いやぁまったく。どうも好き放題に大暴れしていただいたようで! こちらとしましては、やんちゃなのはシエル嬢だけでお腹いっぱいもう限界って所なんですがねぇ! ツォツォツォ!」
「ほう、精霊か。元気が良いな。好いぞ。だが、貴様は先ほど蹴りを入れた奴とは違うな」
ナラク・シュラクを蹴っ飛ばしたのは、黄色い奴だ。
「えぇ。当方、根っからの技巧派、即ちテクニシャンですので? アナタみたいな筋肉だるまを蹴り飛ばすだなんて肉体派フィジカリストマッスルライクな趣味は無いと言いますか? と言うか、アナタに手を出したらシエル嬢の矛先がこっちに向きかねませんし……なのでまぁ、シエル嬢が来るまでそこで固まっていてくださいまし」
ナラク・シュラクが動けないのは、スケルッツォの霊術【不朽の情熱】によるものだ。
事象の固定。特定の現象をそのまま固定する術式。ナラク・シュラクを「走り出そうと腰を落としたナラク・シュラク」と言う状態で固定した……のだが、
「悪いな、遊ぶために準備が要るから待てと言うならば『待つ』のもやぶさかではないが、『おとなしく待つ』のは性分に反する! ふんッ!」
ナラク・シュラクが一息吐いて力むと、パキィンと何かが割るような音が響き、漆黒の巨体が活動を再開。体の調子を確かめるように、肩をぐりんぐりんと大きく回し始めた。
「そのシエルジョーとやらを待つ間、貴様がワシと遊べ」
「……こりゃあびっくりのスケルッツォですねぇ。ツォツォ」
茶化すように笑ったが、スケルッツォ、本気でびっくりしている! 危うく笑顔が崩れる所だった感まである!
事象の固定は当然、物理法則の埒外にある超現象だ。筋力でどうこうできるものではない……はずなのだが。
今、ナラク・シュラクは霊術など使ってはいない。霊力を放出した感触も無かった。
だのに、スケルッツォの霊術を確かに破ったッ!
そんな事ができると言う事は――
「存在レベルで霊術へ干渉し得る……大精霊様クラスの霊格、またはそれに匹敵する何かをお持ちだと?」
「ん? よくわからんが、支配者の器ならば持って生まれた」
「ツォツォツォ! はい、それは確かによくわからない! 思わず当方、大・爆・笑! ツォツォツォツォツォ!」
「景気の良い男だな。うむ、好いぞ。ワシも笑おう! ヴァハハハハハハハハハ!」
共に大笑いしながらも、スケルッツォはその笑顔の裏で考察を続ける。
そして、辿り着いた結論は――
――まさか、【邪霊】って奴ですかねぇ?
それは、精霊に匹敵する霊格存在。ただし、種族名ではない。
獣も人間も精霊も、誰でも、邪悪を突き詰めれば邪霊へと昇華――いや、邪霊へと堕ちる。
アバドンゲートの件でシエルフィオーレは危うく邪霊化しかけた。
悪意や殺意などの邪悪な意思が世界を歪ませる領域にまで増幅した存在を、すべてまとめて邪霊と呼ぶのだ。
しかし、邪霊にしては――気配が奇妙な気もする。
ナラク・シュラクの気配は、強い。異常なほどに。平凡な者からすれば、気配を感じただけで威圧され、恐怖由来の悪寒を覚えるだろう。
だが、それだけだ。ただただ強いだけ。悪意の類が、滲んでいない。
スケルッツォが受けた印象をそのままに言語化するならば、これは――
――……力を持ち過ぎた子供……いや、赤子ッ!
ただの興味で小虫を弄び、すり潰す。純真な赤子のような精神性。
悪意無く極悪非道を選び、殺意無く殺してしまう。それを反省する意思も無い。悪気など無いのだから。
善が何を以てして善なのか、悪が何を以てして悪なのか、概念を正しく理解していない。
善悪以前の所に在る――無垢!
そして、無垢でありながら何の因果かッ……ひとつの境地に最悪の形で至ってしまった者ッ!
「ヴァハハハハハ……さて、そろそろ、笑い合うのもここまでで良いだろう。遊べ」
「ツォツォツォ! ええ、そうですねぇ! ではッ!」
スケルッツォが満面の笑みで取り出したのは――ドピンクの薔薇ッ! 指の間に挟む形で、両手合わせて総計八本ッ!
「シエル嬢に『私の獲物に手ェ出してんじゃあないわよ!』とか噛み付かれない程度に――ええ、まさしく、遊んで差し上げましょう!」
スケルッツォ、投擲ッ! 八本のドピンク薔薇の尖った茎先がナラク・シュラクに向くように、放ったッ!
そして放つ際に振るった腕を――パァンッ! と勢い良く叩き合わせた!
事象を固定する、スケルッツォの得意技ッ!
「ぬごッ! またこれかァ!」
固定したのはナラク・シュラクの体――だけではないッ!
加えてスケルッツォが固定した対象は、八本のドピンク薔薇!
これにより、固定されたドピンク薔薇は不変の薔薇と化したッ!
「ふゥんッ!」
ナラク・シュラクが力み、先ほどの再現、事象の固定を力ずくで破壊!
だが充分ッ、もうドピンク薔薇の投擲攻撃を回避する事は不可能!
だったら何だ、この程度、受ければ良いだけだ! ナラク・シュラクは胸を広げてカモンの構えッ!
――その大きく広がった漆黒の胸筋を、八本の薔薇が容赦無くブチ貫いたッ!
「がふァ!?」
これは予想外ッ、とナラク・シュラクは吐血しながら目を剥いたッ!
ナラク・シュラクが「この程度」と見なした評価、その目測は、決して間違っていなかった。
スケルッツォの薔薇投擲に、本来、そこまでの威力は無い。ナラク・シュラクの体を貫通するどころか、薄皮を穿つ事さえ不可能なはずだった。
重要なのは投擲の勢いではなく、薔薇本体の方ッ!
スケルッツォの霊術により「投擲され真っ直ぐに飛んで行く薔薇」として固定された薔薇ッ!
障害物の有無など関係無い、「投擲され真っ直ぐに飛んで行く薔薇」は、どこまでもただすらに真っ直ぐに飛んで行くだけ!
「!」
不意に、スケルッツォは笑顔が崩れない程度に眉を潜めた。
ナラク・シュラクの極厚の肉体を貫いた薔薇達がサクサクサクサクッと地面に突き刺さったのを見たからだ。
まだ薔薇にかけた固定は解除していない……どこまでも飛んで行くはずの薔薇が、地面に突き刺さって止まってしまった。
考えられる原因は……。
「……厄介ですねぇ。アナタの存在。いやはや、手を焼くとか言う次元じゃあなさそうです」
「ヴァルファ、ゲフッ……ヴァハハハハ! 貴様もやるではないかッ! 仕掛けはよくわからんが……良い! 好いぞ! ヴァハハハハハ!」
血反吐を吐いていたのも数瞬。ナラク・シュラクはすぐに胸の八つ穴を修復し、完全再起!
――これは、想定を遥かに越える災厄に成り得るかも知れない。
スケルッツォは懐から【とっておき】の薔薇を一本、取り出した。
「術式起動、【永劫笑却輪廻巡】」
余談は一切抜き、本気の兆候。目の前の危険を全力で排除すべきだろうと判断した証左である。
「……やれやれ、殺伐なサムシングは当方の役柄ではありませんが……」
「ならでしゃばらないで、スッ込んでなさい」
「ッ!」
ずるり、とスケルッツォの頬を冷たい汗が滑り落ちた。
――自然音に溶けてしまいそうなほどに静かな足取りでありながら、その一歩一歩は確かに響いた。
……霊力が、ダダ漏れだ。殺気がエネルギー化して溢れ出している、そう言われればまさしくと納得できる。
太陽花の精霊、シエルフィオーレ。
感情は豊か過ぎるきらいすらあった彼女の表情に浮かぶのは、ただひたすらに無。
精霊の表情筋ですら、彼女の感情にはもう、追いつけない。
「ヴァハハハ! 黄色い奴! 貴様か、ワシを蹴り飛――」
言い終わるのを待ってやる義理がどこにある?
そう言わんばかりの飛び膝蹴りが、ナラク・シュラクの鼻っ柱を強襲ッ!
声を上げる事もできず、ナラク・シュラクの巨体は錐もみ回転しながら弾丸ライナーッ! 澄き通った湖の底へと突き刺さったッ!
ドッパァァァンッ! と言う爆発音と共に、雲にまで届きそうな水柱が立ち上がるッ!
「スケルッツォ」
「ひぃえ!? いやいやいやいや! シエル嬢!? 勘違いはよろしくないですねぇ! 当方、別にアナタの獲物を横取りめいて仕留めようとかそんな事は一切しておりません! この薔薇はあれですよう、あれ、あれ、そのあれ……あるぇぇぇ? 何で当方こんな物騒な最終兵器取り出してるのカナー? と当方も大変困惑の極致にあり――」
「あいつが湖から出てきたら、空間を固定しなさい」
「!」
「できるでしょう。やりなさい」
空間の固定。スケルッツォならば確かに可能。
この要請が意図する所は――
「……えぇ。はい。速やかに」
決して簡単な術式ではないのだが、スケルッツォはあっさりと承諾。
――シエルフィオーレは、全力で殺る気だ。
彼女の使う霊術は、基本的に特定概念への攻撃。周囲へ被害を出すようなものではないのだが……物理的な余波と言うものがある。
例えば、細かな肉片だろうと、光速で飛翔すれば馬鹿げた衝撃波を発生させる。
シエルフィオーレが光速を越えて飛び回り、ナラク・シュラクの巨体が光速を越えて吹っ飛ばされ続けたら、大陸どころか星の形が変わってしまう。
だから、空間を固定しろと指示をしたのだ。
「ヴァハハハハハハハッ! 最高か、貴様ッ!」
「黙れ。殺す」
「ヴァハハ、辛辣! 刺すような気配が心地好いッ!」
ナラク・シュラクが湖から上がったのと同時、スケルッツォは指示通りに空間を固定。
それを感じ取って、シエルフィオーレも霊術を起動した。
「覚悟しなさい。殺すから」
太陽花の髪飾りから吹き出した紅炎が、シエルフィオーレの周囲で蜷局を巻いた!
まるで太陽の化身が如き大蛇が、女帝に擦り寄っているように見えるッ!
「【日輪はお前の生を認めない】」
一〇〇〇年の時を経て、「ただの擬似太陽弾を放つ術」から「擬似太陽を変幻自在に駆使する術」へと進化を遂げた、シエルフィオーレの必殺霊術。
殺意の塊のような術式名。シエルフィオーレがこの名を考えた時は「ただただ攻撃的でカッコイイ名前を付けたかっただけ」と言う安直な理由だった。
だが、今は心底、この名前にして良かったと思う。
頭がおかしくなりそうなこの殺意の奔流を、僅かでも口から吐き出せるのは、助かる。
今この場において、自分は可能な限り冷静でなければならない。
何故か?
決まっている。
感情任せになどしない。
念入りに、一切の容赦無く、愛しいあの子へのプレゼントを包装するように丁寧な仕事で――
「――確実に殺す」