16,支配者の愉悦
生まれた時から、世界が違った。
皆の何もかもが、自分と違った。
唯一、受け入れてくれた祖父は教えてくれた。
「容姿が異形かどうかなど、些細な事。生来腕だ足だ目だ耳だが欠損していたり奇形である者なんぞざらにいる。貴様はただ、【支配者の器】を持って生まれてしまった一事のみが問題だ。故に、誰ぞの支配下に入る事ができないのだから。そこにいる者達と共に生きていく事ができない。……それが幸か不幸かは、ワシが決める事で無し。貴様の生き方次第だな」
この世界は、どこもかしこも誰かの支配下にある。
しかし、自分は誰かの支配下に収まる事はできないのだと言う。
だから、何もかもが違う。生まれるべき場所が間違っていた。
「まぁ、何にしても貴様がワシの愛娘から生まれた孫である事は変わるまいよ。……ワシの手に負えるとは思わんが、見れるだけの面倒は見てやる」
……祖父との死別は、早かった。
自分を「危険だ」と見なし排除しようとした連中と戦って、勝ちはしたものの、酷い傷を負った。
幼い自分にもわかった。「ああ、もうこの人は死んでしまうのだ」と。
「……世の中、ままならんな。ああ、何事もままならん。たかが孫一人、満足に育てきる事もできなんだ」
血溜まりの中に沈みながら、祖父は頭を撫でてくれた。
触角を邪魔がる事もなく、それすらも丸ごと愛すと言わんばかりの豪快な手付きで、ぐしゃぐしゃと撫でてくれた。
……いつもより、ずっと力無く、弱々しい手だったが。
「ナラク……何も絶望するな。何も嘆くな。誰も恨むな。誰も憎むな。純真無垢な幼子のように……ッ、ぁ、はぁ……何も、かもを……楽しみ、笑え……この世界は……暗く、汚い……酷い事も多くあるのだ……いちいち……気を折っていては……が、ふぅ……ッ、正気で、いられんぞ……」
出血が酷い、もう、おそらく意識を保つのがやっとだろう。
息も絶え絶え、時折苦しそうに喘ぎながらも、祖父は――抱き寄せてくれた。
血が、妙に温かい。でも、それ以上に熱を持った何かを感じた。
「……何もできないクソジジィであったろうが……最後に……ひとつだけ、願わせてくれ……――どう生きても、良い……例え……世界のすべてを……敵に、回すような……悪徳を積み重ね……非道を突き進んだとしても……ワシは……ワシだけは……貴様を、咎めたりはしない……だから……どうか……」
――「愛する孫よ。笑って死ねるように、生きてくれ」。
◆
森の中、ルーク、コウ、リリンの三名はひたすらに走っていた。
他の未熟なヴィジタロイド達も同様、ジンジャージルの「できるだけバラけろ」と言う指示にしたがって、全員二・三名程度のグループになって逃走中だ。
「で、どうすんだよ!? こっから!」
ルークの頭に乗っかったコウが叫ぶように問う。
「決まってんでしょ!? 周辺をパトロールしてる先輩達か、近場で精霊さんを探すのよ!」
ルーク達は周辺を警備していた先輩達が既にナラク・シュラクによって倒されてしまっている事を知らないので、彼らを勘定に入れてしまうのも仕方無い。
「もし先輩達が見つからなかったら……一番近いのは、【陽だまりの園】? だけど、今日、シエルはお仕事でいないから……」
「アタシんとこの【金色の雪原】ね! もしくはそこのハムスターの所でも良いと思う!」
コウが暮らすCIG敷地内は、精霊領域には遠くおよばないものの、それなりに安全が確保された区域だ。腐ってもユグドの国における国家重要機関である。
更に先日のレッドパイン&メープルジャムの侵入により、警備態勢は激しく強化されている。パティパンズを筆頭に警備員達も新装備を導入したらしい。避難先として数えるには充分相応だろう。
「つぅか、あのおっさん大丈夫なのか? 精霊はみんな馬鹿強いつっても……」
相手の黒い奴はそれ以上に強そうだったし、何よりコウには、あの気怠げなおっさんがまともに戦う姿が想像できない!
「大丈夫だよ! ジンジャーおじさん、実はすっごく強いけどやる気が無いだけってシエルから聞いたし。僕達を逃がしたのは万が一にも戦闘に巻き込まないため、じゃないかな」
「それなら良いんだけどよ、なーんか、嫌な予感が……」
コウの予感は、直後に的中する。
「ヴァハハハハハハハハハハハハッ!」
森全体を揺らすような大きく重い爆撃のような笑い声が、ルーク達の眼前に――降ってきたッ!
そして、比喩でも何でもなく、森が揺れるッ! 漆黒の巨大な物体が、空高くから落下したためだッ!
まるで森が殴られたような地震が起きるッ!
「ぅ、おわぁ!?」
「な、なーッ!?」
「きゃああッ!?」
漆黒の何かが着弾した衝撃波は強大ッ! なにせ地震が発生するほどだ!
ルーク達はひとたまりもなく衝撃波に煽られ、吹っ飛ばされてしまった!
三者ともごろんごろんと森の中を転がっていき、
「「「ぃにゃんッ!?」」」
三者仲良く同じ巨木に同時に後頭部を打ち付けて止まったッ! 痛そう!
「ぃ、一体、何が……」
やや涙目になりつつ、ルークは木剣を杖代わりにして立ち上がる。
あたりには土色のもやが広がり、視界を遮っていた。
「ヴァハ、ヴァハハハハァッ!」
謎の大笑いで空気が揺れ、土色のカーテンが吹き飛ばされる!
ルーク達の前に姿を現したのは――
「ぅ、嘘……だろ……!? な、何であの黒いのが、こっち来てんだよぉーッ!?」
コウが悲鳴をあげるのも当然!
空から降ってきたのは――あの、漆黒の化物だッ! クレーターの中心で、片膝をついている!
「よし、よし。普段あまり使わんから心配であったが……ワシの知覚はなおも健在よな。ばっちり、狙い通りだ」
前の方に弧を描いていた二本の触角を後方へと振り戻し、漆黒の化物がゆっくりと立ち上がる……!
発言から察するに、その触角を使った索敵能力的なものを駆使して、ルーク達を補足、その眼前を狙って降ってきたようだ!
漆黒の化物はぎょろりと赤い目玉を動かして、眼球内で無数に蠢く紫色の瞳でルーク達を……いや、ルークを捉える!
「貴様だな、小僧。映像で見た面とうり二つ。……本日の本命、ワシの獲物ッ!」
「獲物って……あ、あいつ……僕を狙ってるの……!? またぁ!?」
ヌトラメロイの件からそんなに時間が経っていないのだ、ルークが辟易と嘆くのも無理は無い。
「さて、どうせ訊かれるだろうから先んじて名乗っておこうか! ワシはナラク・シュラク! ただの支配者だッ!」
「ナラク・シュラクって……ルーク、あんたを襲った変態おばさんのボスじゃん!?」
「おいおい、またあばどんげーとかよ……! しつけぇな!? ルークに一体何の恨みがあるって……あ、いや、そりゃああるか」
最初に攻めてきたアバドンゲートの構成員をぶっ飛ばしたのはルークとパティパンズだ。ルークには恨まれる理由がある。
しかし、
「恨み? そんなものは無い。そもそも、ワシが誰ぞを恨む事など有り得ない。ワシはただ、そこな小僧、貴様と遊びたいだけだ」
「え? そうなの?」
拍子抜けしたのと同時に、ルークはホッと胸を撫で下ろした。
てっきり、最初の二人やヌトラメロイのように、酷い事をしにきたものだとばかり。
だが、今、ナラク・シュラクは「遊びたいだけだ」と言った。なら安心だ。
「あ、でも、おじさん、悪い奴らのボスだし、遊んだらシエルに叱られるかも……」
「まぁそう言うな、小僧」
「うーん……って、あれ? おじさん? 何で拳を構えてるの?」
「? 遊ぶからに決まっているだろう」
それだけ言って、ナラク・シュラクは巨体に似合わない軽快なステップで駆け出した。
走りながら右拳を引いて、振りかぶる。
「え、ちょ、待っ」
「まずは小手先調べに軽くいくぞ……さァ! 存分に――」
ナラク・シュラクはルークが六体連結肩車してもおよばないほどの身長差がある。
つまり、ナラク・シュラクがルークを狙う拳の軌道は、自然、地面を削るような極端なアッパースイングになる。
そして今まさに、その極端なアッパースイングで漆黒の拳が放たれたッ!
「遊ぼうかァ!」
「えぇええええええ!? 僕が知ってる遊びと違うぅぅぅ!?」
悲鳴をあげながら、ルークは木剣を放り捨ててコウを引っ掴み、リリンを押し倒すように飛んで、ナラク・シュラクの拳撃を回避ッ!
メキャアッ! と音を立てて、漆黒の拳がルーク達のもたれかかっていた巨木に突き刺さった!
ナラク・シュラクは構わずアッパーカットを振り抜き、巨木を根っこから丸ごと引っこ抜いてしまった!
「な、ななななななななな何するの!? え!? 今の何遊び!? 何ごっこ!? すごくびっくりしたんだけど!?」
「ルーク! びっくりしたのはわかるけど、まずはどいてやれ! リリンが興奮し過ぎてまともに息できてない!」
「え……? わぁぁリリン!? 何かリンゴみたいになってる!?」
咄嗟の事だったとは言え、ルークに押し倒され、ルークは気にしていないが彼の唇がふわりむにっと頬に当たった感触をリリンがスルーできるはずもない。
過呼吸気味になりながらも、リリンはどこか満ち足りた顔である。
「ふむ、小僧。何か、貴様とワシとでは、噛み合っていないものを感じるな」
慌ててリリンの上からどいたルークに対して、ナラク・シュラクは少し怪訝そうな声。
「……だが、その辺りをどうこう言う前に……邪魔だ」
唐突に、ナラク・シュラクは右腕全体に力を込めてパンプアップ!
その拳を突き立てていた巨木を、力んだ際に生じた衝撃波で木っ端微塵に吹っ飛ばしてしまったッ!
「なッ……なんて酷い事を!?」
「? 何が酷いのだ? 邪魔なものを退かしただけだろう」
「吹っ飛ばさなくても、手を引き抜いて、戻してあげれば良かったじゃないか!」
風穴が空けられたって、痛覚の無い草木に大した影響は無い。根っこから引っこ抜かれたとしても、木は死んだりしない。
元通り、跡に戻せば勝手に根を地中に伸ばして、そこから吸い上げた栄養で穴も塞ぐ。元通りになる。
だのに、木っ端微塵にしてしまったら――木が死んでしまうじゃあないかッ!
「訳がわからんな。この木はワシの一撃を受け、そして抵抗する力も無い。ワシに圧倒され、蹂躙を受けたのだ。ならばワシの支配下だ。ワシは支配者だぞ。配下の者にかける温情は、手間にならない範疇まで。手を煩わせてまで奉仕する義理など、全く存在しない」
「し、支配……?」
「良いか、小僧。幼さ故にわからんようだから、教えてやろう。この世は、ままならぬ事ばかりだ。だからこそ、ままならぬ事を意のままにする悦楽はたまらないッ! ヴァハハハハハ!」
目を剥き、牙を剥き、ナラク・シュラクが笑う。
木っ端を踏みつけて文字通り蹂躙しながら、大袈裟なくらいに体を揺らして、笑うッ!
「力ある者の特権、支配者の悦楽だ! 努力し、圧倒し、蹂躙し、支配し、意のままにする! 配下の生殺与奪は支配者が決めるッ! それだけではない、森羅万象・万物万事のあらゆる決定権を勝ち取るッ! すれば、ままならぬ事など何も無い! 己の無力に泣く必要も無い! 未練を残して死ぬ事も無い! やりたい事をやれるだけやる! これ以上に愉しい事があるかァ!? これ以上の遊びがあるか!? いいや、無ァい! ヴァハハ、ヴァハハハ、ヴァァハハハハハハハァッ!」
「……ッ……!」
ルークには、ナラク・シュラクが何を言っているのかわからない。だが、直感的に理解した。
ナラク・シュラクと言う男は、致命的なほどに生きてきた世界が違う。
ルーク達の理は、欠片も通じない!
ルークがルークの常識をナラク・シュラクに問うのは――例えるなら、魚達が陸上動物達に対して「どうしてそんな風に生きられるんだ? 水の外なんて、苦しくないのか?」と正気を疑うようなもの。
生きる世界が違う、根幹を成す常識が違う、定め持った生理が違う、何もかもが違う……噛み合うはずが、無いッ!
「小僧、貴様も支配者ならば、ワシに学ぶが良い!」
「……え? 僕が、支配者……?」
「何をキョトンとしている? 聞いているぞ。貴様、『森を支配し、エネルギーを搾取する能力』を持っているのだろう?」
ダークゾニスから聞いた、とナラク・シュラクは語る。
「その幼さにして支配する能力、支配者の片鱗を持つ。ワシと同じく天性に支配者の器を持って生まれたに違いあるまい……そそる、そそられる! 同じく支配者たる者を圧倒し、蹂躙し、支配する愉悦ッ! たまらんぞ、これは!」
――ナラク・シュラクはこれまで、キョクヤの国の裏王以外にも、たくさんの【支配者】を圧倒し、蹂躙し、支配してきたッ!
支配される前提で生まれてきた連中よりも、そうでない者、支配者達の方が支配する難度は当然高いッ! やり甲斐があるッ! 達成感が心地好いッ!
つまり、これはナラク・シュラクに取っては「やり込んだゲームでハードモードを選ぶ」ような行動ッ!
普通にやっても愉しいゲームを、更に深く愉しむための趣向ッ!
……だが、ひとつ、ルークは言うべき事があった。
「あの……森を支配って、それ、何の話で――」
「ぶっはぁ!? 死ぬかと思った!?」
と、ここでリリンが正気に戻った。
「ぁ、リリン!? ごめん、もしかして変な所に頭ぶつけちゃった!?」
「べ、べべべべべべ別にキスなんてされてないわよ!?」
「はい!? なんて!?」
「って、おい! ルーク、リリン! 来てる来てる黒いの来てるぅッ!?」
コントをしている余裕は無い。「さァ、再開しよう。早く全力を見せてみろ」とナラク・シュラクが突進してきた!
「ああもう、余韻もクソも無いッ! とにかくアレでしょ!? 何にしても、あいつもルークをいじめる奴って事でしょ!?」
ボウッ! と炎が立つような音と共に、リリンの全身に緑色のオーラが顕現ッ!
芽能発動だ! 緑色のオーラはリリンの両手に収束し、翡翠に透き通った一対の弓矢へと変貌した!
リリンは上体だけを起こしたまま、矢を弓にセット、引き絞る!
「くらえ! 【宿輝着床】ッ!」
リリンが放った矢はキラキラと翡翠の尾を引いてナラク・シュラクの顔面へ!
元々がおそろしく疾く飛ぶ矢、加えてナラク・シュラクはすごい勢いでこちらに突進中だった! つまりナラク・シュラクが体感する矢の速度はめっちゃ迅速ッ!
だのに、ナラク・シュラクは当然のように――まるで捕球してもらうのを前提に放られるキャッチボールの球を受け取るが如くあっさりと、鏃を掴んで矢を止めたッ!
「……、ッ!」
ナラク・シュラクは違和感に気付き、即座に矢を投げ捨てようとしたが、遅いッ!
既にその掌には、翡翠に透ける根が這い始めていたッ!
――リリンの芽能【宿輝着床】は「森の侵食」を体現する能力!
その翡翠の矢は対象の表皮に着床すると即座に根を張り、「根からあらゆるエネルギーを吸い上げて成長する」と言う特性を持つ【輝きの木】を芽吹かせる!
皮膚がどれだけ堅く、鏃では穿てなかろうが、関係無い! 当たりさえすればそれでオッケィッ!
「ぬ、おお!? これはッ!」
輝きの木の成長はおそろしく速い! 特に、寄生する対象がエネルギッシュであればあるほど、速くなるッ!
一瞬にして、ナラク・シュラクの漆黒の巨体が輝きの木の侵食に飲み込まれ、塗り潰されたッ!
木の成長は止まらない、ヌトラメロイの時とは比べものにならないほどに大きく、大きく大きく大きく成長していくッ!
そして――亀裂が走ったッ!
「なッ……」
何事にも、容量限界と言うものがあるッ!
輝きの木も同様、無限にエネルギーを吸い続けられる訳では無いッ!
それでも、精霊獣の一匹や二匹、枯れ死させる程度はできるのだが……ナラク・シュラクが相手では「所詮その程度」と言わざるを得ないッ!
「ヴァハハハ……好い趣向であった! 吸引力が素晴らしかったッ。溜まっていたものを大いに発散させてもらった気がするわ! ヴァーッハハハハハ!」
輝きの木は翡翠の塵となり、辺りに降り注ぐ。
そのキラキラキラキラやかましいほどに綺麗で、幻想的な雨の中、ナラク・シュラクの漆黒は、未だ健在ッ!
いやむしろ、有り余っていた力がほど良く抜けて、コンディションが良くなっている節すらあるッ!
「何よそれ……!? このッ、もう一ぱ、ちゅぅ……?」
「わわっ、リリン!?」
ふにゃあ、とリリンが膝から崩れ落ちた!
実は【宿輝着床】、ビビるほど燃費が悪いッ!
万全の状態で放っても、一発でリリンの体力はすっからかんッ!
「ぉ、おいおい……リリンを抱えて、あの黒いのから逃げれんのか……!?」
「……………………」
たぶん、リリンが自分で走れるとしても無理だと思う。
ルークの沈黙はそう言うニュアンスであり、コウもそれは重々承知。それでもすがるように訊いてみただけ。
だってナラク・シュラクの突進、めちゃくちゃ速い。
歩幅の差と言うものもある。振り切るどころか、秒で追いつかれる。
「……ッ……やるしか、ない……!?」