15,怪人は何度倒れても起き上がる
草原広場。
ものぐさ精霊おじさんジンジャージル教官による、未熟なヴィジタロイド達を対象にした非常時対処講座。
「とにかくあれだ。やべー奴に遭遇したら、そいつのチ●コとか脛とか急所をブッ刺して、一目散に走れ」
敵対者に対して牽制攻撃を行った後、速やかに撤退行動を開始し、以降は撤退に専念せよ。
その一事を雑に解釈すると、今ジンジャージルが述べた感じになる。
「つー訳で、全員に木剣を配布すんぞ。安全面を考慮して刃は研いでないが、先端はそれなりに鋭い。チ●コ一点狙いなら充分実用的だ」
未熟なヴィジタロイド達に配布された木剣は、ジンジャージルの言葉通り、刃部分に触っても斬れる事は無い。
武器ではなくまさに護身具と言った仕上がりだ。
あと何気に、柄や刃面の装飾が細やかで、一本一本パターンが異なる。
ジンジャージルが木工に対してのみ発揮する凝り性の結果だろう。
正味、この講座で子供達に配布される護身具は……気休め程度と言うか……「無いよりはマシだろう」と言う事で配るものだ。基本、子供達には「避難」を重要視してもらう方針である。
なので悪く言えば、大して役に立つことは期待されていない「多少雑な仕上がりでも許容される代物」なのだが……ジンジャージルには関係無い。彼は作品がどうなるかに興味は無い。作品をどう作るかだけが重要なのだ。
ルークが拾った盾が無造作に打ち捨てられていた辺りからもお察しである。
「わぁ、すごくカッコイイよ、コウ! リリン!」
「うほぉぉぉーすげぇ! かっけぇぇぇ!」
「ふ、ふん。これだから男子は。はしゃぎ過ぎよ! ふふふ!」
ジンジャージルのスタンスと雑な講義の是非はともかく、配布された木剣は逸品と呼ぶに相応しい美細工。
ルーク達を筆頭に、子供達のテンションが跳ね上がる。
「いつか、大きくなったら……片手にこの剣を持って、もう片手にはこの盾を構えて……あー! すごくカッコイイ! 早く大きくなりたいなー!」
木剣の鋒を太陽に掲げて、ルークはイメージする。
この木剣を軽やかに振るいこなして敵を薙ぎ払い、敵の一撃は盾を使って堂々と受け切る!
立派な騎士の勇姿を!
「……あ、でも、大きくなったら剣の方は小さいかも……」
ルークが持つ木盾の方は元々、成熟した個体が片手で扱う事を想定したサイズだが……この木剣は子供達が扱うのを前提としたサイズで調整されている。現に、今の体躯でも片手で持って扱える。大きくなったルークが持ったら、少し大振りな剪刀くらいか。……余り騎士らしい風情は無いかも知れない。
「もう、あんた馬鹿ね。これはあくまで仮の武器よ。大きくなったら、きちんと体に合った武器がもらえるに決まってるじゃない。それくらいの事もわからないの? 本当にアタシがいなきゃあダメな弟分ね!」
などと、リリンは言葉ではルークを小馬鹿にしつつ、本心は「大丈夫、心配しないでも、大きくなったらもっとカッコイイのがもらえるわ。だからシュンとしないで」と言った所。
「うん、そうだよね……安心した! リリン、教えてくれてありがとう!」
「ふ、ふん! まぁ、アタシ、お姉ちゃんだから、当然って言うか!?」
相変わらず、ルークが純朴な笑顔を向けると、リリンは口をモニョモニョさせながら赤面してそっぽを向く。
最早そう言うシステムとなりつつある光景だな、とコウは生温かい目で見守りつつ呆れた……その時だった。
「ぅおう……!? 何だ、今の……?」
ズクッ……と、コウの背筋を唐突に舐めずった悪寒。
コウはルークの頭の上でその小さな体をブルルッと震わせる。
「何だろう……すごく、気持ち悪い……?」
ルークも同じものを直感したらしい。リリンの怪訝そうな顔を見るに、彼女も同様だろう。
周囲のヴィジタロイド達もにわかにザワつき始める。
「……何の冗談だ、おい」
ジンジャージルは表層では相変わらずのものぐさ風、しかし、頬を伝う汗は隠しきれない。
「ヴァハハハハ。おォう。可愛い気配が妙に集まっていると思えば、緑頭の小僧がわんさかいるではないかァ」
森の中から、ゆっくりと。一歩ごとに一々ズシンズシンと大地を踏み鳴らしながら、異形とも言える容姿の漆黒の巨漢が姿を現した。
後方へと弧を描く細長い触角を揺らし、二つの赤い眼球に浮かぶ無数の紫瞳で、子供達を補足。そしてその中に、記録映像で見覚えのある顔を見つけ出し、白い牙を剥き出しにして笑った。
「見ィつけた」
「何をかは知らねぇが、ひとまず訊くぞ」
漆黒の巨漢の頭上に、影が落ち、やや気怠げな低い中年ボイスが降ってきた。
「!」
ジンジャージルだ!
ジンジャージルが、いつの間にか、一瞬にして漆黒の巨漢の頭上を取ったッ!
「テメェさん、何者だ?」
――まぁ、答えを聞くのは、ふん縛った後だけどな。
そう言わんばかりの速攻姿勢! ジンジャージルは霊術を起動し、自身の周囲に空間の歪みを発生させる!
その歪みからニュッと飛び出したのは、木製の棒――木工武具の柄だ。それを両手にそれぞれ掴んで引き抜き、豪奢な装飾を施された木剣で二刀流ッ!
ジンジャージルは、面倒くさがりで、怠惰で、木工作業以外の行為に対しては消極的。
だがしかし、己が精霊として負っている役目を失念してはいない。
――緑の大陸の守護者、その一柱。
生薑香花の精霊・ジンジャージルは双木剣を振りかざし、漆黒の巨漢へと斬りかかった!
「ッ!」
だがしかし、ジンジャージルの斬撃は黒衣は裂いたものの漆黒の表皮を穿つには到らず。逆に、刃の方が綺麗にべっきりとへし折れてしまった!
漆黒の表皮、おそろしく堅牢! ジンジャージルは動揺は出さずに「斬るのは無理か」と冷静に判断。次は打撃だな、と結論を出す。
「ヴァハハ。おうおう。精霊か? ワシは何者かと問うたな。ワシはナラク・シュラク。ただの支配者だ」
「……どっかで聞いた名だな。はて……」
精霊会議には出席こそしているが、話は大体聞き流し。「あー、いいよいいよ。どうせ命令されたらやんなきゃあだ。詳細なんぞ知らん。やるべき事だけ後で教えれ」がジンジャージルのスタンスである。なので、現状精霊院が注視しているアバドンゲートに関する超重要存在であるナラク・シュラクの名にも、いまいちピンと来ていない。
「まぁ、良い。よく覚えていないっつぅ事は、俺に取ってプラスになる奴の名前じゃあねぇって事だけは、確かだ」
そして見るからに部外者であり異形で、まともじゃあない。
ならば、「ひとまず制圧」で問題無いだろう。
以上が、ジンジャージルの結論である。
「ヴァハッ! 雑だな! だがシンプルでわかりやすい男とみた。嫌いではない」
「そりゃあどうも」
その手に今度は木斧と木槌を補充しつつ、ジンジャージルは通信霊術を起動。
周囲を警戒しているはずの四名の騎士達に招集をかけようとしたが……通信霊術が、使えない。
いや、一応使えはするのだが……まるで砂嵐のど真ん中に晒されているかの如く、ザーッと言うノイズしか聞こえない。
「……霊術の調子が悪ぃな……」
今さっき、木工武器を取り出すために二度の空間湾曲霊術を起動した時にも、妙な感触はあった。
何か、立て付けの悪い戸を開けるような感触と言うか、ともかく、スムーズではない感触。
てっきり、この霊術を行使するのが余りにも久しぶりで腕が鈍っているだけだろうと気にしなかったが……。
「マジで面倒臭ぇな、おい」
霊術の不調は、ナラク・シュラクによる妨害と考えるのが筋だろう。
空間湾曲のように強烈に霊力を使用する霊術はまだどうにか使えるが、通信霊術のような微弱な霊力で組み立てる術式は押さえ込まれ、ろくに機能しないようだ。
要するに、この妨害は霊力のゴリ押しで対処できる。微弱な霊力での運用を前提とした術式に膨大な霊力を流し込むとそもそも術が成り立たず崩壊するので、やはり細かな補助術式は使用できないが……攻撃手段に関しては、いくらでもやりようはあると言う事だ。
それにもし仮に、やりようが無かったとしても、ジンジャージルに撤退の選択肢は無い。
何故なら、
「はぁぁ……おぉいガキどもォ!」
視線はナラク・シュラクに固定したまま、ジンジャージルは背後の子供達へ向けて、早口で叫ぶ!
「解ッ散ッ! 今さっき教えた通りだッ! 牽制は俺が引き受けるから、テメェらは一目散に走れ! あ、あと逃げる時はできればバラけろ! 以上! さぁ、よぉいドンだッ!」
突然の出来事だ、未熟なヴィジタロイド達には状況が欠片も理解できない。しかし、彼らの深層意識には「精霊さんの言う事は素直に聞いた方が良い」と言う感覚が刻み込まれている。それに、ナラク・シュラクの様相や気配の禍々しさへの本能的な忌避反応も手伝う。
子供達は皆、ジンジャージルの言葉に従い、一目散にナラク・シュラクとは反対側の森へと向かって走り出した!
「な、何か知らねぇが、オイラ達も逃げようぜ! ルーク、リリン!」
「う、うん!」
「こっちよ、ルーク!」
ルーク達も同様、皆に混ざって走り出す。
「おっと……これは困ったな。獲物が逃げてしまう……が」
ナラク・シュラクは走り去っていく子供達を見てつぶやきながら、視線を眼前に落とした。すると「面倒だ、ああ面倒だ、面倒だ」と言いた気な不愉快顔で木武器を構えるジンジャージルと目が合う。
「せっかくのこの機会、精霊と遊んでみるのも一興ではある、か。先ほどの若僧四名を束にするよりも、楽しめそうだ」
「! 若僧四名っつぅと……まさか……」
周囲の警戒にあたっていた騎士達は、既にナラク・シュラクに敗れた、と言う事か。
報告が一切無かったのは――通信霊術が使えないのだから、当然か。
「ますます、厄介だってか……」
確かに、成熟したヴィジタロイドとは言え、たかだか四名程度では集まった所で精霊一柱にも遠くおよばない。
しかし、それでもかなりの戦力である事は間違い無いのだ。
だのに、それを突破してきたナラク・シュラクには目に見える傷も疲労も無い。
「とことんまで、ハズレくじを引いたらしい」
呪うからな、スケルッツォの野郎ッ!
心の中でそう吐き捨てて、ジンジャージルの方から仕掛ける!
両手に持った木斧と木槌を思い切り振りかぶり、横薙ぎの強襲……と見せかけて!
――霊術起動、【所構うな自由に香れ】!
ジンジャージルが声に出さずに唱えたそれは、空間を湾曲させる霊術の名。
空間を歪めて特定のポイント同士を物理的距離を無視して接続させる術式であり、基本的に「ジンジャージルの工房内に保管(捨て放り状態とも言う)されている武器や、自宅周辺の青空倉庫に安置(要するに野外放置)されている武器を補足、彼の手元へと転送する」と言う戦術に用いる。
どこで戦闘していようと関係無し、ジンジャージルが刻印を施したポイントならどこからでも、そこにあるだけの武器をその手に補充できる訳だ。
通常の携帯許容量を遥かに越えた武器やアイテムを、臨機応変に取り出して駆使できる……それだけでも充分に反則的霊術!
だが先に言った。「基本的に」そう言った戦術に用いるのだと!
そう、この使い方はあくまで基本……当然、応用がある!
空間の歪ませ具合を微細に調整する事で――
「ぬッ!?」
奇襲ッ! 斧と槌を薙ぎ振るうジンジャージルの体の陰、ナラク・シュラクに取っては死角となる空間から出現した空間の歪みから射出された木槍が、ナラク・シュラクに襲いかかった!
――空間の歪みを微細に調節し――まるで水遊びの定番、両手で握り込んだ水をピュッと押し出す水手砲が如く、転送物を超高速で打ち出す!
これが、【所構うな自由に香れ】の応用技だ!
「づァッはァ!?」
霊術の不調により、やや調節が狂った手応えはあったものの――直撃ッ!
ナラク・シュラクの股間に、そう、股間に! 股間にッ! 打ち出された木槍が無事、命中ッ! 目を覆いたくなる一撃ッ!
ナラク・シュラクの股座を貫くには到らなかったが、木槍自体が木っ端微塵に砕け散るほどの超速衝突――ナラク・シュラクは短い悲鳴をあげて、巨体を大きく振って前屈みになった! 痛そう過ぎるッ……!
「っしゃあ!」
最初の双木剣がへし折れた時点で、ナラク・シュラクの漆黒の皮膚が実に穿ち難いものである事は、当然ジンジャージルも承知している。
股間へ向けての木槍射出は、牽制・あわよくば多少怯ませる事が目的であり、充分以上の成果が出た!
つまりは望外の好機ッ! 畳み掛けるしかない!
「どれだけ丈夫だろうが――滅多打ちにして、なし崩しにしちまえば良いってもんだろ!」
面倒だがな! と補足して、ジンジャージルは木斧と木槌を振るった――否、振るいまくった!
連撃と言うよりも最早、乱撃ッ! 普段のものぐさなおじさんぶりはすっかりとナリを潜め、キレッキレの乱舞を披露するッ!
ジンジャージル、存外に武闘派であるッ!
木工へのモチベーションをほんの少しでも他に回せたのなら、と惜しまれる精霊ランキング第一位は伊達ではないッ!
ジンジャージルの一打ごとに、ナラク・シュラクは短い悲鳴をあげ、その巨体をべこんべこんと変形させる!
「おっと……!」
が、好調だったのも途中まで、木斧の柄と刃を繋ぐ留め具が砕けたッ!
斧も槌も「堅いものを砕く装備=堅いものに叩き付けるのが前提の強度」で製作するため、かなり丈夫なはずだが……規格外か、ナラク・シュラクの皮膚堅度!
――まぁ、大した問題ではないが。
ジンジャージルは木槌でナラク・シュラクを叩きながら、砕けて柄だけになった木斧を振りかぶり――放した。捨てた。
次の瞬間、空間が歪み、新たな木斧がジンジャージルの手に補充される! そして補充された木斧の柄を即座に握り込み、ブン回す!
ジンジャージルの乱舞は――止まらないッ!
霊術の不調により、補充速度は平時よりコンマゼロゼロ数秒遅れてほんの僅かな隙になっているのだが……ジンジャージルの一打一打が一々重く響いて圧倒しているのだろうか(それとも最初の股間への一撃がまだ尾を引いているのか)、ナラク・シュラクは反撃に出ない!
ずっとジンジャージルのターンだ! つまりは入れ食いッ!
打つ、打つ、打つ打つ打つ砕けたら補充してまた打つ打つ打つ打つ砕けたら以下略ッ!
「ぉおおおお、らぁッ!」
シメの雄叫びと共に、ジンジャージルは木槌をアッパースイング! ナラク・シュラクの顎を痛打ッ!
殴られた場所が場所、ナラク・シュラクは悲鳴どころか呻きもなく吹っ飛んだッ!
漆黒の巨体はごろんごろんと何度も地面を転がっていき、やがて大の字になって静止。
「ったく……こう言う荒事も、ガキの面倒並に俺の柄じゃあねぇんだ。これっきりにして欲しいもんだぜ」
ノック・アウトを確信し、ジンジャージルは木斧と木槌を肩に担いで一息。
ナラク・シュラクはぴくぴくと指を痙攣させたまま、天を仰いで転がっている。
……流石のナラク・シュラクと言えど、精霊の相手は荷が重かったかッ。
――否。
「ヴァハッ」
ニィ……と口角を裂いて、ナラク・シュラクは笑い、そして飛び起きた。
「んなッ」
「上々だ、精霊。かつて浴びた事の無いほどに心地好い痛快な一撃、そこからの乱打……余りに激しくド突くものだから、思わず生娘のような喘ぎ声が出てしまったぞ! ヴァハハハハ!」
ナラク・シュラクが軽く力を込めるように息を吐くと、漆黒の巨体のいたるところに付けられた凹みがバツン! と音を立てて復元、パンプアップッ!
「……ッの野郎」
余りにも余裕が過ぎる。そんなナラク・シュラクの態度に、ジンジャージルは察する。
――こいつ、さっきのは反撃に出られないんじゃあなくて、反撃に出ずわざと喰らってやがったのか……!
肉体の強度を競うパフォーミング・スポーツの場じゃああるまいし、そんな行動、メリットが無い。狂気でしかない。
だが、邪悪に笑う漆黒の異形を見ていると、狂気の沙汰とも言える行動にも「ああ、こんな面で笑う野郎ならそうするだろうな」と納得できてしまう気もする!
「さっきも言ったけどよ……何の冗談だ、おい」
冗談じゃあない、とジンジャージルは僅かに表情を歪めた。
「ヴァハハハハ! そう毛嫌うような面をするな。ワシは貴様の事が気に入ったぞ、精霊よ。心も血も肉も踊り狂う! こんな心地は久方ぶりだ。楽しいぞ。ああ、楽しいともさ。もっと、もっともっと遊ぼうではないかッ」
ゴキッ、ゴキッ、と首を捻って鈍い音を鳴らしながら、ナラク・シュラクが漆黒の拳を構える。
まるで前のめりになって児戯にいそしむ幼児のように、ナラク・シュラクは満面で笑った。
「と言う訳で――今度はワシの手番だな」
瞬足! 移動音を置き去って、漆黒の巨体がジンジャージルの背後へと回り込むッ!
「ヴァハハハハハ……ハ?」
ジンジャージルがこちらを振り向いた瞬間に、その腹をブン殴る算段だったのだろう。
ナラク・シュラクは右の拳を振り上げて、ワンテンポ待機した――が、それが当然の失策!
ジンジャージルは、意外にも武闘派な精霊である。
音より多少速い程度の動き、難無く追える! 微細な挙動から、中々に精度の高い先読みだってできる!
だから、背後に回り込んだ時点で、それを読まれていたナラク・シュラクは策にハマった。
「……これは……」
振り上げた己の右拳を見て、ナラク・シュラクは最初、測りかねた。
右腕が、動かせない。手首の辺りをとても堅牢な枷を嵌められて固定されてしまったような感触。
事象の固定とか、そう言う特殊なのとは違う。「動かす」と言う概念を封じられているのではなく、動かす事はできるのだが、その動かすエネルギーより圧倒的に上の拘束圧力によって止められている!
だが、何も無い、ナラク・シュラクの腕を拘束するものなんて――いや、あったッ!
よく見ると、ある! 微細な、とてもとても極小の、空間の歪みが、ナラク・シュラクの腕、手首部分を取り巻くように発生しているッ!
空間の歪みが――物理エネルギーの埒外にある、まさに次元を違えた強さを持つ拘束具が、ナラク・シュラクの手首を捕らえているのだッ!
「……趣味が悪ぃし、今日は誰かさんのおかげで霊術の加減の効きも悪ぃから、できればやりたかなかったがな……」
やれやれと溜息を吐き、ジンジャージルは肩越しにナラク・シュラクを見る。
その目は、睨むと言うよりも「お疲れさん。あと、ご愁傷さん」と憐れむような目。
――次の瞬間。
ジンジャージルが念じるのに呼応して空間の歪みが絞られ、ナラク・シュラクの手首を瞬間的に圧砕し、捩じ切ったッ!
「ぬゥ、がァ……!?」
ナラク・シュラクの右手首から上が、赤黒い血液を纏ってボトリと草原に落ちる!
グロテスクッ! 落とされた右拳を追うように、ドバドバと血が滝の如くッ!
流石のナラク・シュラクもこれには本気の悶絶ッ!
右手首の切断面を左手で庇いながら、膝をつく!
「おとなしくしろ、ナラ……ナラ……えーと……ナラ某。加減は効かねぇと言ったぜ。これ以上の事を俺にやらせるってんなら、生かして制圧できる保証は無ぇ」
木斧の先端についた装飾の突起、その先端を膝をついたナラク・シュラクの鼻っ柱に突き付けて、ジンジャージルは降伏勧告。
一応、「排除対象なんだろうなー」と薄々は確信しつつも、ジンジャージルはナラク・シュラクがどこの何者なのか、存じ上げない!
もしも殺しちゃあダメよ的な話が精霊会議で出てたら、不味い。
ダーウィリアムに叱られる。あの赤いおじさんは説教が地味に長い。面倒臭い。
「ぐ、ゥ、は、ははは、ヴァハハハハハハハハ!」
「何笑ってんだテメェ」
と、ここでふと、ジンジャージルはある事に気付いた。
――無い。草原にボトリと落ちたナラク・シュラクの右拳が、無い。
ナラク・シュラクがいつの間にか拾っており、切断面同士をくっつけて左手で固定していた。
まぁ、治療法としてはありだ。霊獣程度に回復力の高い生物ならば、数時間ほどで接着できるだろう。
そんな時間を与えると思ってんのか、馬鹿にすんな。
ジンジャージルは怒るよりも呆れる色合いを表情に浮かべた。
仕方無い。ナラク・シュラクの左手も、右手同様に捩じ切ってろう。それでもダメなら次は足だ。
と言う訳で霊術を起動しようとした……が、一瞬、ある疑問が脳裏を過ぎった。
――……こいつ、いつの間に手を拾いやがった?
そんな動作、見ていない。……まさか、見えていなかった?
ジンジャージルですら捉えられないほどの速度で、ナラク・シュラクが動いたとでも言うのか?
馬鹿な。武闘派の精霊の動体視力は光速の粒子の動きすら見極める。それを欺く?
もしそんな事ができるとすれば、その存在の身体能力は、精霊のそれを遥かに凌駕している事になる。
と言う事は、そう言う事、だと?
……気付いた時には、もう遅い。
ナラク・シュラクの右拳が、ジンジャージルの木斧を木っ端微塵に吹き飛ばした。
「なッ……!?」
右拳、そう、右の拳。その手首にはもう、僅かな切れ目すら残っていない。完全に、元通りになっているッ!
「ッ」
混乱している場合じゃあない。
ジンジャージルは即座に気を取り直して、ナラク・シュラクの首に狙いを定めた。
こいつは、危険だ。殺す。
ナラク・シュラクの首の周囲に空間の歪みを発生させ、それを絞るッ!
先ほどの右手首のように、その首を捩じ切って断頭、確実に仕留めようとした!
どれだけ回復力に優れていようが、脳と体内主要器官を切り離されて生存できる生物などいるはずがない!
だが、ジンジャージルの目論見は、砕かれた。
ナラク・シュラクが自身の首周りに出現した空間の歪みを、その手で握り潰して、まさしく砕いたッ!
意味不明過ぎて、ジンジャージルはもはや息漏れで「!?」と言う感嘆符を表現する事もできない。
ジンジャージルが霊術で生み出す空間の歪みは、物理法則の埒外だと言った。
それを、何、普通に握り潰しているんだ、この漆黒の化物は。
理不尽だ。道理が通っていない現象を、当然のように体現した。
「ヴァハハハ。流石に首は駄目だな。死んでしまうではないか。イケないなァ。遊びは限度を弁えねばだろう?」
――遊び。
ああ、そうなのだ。
ナラク・シュラクは、一言たりとも、「戦う」などとは言っていない。
徹頭徹尾、遊んでいるのだ、この男は。精霊すら相手にして。
まるで児戯に夢中な子供のように笑っている……否、「まるで」ではない。まさしくこの男は、児戯に夢中な子供ッ。溌刺に、快活に、遊んでいるだけ。
「さァ、精霊よ。次は何を見せてくれる? まだ、まだ、まだまだ、何か手を取ってあるのだろう? 霊術には疎いが、実に芸に富んだものだと聞いているぞ」
――遊びを、続けよう。玩具が、壊れるまで。