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出会い ─名を与えられた少女─

 悪夢だ。

 少女にはそうとしか思えなかった。


「この村で最も鮮やかな赤髪を持つ娘が、村に災いを呼ぶ」


 村の占者がもたらした予言。

 その日、十歳になったばかりの少女の日常は占者のたった一言で壊され、それまで享受していた平穏な日々も何もかもを失った。

 季節の変わり目、暑さが残る日のことだった。






 占者の予言にあらゆる判断を委ねている、信心深い村。

 不幸にも少女はそんな村で生まれ育ち、この最悪の日を迎えてしまった。


 予言が村中に伝わるなり、村で一番鮮やかな赤髪を持っていた少女はつい先ほどまで笑い合っていた友人や我が子同然に優しく見守ってくれていた村人たちから、まるで世界がひっくり返ったように冷たい目を向けられ、忌まれ、嫌厭され……家族からも見放されてしまった。


「占者さまが言うのなら間違いないだろう。心苦しいが、この子は手放そう」


 この父親の言葉に、母親も「そうね」と迷わず頷いた。


 その会話を耳にした瞬間、少女は頭の中が真っ白になった。

 伸ばされた父の大きな手が凶悪な悪魔の手に見え、少女が大切にしていた世界を掴み、握りつぶしてしまうのではないかという恐怖が彼女の体を震わせた。


 足をもつれさせながら逃げる少女を父親が捕まえ、子供では抗えない力で腕を掴み、引きずるようにして簡素な荷馬車に押し込める。


「助けて!」


 少女は必死に助けを求めた。

 しかし誰もが嫌悪の目を向けるばかりで、救いの手を差しのべる気配はない。母親すらも、感情の読み取れない暗い瞳で少女を見つめていた。


 恐い。


 見たこともない母の表情。

 その母の背後に居並ぶ村の人々も、見知らぬ人のように思えた。


 得体の知れない恐怖に身が竦む。しかし、すぐに少女は悟った。

 災いを招く者だと予言された自分を助ける人間など、この村にはいないということを。


 少女の全身から力が抜け落ちた。

 それを皮切りに底知れぬ絶望が少女を浸食し、気力を根こそぎ奪っていく。


 そうして少女が言葉を失っている間に、馬車が走り出した。御者台の父親はちらとも少女を振り返ることなく、黙々と馬車を走らせる。

 馬車の荷台では、絶望の底に叩き落とされた少女がただただ震えながらうずくまっていた……。




 やがて馬車の揺れが止まった。

 相変わらず震えている少女を、父親が強引に荷台から引き摺り下ろす。そして言葉をかけることなく、逃げるように馬車を繰って去っていった。


 残された少女はそのままその場にうずくまる。

 命こそ奪われなかったが、十歳の少女にとって両親から見捨てられたことは世界の終わりに等しかった。

 何も考えられず、ただひたすら震えながら、小さく小さく体を丸めた。




 どれくらいそうしていただろうか。

 少女がのろのろと顔を上げた頃にはすでに、空が茜から群青へと移ろい始めていた。


 緩慢な動作で周囲をぐるりと見回せば、右も左も木、木、木。

 辛うじて馬車が通れる道はあるものの、背の高い草が生い茂っており、目を凝らしてようやく轍が判別できるという状態。まるで整備されていない道を見るに、とても人の行き来が多い場所とは思えなかった。


 少女は地面に座り込んだまま、薄暗くなった森をぼんやりと眺めた。

 遠くから獣の遠吠えが聞こえる。狼だろうか。

 このままここにいては危険だとわかっていても、少女はその場から動けずにいた。親に捨てられたという衝撃が大きすぎて、指先ひとつ動かす気力も湧いてこないのだ。


 もう何もかもがどうでもいい。

 少女は倒れ込むように地面に体を横たえた。大の字になって、木々の隙間から覗く空を虚ろな目で見上げる。

 近くの茂みが音を立てても微動だにせず、赤から紫紺、そして闇色へと変化していく空をぼんやりと眺めていた。


 やがてちらちらと瞬きだした星を、おもむろに数え始める。

 途中で同じ星を数えてしまったかもしれないと思っては最初から数え直し、また同じ星を数えてしまったと気付いては最初からやり直し。

 そんなことを幾度となく繰り返すうちに、少女の目からは涙が零れ落ちていた。


 なぜ涙が出るのか、少女が疑問に思うことはない。

 今は何も考えず、涙が流れるのならば流れるがままにしておきたかった。


 そんなときだった。

 がさ、がさ、と草を踏む音が少女の耳に飛び込んでくる。明らかに獣の足音とは異なる、重量のある規則正しい音。

 段々と近付いてくるその音に気付きながらも、少女は空を見上げたままぽろぽろと涙を零し続け──


 不意に、視界が翳る。


 空と自分のあいだに、真っ黒な影が割り込んだ。

 影の正体が人であることに気付いた瞬間、少女は鋭く息を呑む。


 一方で人影はゆっくりと手を伸ばすと、ぎこちない手つきで涙を流している少女の頭を撫でた。

 そしてその人影が何かを囁いた瞬間。

 少女の意識は、急激に暗転していった。





 次に少女が目を覚ましたのは星々が輝く空の下ではなく、木製の天井がある建物の中だった。

 あの悪夢が夢だったのか現実だったのか判然としないまま視線を動かし、自らの身が置かれている場所を確認する。


 最初に視界に飛び込んできたのは、右手側にある窓だった。窓の外はすでに明るく、視界を埋め尽くさんばかりの緑が一杯に広がっていた。

 生い茂る木々を見るにここは森の中なのだろうと、素朴な木枠の窓を眺めながら判断する。

 森の中であるとわかれば、ここが故郷の村ではないこともわかる。少女の村にはまばらな立ち木こそあったものの、木が密生する森は存在しなかったからだ。


 続いて左手側を見れば、見慣れない室内に木製の机と椅子、書棚、クローゼットが置かれているのが目に入った。

 部屋の広さに対してあまりにも物が少ない印象。全く見覚えのない景色。


 そうしてぼんやりと周囲を眺めていた少女の意識が、唐突に覚醒した。慌てて半身を起こす。

 ふかふかと柔らかい感触に視線を落としてみれば、自分が眠っていたのは見たこともないくらいしっかりとしたベッドの上等な布団の上だった。


「ここは……どこ?」


 思わず言葉を零し、少女はベッドから下りた。そのままふらふらと部屋の入り口らしき扉へと向かう。

 扉に耳を押し当て外側の様子を窺ってみるものの、物音ひとつしない。

 少女はしばし躊躇ったのち、思い切って扉を開け、廊下に出た。


 しんと静まり返る空間。

 正面には少女がいた部屋と同じような扉があり、ちらりと視線を遣った右手側は行き止まりになっていた。正確には、何やら複雑な模様が刻み込まれた重々しい扉が鎮座していた。

 続いて左手側を見遣れば、廊下に沿って向かい合わせにもうひとつずつ扉がある。

 五つも部屋があることを考えると、ここは結構広い家のようだ。


 少女はそろりと廊下に出て、行き止まりにある扉を避けて向かい側の扉に手をかける。しかし扉はびくともしない。

 続いて残りのふたつの扉に向かえば、こちらはあっさりと開いた。片方は納戸部屋になっていて、もう一部屋は少女がいた部屋と変わり映えしないような、家具だけが置かれている殺風景な部屋だった。

 そうして次々と部屋を確認して回ったものの、どこにも人の気配はなく、少女は不気味さを感じ始めていた。


 廊下を抜けると広いリビングがあり、その奥にダイニングと調理場。調理場の横に扉のない別の部屋への入り口があった。少女は周囲を警戒しながら恐る恐るその部屋へと向かう。

 慎重になる余り、背後を振り返った瞬間に棚にぶつかって物音を立ててしまい、少女の心臓が飛び上がった。少女自身もわずかに飛び上がった。

 しかしやはり人の気配は感じられず、誰かが駆けつけてくる様子はない。


 少女は胸に手を当てて大きく息を吸って吐いて、吸って吐いて……と繰り返し、この家には誰もないのだと自らに言い聞かせる。そうして落ち着きを取り戻すと、意を決して調理場横の部屋に駆け寄り中を覗き込んだ。

 そこは倉庫のようだった。

 保存食や果物、野菜、調味料に調理器具……調理場で使うようなものが整然と置かれていた。


 それを目にした瞬間、少女のお腹がぐぅ、と音を立てる。

 どれくらい眠っていて、いつから自分が食事を摂っていないのかもわからないが、空腹を自覚した途端に食欲が湧き上がり、耐えることができなくなってしまった。


 後ろを振り返り、やはり人の気配がないことを確認すると、少女は素早く倉庫に踏み込んで目についた果物を手に取った。そして大きく口を開けてかぶりつく。

 しゃりっという歯ごたえと同時に果汁が溢れ出てきて、少女は顔を綻ばせた。夢中でひとつ平らげると、同じ果物を手に取ってかぶりつく。


 そうして満腹になるまで果物を食べると、緊張が解けたのか様々なことが思い出された。


 占者がもたらした予言。

 村の人たちの冷たい視線。

 あっさりと自分を手放し、森に捨てた両親。

 ただ見ているだけだった兄弟姉妹。


 あれは現実だったのだと改めて認識する。同時に、意識を失う直前に見た人影のことを思い出す。

 しかし少女の記憶には靄がかかっていて、相手の声も特徴も何も思い出せない。思い出せるのは、優しく髪を撫でてくれた手の温もり。


 少女は無意識に自らの髪に触れた。

 すると鮮烈な印象を相手に与える赤髪が視界に入り、途端に怒りとも悲しみともつかない衝動に突き動かされ、この髪さえなければと強く掴んだ──が、すぐに手から力が抜け落ちた。


(綺麗な髪だって、みんな言ってくれたのに)


 暗く沈んだ瞳で、少女は指に絡まった自らの髪を眺めた。紅玉色の髪が倉庫の入り口から差し込むわずかな光を受け、きらりと輝く。

 その様子を、空虚な心持ちで見つめていたときだった。


 コンコンと、扉を叩く音が静寂に沈む空間を走り抜けた。

 弾かれたように顔を上げた少女は素早く物陰に身を隠す。ほぼ同時に、リビングの向こうにある玄関扉が開かれた。


「師匠、ただいま戻りました」


 間髪入れずに男性の声が響く。

 少女は身を固くして、息を潜めた。


「師匠?」


 足音が近付いてくる。

 少女は体をより小さくして見つからないようにと縮こまったが、その際に身を寄せていた棚がガタンと音を立てた。

 またもや少女の心臓が飛び跳ねる中、足音がこちらに向かってくる。

 広いと言っても玄関から倉庫まで大人の男性が大股で歩けば十歩もない。

 足音はあっという間に倉庫前に辿り着き、「師匠?」という声とともに見知らぬ青年が顔を覗かせた。


 ばっちりと目が合う。

 警戒心の塊だった少女は咄嗟に青年を睨みつけた。一方、意表を突かれた青年は目を瞠る。


「……」

「…………」


 互いに硬直して、見つめ合う。


 そうして流れた長い沈黙のあと、先に口を開いたのは青年の方だった。

 何やら難しい表情を浮かべ、青年は言う。


「……縮みましたか? 師匠」

「あんた、誰!?」


 青年の間抜けな問いを聞く余裕すらない少女は、反射的に誰何の声を上げた。

 少女の気迫に圧されてか、青年は一歩後退る。それから思案に沈む仕草を挟み、がくりと肩を落とした。


「……まさか師匠、また拾ったのか」

「無視してないで答えなさいよ!」


 小さく零したきり黙り込む青年に、少女は噛み付くように言葉を放つ。

 しかしそんな少女に構うことなく青年は踵を返してリビングに戻り、何かを見つけた様子でテーブルに歩み寄った。


 そして青年が手に取ったのは、真っ白な封筒。

 迷わず封を切って中身を確認した青年は、背中側からでもわかるくらいあからさまに疲労感を醸し出し「…………そこを割愛するなよ」と言葉を漏らしながら項垂れた。


 はぁー、と長い長いため息を吐き出して椅子に座り込む青年を、少女は恐る恐る、しかし決して目を離さないように凝視する。

 そんな少女を、眉間に皺を寄せた青年が振り返った。

 しばし少女の方を見遣ってから青年はふぅ、とため息を吐くと、椅子から立ち上がった。


「俺の名前はセレストだ。お前の名前は────名前がないというのは、本当か?」


 唐突に名乗った青年を、少女は訝しみながら睨み続けていた。


 名前。名前ならある。

 でもその名は占者の言葉に従ってあっさり自分を捨てた両親が付けた名だ。そして村の皆がかつては親しみを込めて、けれど最後は忌まわしそうに口にしていた名でもある。

 少女としても、その名は二度と口にしたくなかった。

 知らず知らずの内に周囲の影響を受け、少女自身もかつての自らの名が忌まわしいもののように感じてしまっていたのだ。


 ゆえに、少女は青年──セレストの問いに頷いた。少女の答えを確認したセレストは、眉間の皺を指で揉み解しながら考え込む。

 ふとその視線が、リビングの片隅に置かれている小さな本棚に向けられた。


「……ヒュー。ヒューティリア、でどうだ?」


 改めて少女にセレストが問いかけると、少女は青年の言葉の意味がわからず首を傾げた。


「名前だ。お前の。気に入らなければ別のを考えるが」


 そう告げられれば少女も意味を理解して、耳慣れないながらも自分のために贈られようとしている美しい響きの名に喜びが湧いた。けれどすぐに少女は表情を引き締め、またもやセレストに警戒の眼差しを向ける。

 悪意は感じない。けれど、いまだに自らの置かれている状況が判然としない中、この善意は受け取ってもいいものなのかと少女なりに葛藤していた。


 するとセレストは仕方なさそうに本棚に向かった。

 一冊の絵本を本棚から引っ張り出して少女に歩み寄り、その絵本を差し出す。


「『森の中のヒュー』だ。お前はこの本の主人公に似てる」


 セレストから名付けの理由が伝えられると、少女はおずおずと手を伸ばして絵本を受け取った。そして表紙に描かれている妖精の姿を見て、目を瞬かせる。

 表紙に描かれている妖精は、赤い髪に少女よりも濃い青い瞳をしていた。


 少女は改めてセレストを見上げる。気怠そうな表情の青年が、じっとこちらを見下ろしていた。

 再び絵本に視線を落とす。鮮やかな赤い髪の妖精が、幸せそうに微笑んでいた。


 少女は青年の顔と絵本の表紙を見比べる内に、自分の体の内側がぽかぽかと温かくなってくるのを感じていた。

 そうして何度となく青年の顔と絵本の表紙を交互に眺め、やがて少女は往復させていた視線を青年に定める。新緑色の瞳を真っ直ぐ見上げれば、言葉は自然と零れ出た。


「その名前でいい……」

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