学びたいもの
朝。
ヒューティリアは目覚めるなりベッドから飛び起き、笛を首に掛けるといつも通り簡単に身支度を済ませた。
少し寝坊してしまったので焦りながら玄関を出ると、昨日までよりも冷たい空気が体を包み込んでくる。視界には木から舞い落ちた木の葉が地面を鮮やかに彩っている様子が映り、いつも通り感嘆のため息をついてから畑へと走った。
ヒューティリアが畑に辿り着くと、早くもセレストが作業をしていた。村で分けてもらった藁を作物を保護するように乗せている。
「おはよう」
息を切らしながら声を掛けるとセレストは手を止めて「おはよう」と応じる。
「これから先、春までの間は畑の世話は手伝わなくても大丈夫だ。代わりに今後は魔法薬用の薬草を育てる方を手伝って貰うから、そのつもりで」
「魔法薬の薬草? どうやって育てるの?」
「魔法薬用の薬草の育て方は少し特殊だから、魔法の使い方と一緒に教える」
ヒューティリアの問いに、セレストは作業を再開させながら答えた。既に作業のほとんどを終えていたようでそう時間をかけずに藁の配置を済ませると、ヒューティリアを促して家の中に戻る。
家に戻るとセレストが朝食の支度を始めた。ヒューティリアも自分に出来る範囲で手伝い、配膳の準備はセレストに任せてテーブルを拭く。
テーブルを拭き終えると間もなく、食卓に朝食が並べられた。ヒューティリアはほかほかと湯気が立ち上る様子を見て顔を綻ばせ、セレストが席に着くと元気に「いただきます!」と声を上げてパンに手を伸ばした。
食事を終えて食器を片付けると、いつもなら文字の読み書き、言葉の意味を学ぶ時間になる。
しかし、ヒューティリアは既に問題なく読み書きができている……とセレストは判断している。言葉の意味に関してはこれからも新たにわからない言葉が出てくるだろうが、同年代の子供の中ではよく理解している方だろう。
故に、セレストは今後この時間を何に充てようかと考えていた。
「この空いた時間で、何かやりたいとか希望はあるか?」
「希望? あたしのやりたいことを言ってもいいの?」
ヒューティリアの問いにセレストが頷くと、ヒューティリアの表情がぱっと輝いた。
「楽器! この笛の音も好きだけど、セレストみたいに楽器が弾けるようになりたい!」
この言葉に、セレストは宙を見上げて考えた。
楽器、と一言に言っても沢山種類がある。この家は魔法使いの家とだけあって楽器が数種類置かれているが、全てを網羅しているわけではない。
「どんな楽器がいいとかあるか?」
「……どんな楽器があるの?」
ヒューティリアはまだ幼い。しかも故郷の村もさほど裕福な村ではなかったため楽団などが立ち寄ることもなく、楽器の知識に乏しかった。
セレストは眉間に皺を寄せながら「倉庫にいくつかあったはずだが」と呟いて廊下に面した倉庫の方へと歩き出す。ヒューティリアもその後に続いた。
セレストの部屋の向かい側にある倉庫は、やや埃っぽい匂いがする。ヒューティリアに着せる服を探す際に多少は掃除したのだが、それでも年季の入った埃の匂いはなかなか抜けてくれなかったのだ。
その際にセレストがずぼらな師に恨み節を零していたのだが、これまでのセレストの様子からヒューティリアも段々とマールエルという人がどういう人物なのか理解しつつあった。
「その笛は、師匠が言うには師匠の更に師匠……知の賢者ソルシスから師匠が貰った物だそうだが、この家には他に管楽器はない。というか、魔法使いで口が塞がれる楽器を使う奴は滅多にいない。まぁ、敢えてフルートを使う人間をふたりほど知ってるが、口が塞がれると演奏中の精霊との対話を全て頭の中でやらなきゃいけないから俺は勧めない」
そう言いながら倉庫の一角から次々と楽器を掘り起こす。床の上に弦楽器、打楽器、鍵盤楽器と、数にして六種類の楽器が並べられた。
それを端から指差しながらセレストはざっくり説明する。
「このリュートは師匠のだな。あの人何で楽器を置いていってるんだ……。他に弦楽器はバイオリンとライアーがある。打楽器はグロッケン、シロフォン。鍵盤楽器はアコーディオンだけだな」
次々と示された楽器を、ヒューティリアは興味深く見つめた。
「セレストは、全部弾けるの?」
「基礎だけなら」
「凄いっ!」
「いや、師匠がここにある楽器に加えてフルートも出来たから、一通り教えられただけなんだが。師匠はどの楽器も楽団に入れるくらいの腕前だった」
セレストがこなせるものは基本的に師であるマールエルから教えられたものばかりだ。
セレストのみならず妖精や精霊たちからもずぼらと言われているマールエルではあるが、やれば出来る人間でもあった。……やらないから、ずぼらと言われているだけで。
「マールエルさんも、セレストみたいに色々出来る人なのね」
「やりさえすれば、何でも俺以上の成果を上げられる人ではあるな……」
それ以上は口にしないが、セレストの表情を見ればこれまでに積み重ねてきたマールエルに対する印象も手伝って、ヒューティリアにも“マールエルはやればできるのにやらない人間である”ということが伝わってきた。思わず苦笑するヒューティリアに、セレストも微かに困ったような笑みを浮かべた。
「で、どの楽器が気になる? それとも一通り手をつけてみるか?」
「うーん……うん、一通りやってみたい!」
こうして、ヒューティリアは新たに楽器に手を出した────のだが。
「だめか」
「うん……笛の方が好きかも」
「まさかの管楽器派か。となると、この家には置いてないからな……」
セレストは眉間に皺を寄せ、顎に手を当てて考え込む。
「俺は管楽器はさっぱりだしな……でも師匠はあてに出来ない。そもそもどこにいるかもわからないし……」
「いっ、いいの! しっくりこないだけで、どの楽器も面白いから!」
ぶつぶつと思考を漏らしながら考え込むセレストに、ヒューティリアは慌てて声を上げてその思考を遮った。
「この中でやりたいのは、やっぱりライアーかなぁ。セレストの弾くライアーの音はね、森や泉に溶け込んじゃうみたいに澄んでるの。あんな風に弾けたらいいなぁ」
そう言ってヒューティリアは置かれていたライアーを手に取った。
指先で弾くと弦と共に空気が振動し、その振動がライアーを通して体に伝わって、耳からのみならず体の内側にも心地のいい音が響く。
「……わかった。なら、冬の間はライアーを教える。春になったら王都に行く」
「へ?」
どうやらヒューティリアが遮ったつもりの思考が遮られることなく続いていたらしい。セレストは自分の中で結論を出して、結論のみを口にした。
その言葉を聞いたヒューティリアが間抜けな反応を返してしまったのは仕方のないことだ。何せ、何が「わかった」のか、何が「なら」なのか、何故「王都に行く」なのか、セレストの言葉からはさっぱり読み取れないからだ。
「ちょっと待って! どうしてそういう話になったの?」
悪いことをしたら怒る。駄目なことをしたら言う。
今回はどちらかと言えば後者に近く、明らかにセレストの言葉が足りない。なのでヒューティリアはすかさず問いかけた。
するとセレストも言葉足らずだったことに気が付いたのだろう。言葉を補うために口を開いた。
「冬の間は移動に適さない。野生動物は減るが、場所によっては雪が降って移動が困難だ。だから移動するなら春になってからが好ましい」
「……うん。いや、どうして春なのかも気になったけど、それより何で王都に行くって話になったの?」
更に問いかけると、セレストは「そうか、そっちもか」という表情を浮かべた。完全に自分の思考の中だけで完結していたことに気付いていなかったようだ。
「王都に行けば楽器店が数多くある。一通りの楽器を見て回れるし、フルートを使っている知り合いもいる。確か他の管楽器も使えたはずだ。どうせ学ぶならちゃんとした使い手から基礎を教えて貰った方がいいだろう。不本意だが、手を貸して貰えるように手配しておく」
追加の説明を受けて、ヒューティリアもようやく納得できた。それと同時に好奇心で目を輝かせる。
「あたし、王都に行ったことない! 連れて行ってくれるの?」
「折角興味があるのに、本当にやりたいこととは違うことをしても仕方がないだろう」
「ありがとう!」
ヒューティリアの飛び上がらんばかりの喜びように、セレストも我ながら名案だったと頷く。管楽器の使い手であるかつての同僚に手を貸して貰うのは、本当に本当に不本意ではあるが。
「まだ先の話だがな。とりあえず今日は────」
と、窓の外を見てすっかり日が暮れていることに気が付く。
昼食は忘れずに摂っていたが、今日は楽器選びで丸一日を費やしてしまった。
「夕食の支度をするか」
「えっ!?」
セレストの言葉でヒューティリアも窓の外が暗くなっていることに気が付いた。
精霊が気を利かせてくれたのか、部屋の天井にうっすらと明かりが灯っていたおかげで全く気付かなかった。
「魔法の勉強は?」
「明日からだな」
「えぇー……」
心底残念そうにするヒューティリアの背を押して、セレストは倉庫を後にした。
こうして、ふたりが正式な師弟として過ごす最初の日が終わった。
ふたりが去った倉庫の中で、明かりを灯していた精霊がふわふわと置きっぱなしになっている楽器の上に舞い降りる。すぐに周囲にも色とりどりの光が灯って、くすくすと笑い声が上がり始めた。
『意外〜』
『本当、意外!』
『まさかあのセレストが、ちゃんと師匠らしく弟子のことを考えて行動してるなんてね!』
『マールエルが見てたらセレストをぎゅうぎゅうに抱きしめて「なんて素晴らしい弟子なんだ! さすが私の最高の愛弟子!」って叫んでるところだよね』
『わかるわかる』
『マールエルはセレストのことが大好きだからね』
『ねー』
くすくす。くすくす。
マールエルやセレストのみならず、ソルシスがいた時代から彼らを見守ってきた妖精や精霊たちは、この家で新たに生まれた師弟関係を時にはお節介なくらいに、時には静かに優しい眼差しを向けて見守っていた。




