今度こそ
その気配に気付くなり、クロベルはフォレノの森から飛び出した。
こんな短い周期で現れるとは予想外だったが、自らが成すべきことは決まっている。
(今度こそ……!)
強い思いが去来し、半日とかけず目的地に到達する。
辿り着いた先はガシュレン王国の王都。
現在セレストとヒューティリアがいるはずの場所だった。
空には重くのしかかるような黒い雲が広がり、その真下に遥か遠い昔、一度だけ目にした事のある存在を視認する。
まるでその身から光を発しているような、眩い姿。
しかし獰猛な紅い瞳が神々しさを打ち消し、禍々しさすら感じさせる。
吼え猛る声は大地を揺るがし、剥き出しになった牙が棲処を守ろうと抗う精霊や妖精たちの命を刈り取って行く。
怒りがクロベルの身を焼いた。
何故こんなことが起こるのか。
何故こんなことが許されているのか。
厄災をどうにかしようと力を尽くしている者がいないわけではない。クロベルもそのひとりだ。
しかし厄災に対抗するにはどうしても多くの原初の精霊や妖精、精霊王や妖精王を含む力ある者たちが集まる必要があり、その全員が集う前に厄災に逃げられてしまうのが常だった。
故に、厄災の圧倒的暴力に抗えないのは仕方のないことなのだと、かつてのクロベルは諦めていた。
しかし、妖精の核を握り締め絶望にうずくまるソルシスの姿を見たあの日から、クロベルの中の認識は変わった。
繰り返してはならないと。
二度と奪わせてはならないと。
そう考えるようになっていた。
セレストやヒューティリアの裡に湧き上がった思いと良く似た思いを抱え、クロベルは厄災の前に立ちはだかった。
眼下ではセレストを始め、この国の魔法使いたちが何とか厄災を追い払おうと奮闘している。
そんな彼らの呼びかけに応え、力を貸している王都の精霊たち。そして、近隣にいたのであろう渡りの精霊たち。
クロベルはその中に加わると、自らの魔力をも放出して厄災に攻撃を仕掛けた。
圧倒的な力を持つ原初の精霊。その存在に厄災が気付くには、充分な威力。
厄災はクロベルに焦点を定めると、この場において最も美味しい餌を見つけて目を細めた。
『そうだ、こっちだ!』
自らが標的になることを理解した上で、クロベルは派手に魔法を放つ。
顔面に炎を浴びせかけられた厄災がよろめいたのは一瞬のこと。すぐさまクロベルに襲いかかる。
「クロベル!」
下方からセレストの声が上がった。続いて巨大な水球が飛来し、厄災に届く寸前で狼の頭を象り、牙を剥く。
水の狼は反応できずにいた厄災の顎に噛み付くも、厄災が激しく頭を振ると形が崩れ、消えてしまった。
すると変わった魔法のせいか、厄災の意識がセレストに向きかけた。
その隙を逃さずクロベルは攻勢に出る。
巨大な風の刃を形成し、厄災へと放つ。
しかし厄災は難なく躱し、鋭い爪のついた前足をクロベルに向かって振り下ろした。
空を切り裂く鋭い音。
それをギリギリで躱しつつ、クロベルは周囲の状況を確認する。
王都の人々の避難は終わっていないようだ。
むしろ混乱して避難どころではなくなっているのだろう。だからこの場に王国魔法師団が集結しているのだと察した。
(となればこれ以上、厄災を王都に近づけるわけにはいかないな)
しかし現在地は王都を間近に望む位置。
厄災の気が変わり王都の城壁内に飛び込まれれば、一瞬で数百数千という人間の命が失われる。
危機感を覚えたクロベルは、今にもクロベルに飛びかかろうとしている厄災を横目に、王都から離れる方向に距離を取った。
敢えて厄災の目につくよう、厄災の目線の高さを飛び回る。
厄災は玩具で戯れるようにクロベルに飛びかかり、躱されてはまた飛びかかった。
そんなことを繰り返していると。
「クロベルー!」
今度はヒューティリアの声がした。何故逃げなかったのだと叫びたいがそんな余裕はない。
次々と襲いくる厄災の爪をクロベルが躱す合間を狙って、下方から巨大な岩が飛んで来た。
しかし厄災は魔法の気配を察知して身軽に避ける。自然とクロベルと厄災との間に距離が開いた。
恐らくこれは、魔法を使った人物の思惑通りの状況。
そのことにクロベルが驚き目を瞠りながら魔法を放った人物を確認しようとしたものの、ヒュッと空を切る音がして慌てて身を翻した。
状況的にあの魔法はヒューティリアが放ったものだろうと判断して、改めて厄災と向き直る。
少しでも王都から引き離さなければと、クロベルは改めて厄災と距離を取った。
『グルルルルル』
喉を鳴らす厄災の目が、すっと細まる。
その視線が僅かにクロベルから逸れ、不吉な予感に背筋が粟立った。
下方からはクロベルを援護するようにセレストやヒューティリア、王国魔法師団の魔法使いたちが放つ魔法が次々と飛んでくる。
しかし厄災は敏感にそれらを察知して最小限の動きで避けており、魔法が厄災に命中する気配はない。
その状況の中、いつ厄災の気が変わるかわからないことがクロベルには恐ろしかった。
厄災を王都から引き離そうと試みているが、もし厄災が、なかなか捕らえられないクロベルに業を煮やしたら。そして、王都の破壊とそこにある命の刈り取りに意識を切り替えてしまったら。
実際、厄災は時折王都の方へ視線を向けている。
いつ標的が変わってもおかしくない。
(引き延ばすのは得策ではない。早いところ痛手を負わせて追い払うか、満足させて去らせるかしなければ──)
こうなってくると、フォレノの森に厄災が現れた際、その場に居合わせなかったことが心底悔やまれた。
(ソルシスはどうやって厄災を退けた?)
生き残った森の精霊や妖精も、ソルシス本人でさえも無我夢中だったため記憶が曖昧だという、厄災を退けた一撃。
それさえわかれば──
クロベルはどうしようもない焦りを覚えながらも、一度思考を断ち切った。
被害を最小限に抑えようと考えた時、人が多く存在する王都の近くで厄災を退けるほどの一撃を放つという選択肢はないように思えたのだ。
となれば、最も犠牲を少なく済ませられる方法は何だろうと考える。
そもそも厄災とは、存分に破壊するか、腹を満たすまで暴れ続けるものだ。
そして満足すれば消え去る。そういう存在だ。
(満足すれば──)
不意に、まるで暗闇に差す一筋の光のように、ひとつの考えが閃いた。
──原初の精霊の核を差し出せば、厄災の腹は満たされ、ここから去るのではないか──
現状を打開する道が、目の前に開けたような気がした。
その瞬間にクロベルの心は決まる。
悲壮な決意を抱き、厄災の気を引きながら、クロベルは眈々と機を窺い始めた。




