ナバリの者、シャクドウの皇
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粘性のある赤まだらな黄砂の帳が徐々に晴れる。
荒立てた風に飛沫の血が乗り、元来の黄土に煙る秋風が赤まだらに染む。
甲高い剣戟の音が響き、応するように禍物の咆哮が轟く。
足場には黄土色の乾燥した土、そこに黒い飛沫が散乱して場を成す。
礫砂と血が混じり合い、粘性を持った不純な土塊となる。足下は踏み崩れやすい場と、まとわりつく要所を形成したそこは、概して戦場と呼ばれる。
ただ彼らが相手取るのは人ではない。
「アォゴオオオォ」
二足で地を踏みしめているからとて、それが人との協調である証ではない。現に戦場の真っ向に人と禍物が対峙し、既に双方半数が死傷している。
脆い礫砂の大地を怒濤に駆け抜け粉塵が舞い、両端の噴煙が交わるとき、そこに惨禍の雨が降る。一合の衝突には相応の衝撃が伴う。重厚な甲冑が悲鳴を上げ、鈍重な鋼鉄の兜がすり切れる。それは一撃にて圧壊の掌打であり、その手は四つ指の、異形の手である。
撤退はない。
人の身に余る禍物との邂逅は不可避であり、またそれを看過することが有ってはならない。人には人の領分という物があり、禍物にも相応に領分がある。それが擦れ合う所、譲り難い究極の軋轢が生まれる。それには双方落とし所などという「合理性」など存在しない。不合理である生き物同士が、何の見返りもなく、ただ生存権だけを賭けて争う。
そこに有るのはただ一つだけ、生きるための意思であり、それ以外に煩わされる暇など無い。
斬合の止む無し、聞こえる音は怒号と叫声。
中に指示や救援を求めるものもあるが、それが一寸に無駄となる世界。
一撃に誰かが英雄となり、それは間もなく何者も知らぬ英雄譚に変わる。渦中には誰もが隣り合う者の哀れを悼む余裕など無い。己が身の振りに差し支えない程度にしか周りの状況など把握していない者が多数の狂乱中、幾人かがその渦中を「征く」が如くに闊歩する。その少数は誰もが歴戦の兵であり、また瞳には「意志」は無い。
「――」
なだらかな湾曲の内に刃の付いた、他に見ない変わった片刃の剣を、その男はただ無造作に払い振る。それが偶然の様に四つ指、禍物が持っていた粗悪な銅鋳造剣ごと右腕を叩き斬る。腕を失った衝撃に一瞬の動揺があるのは「生きている」からに他ならず、生命の危機に押すか引くかでの逡巡を伴ったのが有る意味での「絶命」だった。
男は自身が切り落とした腕の主を瞥無く素通りするように脇を抜ける。その様を化け物でも見るような目で四つ指の禍物が男の背を眺める。
逡巡など寸間に程なく、四つ指の禍物は右腕の礼だとばかりに左の太腕を振るって男の後頭部を強襲する、が――
見向きもしない。そも手で払いのけた虫の、後の生き様にまで人様は関心など持たぬ。男の振る舞いはそれの如く、右手に持った変わり刀を左手に持ち替え、飛び回る羽虫を払いのけるようにただ鬱陶しそうに振り払われる。
斬撃に重きなど無い。ただ軽々と払われた変わり刀の遠心力と自重にて四つ指の残された腕までも刈り取られ、更に血払いに振ったような切っ先が禍物の首筋を撫でる。
首は跳びはしなかったものの、四つ指の禍物は「恐怖」した。怯えることは生命にとって存続の為の根幹を成すものだが、四つ指は既に両の腕を刈り取られ、どうする事も叶わない。
血液が失った腕の口から鼓動に合わせて吹き出、薄く切られた首からも流れる。意識はハッキリと男の背を見据えていて、体の自由は既に無い。
二肢を斬り落とした男はその禍物に興味の一切はなく、戦場の直中を徐に征く。
のらりくらりとした不確かな足取りのように見えるそれは、裾を踏まんばかりに長い外套で足下を隠匿し、動態を掴ませない為の物だ。それに気がつく輩はそもそもその男には近づこうとは思わず、その彼の不明瞭な動きに勝機を見る者は夢想した哀れな己の末期を見る。だがこの戦場には彼を見て前者の判断が出来る物など居ない。
禍物の振る舞いには暴虐と強奪以外の意思はなく、戦いにおいて研鑽を積むという思考は存在しない。手に持つ得物は略奪の戦利でしかなく、それがどう機能するものなのか見様見真似で体現しているに過ぎない。
男は直中を征く。
皆が生死を賭け、必死の形相で文字通り死を必ずや避けんと手に持った得物に全霊を捧げ、人は研鑽の限りをそこに顕現し、禍物は奪うことで生存と繁栄を永らえてきた現実をただ反芻する。
狂乱の中、男はただ歩いた。誰とも知らぬそれをただ踏み抜かぬように避け、禍物の肢体をも同様に避けて歩く。他の人間も禍物も、斬合の最中、足場の善し悪しなど気に掛ける余裕のない新参者ばかりの原で、己の身の振りをまるで意に介さずただ歩みを進め、そして――
「――」
陣中、剣戟の止まぬ血しぶきが唯一避ける聖域へと、男は篝火へ入る誘蛾の様に迷い寄る。その足取りはおぼつかない様でいて、その実、明確な目的と意志を持ってその聖域へと、しかと足跡を残している。
木剣を振りかざし、隙だらけの上段構えで少年は不覚なままにそれを振り下ろす。当然、そんな一目で乱雑とわかる一打に後れを取る手合いでもなく、向かってきた少年を軽々と木剣ごと打ち払う。
体重を上半身に留めたまま無謀な振り下ろしを犯した少年は、木剣ごと後方へと転がっていった。そこいらは整地された土地でもなく、岩に石に、砕け散った何かの木片もが転がるような劣悪な通りで往来のほとんど無い、終日を日影に支配された貧民街だった。
少年は頭部を強打したのか、両の鼻からぼたぼたと大粒の血を垂らして壁に這うように体を起こして立ち上がる。
「止めておけ」
そう制した男は鞘に収めたまま少年を打ち振るった剣を腰に留める。
「いぁだ――」
鼻血が逆流して喉を濁したらしく、はき出すように血をそこら中にぶちまける。
これは良い見せ物だとばかりに虚ろな目をした男達が軒先に見物に現れ、女性達は開けていた風通しの格子窓を閉めて家々へ引っ込んでしまう。
ここではただの物取りは常識で、強盗は茶飯事、殺人は週に八度有れば少ない方で、今日の見せ物は頭の悪いガキが嬲られて死んでいく無様である。
「へへへ。小僧もっと気合い入れてやらねぇと――」
「黙っていろ、煽るな」
突然殴りかかってきた少年と良い、貧民街の連中と良い、どうして好戦的なのか男には理解しがたい。こういう退廃的な場所では「本能」による生き方が最も優れている。路傍のゴミが宝の山の様に見えても食える物と食えない物の目利きはどうしても必要で、生き抜くためには人との関わり合い、政治的な処世術も必要となる。
それなのに彼らは、世捨て人のように生気を失った瞳の大人達、生きる術や媚びることをまるで知らない子供。その誰もがまるで、この世界は生きるに値しないと言わんばかりに処世を諦めていた。
「なぜ俺に斬りかかった」
必要のない質問だった。なんとなしに多々ある疑問の一つでも潰そうと、ただ気紛れで投げかけた。木剣でまさか人が斬れるはずもないのに腰に得物を提げ、見るからにこの辺りのやせ衰えた人間とはまるで違う体躯の男に、無謀にも襲いかかった少年にただ気紛れで、暇つぶしにも等しい質問を投げかけた。
「人殺しだからだっ」
軒先に出てきた男達は笑い転げ、鼻から血を垂れ流す子供は純真無垢なままの瞳で、自らを打ち払い退けた男に返答した。
そこで男は間の抜けた感想を抱いた。確かに。確かに言われてみればそうだ。この俺はただの人殺しである。言い得て妙だった。
腰に得物を提げ、一撃で子供の細腕を苦もなく払いのけ、今に朦朧としたその流血の子供に一切の容赦もしなかった自分がなんなのか、その純真すぎる答えに妙に納得した。
「腰に武器を提げている人間を片の端からそんな玩具で襲っているのか」
初めて襲いかかったのがその男だったのか、それとも他に襲いかかってすげなくあしらわれたのか。ここにこうして五体満足でまだ立っていられることが奇跡だという場。貧民街で気が触れたような振る舞いで日を跨ぐなどあり得ない。おそらくこの街に放逐されたのがごく最近、なんなら当日ではないのか。
集まってきた人間はおそらくこの少年が死ねば身ぐるみを剥いで金に換えるだろう。貧民街では物取りは相手の貴賤は問わない。金になるならば豚の糞でも流通させるのが貧民街で、朽ちてゆく人間の亡骸すらも「売買」の対象になるならそうするまでだ。
笑って煽るのは常道、人の死を悼むのは外道というのが地獄の掟である。
「わたしは、お前達のように生きる事はないっ」
口の端から血液を飛ばし、そう大言を吐いた。鼻から血を垂れ流し、今にも失神しそうな朦朧とした意識で木剣をまだ握りしめたままふらふらと男に歩み寄る。
どうやら本当に、近々に堕天した人間らしい。親が莫大な借金でも抱えて首を吊ったか、政争に巻き込まれて没落したか。他にも人間が天上のような貴族街、平民街からこぼれ落ちることはままあるが、この少年は前者からこぼれ落ちたらしい。
群がってきた観衆は少年の着ている全てに金銭的価値を、少年の亡骸に倒錯的価値を見いだした大衆である。この喜劇に観客は増える一方で、腐った濁り水を湛える暗がりの路地に人形の畜生が蠢く。
「騎士なんてただの人殺しだ。金の為に命を軽んじるんだ、お前らみたいなヤツは、死ねば、いい――」
薄ら笑いがどこからか響く。狭く薄暗く、城壁内の様に舗装されていない、土が剥き出しの路に嗤う。その音は一つではなく、多数が同様に嗤う音で共鳴するように響く。
少年の意識は言葉の尻に沈み、貧民街のカビ臭い土に倒れる。この瞬間を待っていたとばかりに嬉々とした声が上がる――が。
それを制したのは続く男の言動だった。腰に提げた変わった剣を鞘ごと留め金から外し、鞘の先をぬかるむ様な路盤に叩き付けるように穿ち、衆目を一手に集める。
「それは俺の戦利品だ。文句があるヤツは前に出ろ」
嬉々と沸いていた畜生が、身の危険を察知して押し黙る。抜け駆けして何か奪えたら僥倖だが、抜け出て魂が体から先行してしまうのは誰もが御免だった。
貧民街であろうとも、その手の輩は必ず居るものだ。
「おい、お前がこのガキを転がしたからなんだって言うんだ。地面に落ちているんだから、拾ったヤツのモンだろう?」
この辺りを締めているとおぼしき風体の輩が、城壁衛兵の短槍を持った、どうみても元衛兵の軽装をした男がしたり顔で男の前に歩み出た。
掟は住んでいる人間が決めることであって、外様の輩が所有権を求めてどうこうなるものではないと男はもの申す。それに無言の賛同を送るのは胡乱な、濁った瞳をした全ての観客達である。日々そうして暮らしてきたのだから、当然今日という日も多分であると信じて。
「――」
人が動くとき、何らかの予備動作がある。男の動きには先ほどまで確かに見ていればどう動くか、歩き出す瞬間や腕を動かす肩の動作が見て取れていた。それが今に、もの申した衛兵崩れの眼前に迫っている。短槍とは言え長物に違いなく、構えも何もなく唐突に動いた男に反応すらできず、衛兵崩れは首筋に迫る黒い鞘を見た。
少年に対して振るわれたものと遥かに違う速度で、衛兵崩れの右顎を捉える。それは不可避の一打であり、同時に必殺の一合である。
聞き慣れない衝撃音と、聞き慣れない人の出す音。
右顎の骨が砕け、首筋に連なる肉と血管が圧力に耐え難しと裂け、顎からひりだした様に歯が飛んで行く。衝撃の程は馬蹄に近く、砕け散った骨が面の皮を突き抜ける。
カビ臭い路に、誰がこれ以上口を挟もうか。
鞘から剣を抜き取ることなく、ただ払いのけたゴミを見ながら留め金に括り直すと男は宣言する。
「では、これは俺が貰う。それは好きにしろ」
自分で打ち払い怪我をさせた少年を小動物を庇護するが如く抱え、顎で衛兵崩れのそれを指す。男の戦利品はこれで、お前達の餌はそれ。単純明快な掟の決定が宣言された。
「――ぁ ――ぁ」
風が擦れたような音がする。顎の骨と首周りの肉を蹂躙されたそれが鳴いている事に気付いた者は一人としていない。嬉々として身ぐるみを剥いで軽装は散り散りに奪われ、短槍も気がつけばそこに無い。着ていた物も、所持していた物も全てが奪われる。遅まきながらに現れた男達が、四肢を掴んで衛兵崩れをどこか暗がりへ連れて行く。
何もなくなった路には、もう誰もいない。
「おかあ、ま――」
半覚醒した虚ろな目に捉えたのは浅黒い肌に深さの違う膨大な数の傷だった。見たことのない背中で、筋骨の様から男の背である事はわかる。涙目で朧いだ背中にはやはり見覚えはなく、そして覚えのない背中は覚えのない景色の中にあった。
「――どこ」
汚い貧民の住む街で傭兵の一団からはぐれた様な男に勝負を挑んだ所までは覚えている。兄に教わった上段から振り下ろす必殺の一撃を見舞った辺りから良く覚えていない。
安物の蝋燭から煤煙が見える。少年が知っている蝋燭は煤煙など殆ど出ない優良品であって、黒い煙をまき散らし、異臭を放つ粗悪な蝋燭などこれまで知りもしなかった。
鼻の奥を煙が刺し回す様な不快感に、少年は苛ついて声を上げた。
「臭い」
少年の声に驚きもなく、見窄らしいボロ切れで体中を拭った後、清潔とは無縁そうな着古された肌着で手早く古傷の背を覆い隠した。男の動作はおもむろに過ぎず、今すぐにでも刃物を突き立てられそうな隙の在り方だった。
身に纏う衣に覚えがある、自分が楯突いてはじき飛ばされた姿に違いない。それがどうだ、そんな輩が無防備にも少年の前に背を向けている。置かれた状況は天恵だと少年は思い至り、男の無頓着さにつけ込んで仕返す番だと行動を起こそうとする。
しかし、少年の思いとは別に気がつけば両の手と指が縄で締め上げられていて、両の足も指とくるぶしを縄で複雑に結ばれていた。
「おい、外せ」
「誰に言っている」
男はその声にすら何の価値もない様な素振りで、手早く身支度を調える。その様は戦支度そのもので、同時に彼の生き様そのものだった。一所は無く、彼の生きてきた道も生きる道も体一つを張って戦い抜くことだけだ。それを見るからに少年の心内など彼にはそこら中に転がっている夢や甘さと相違ない。
「お前だ。正々堂々戦えっ」
男にはますます少年が面白くて仕方がない。
「俺にか。そもそも正々堂々とは何の冗談だ」
何の冗談か。下層に追いやられた身の上を至上とでも、殿上人とでも曰ったかの如し言に、流石に男の口元がゆるんだ。
侮蔑に他ならない笑みに少年は怒る。その熱量は麻縄によって締め上げられ、放出する先を失って安物設えのベッドが軋む。
「決闘だ、わたしはお前に決闘を申し込む。名を名乗り、真っ向にて戦え」
状況も、身の上も顧みず、事の次第を理解するだけの能力もない。男には少年がそれほど浅はかな存在であるとは思えず、ただ自分が信じてきた物に縋りついているという弱者そのものの姿を見る。
だからこそ、彼が自分の意志を知ることが手っ取り早い。
「イザリアス教会銀貨十四枚。それが俺の名前だ」
「……」
言葉の通じない他国の人間を見るような目で、少年は男を見上げる。自力で起き上がる事も出来ず、ベッドに横倒しに伏せり、己の哀れを真に自覚するまでには至ることはなかった。
「お前の名乗りは騎士の様そのものだ。だが良いのか、粗悪なイザリアスの銀貨十四枚、金貨にして八十四、銅貨で二千百。ここの竜頭銀貨三枚と金貨四枚。それが俺の名前で、俺の存在価値だ。その奴隷と決闘などとは、お前の家名も相応に落ちぶれているんだろうな」
思い返すのはその身を置く場所の事だ。
使われていた頃には金額の「十四枚」と呼ばれ、それが自分の価値だと思っていた。それが名前で、そう呼ばれるのが仕事だと思っていた。
それがある日突然、男の価値観が消え去った。己を「十四枚」と呼んだ主人が、男の足下に転がった。十四枚と男を呼びつけ、気に入らぬと見れば殴り、飼っていた豚の食事よりも粗悪な餌を与えられて生きていた男の足下に、その主人が転がった。「十四枚」の足下に、一銭の価値無く主人は無様にも転がっていた。
後に聞いた話では主人は後ろ暗い一代成金の商人であり、脈々と続く商家達の不評を買って葬られたとか。十四枚だった頃の男には「政治」などというものは縁もなく、目の前で行われた殺人がどういう意味を持つのか解らなかった。
その日、十四枚から無価値へと失墜した男には何も残されていなかった。
それまで生きてきたのはただの幸運で、物心ついた時には既に十四枚と呼ばれていて、字の読み書きなど言うに及ばず、身の振り方など何一つ知らない。
路傍に捨て置かれた欠け石の様に、使い道のない子供など誰も生死を気にも留めないような場所に生きてきた。
突然失った価値を自分の内に見つける事など簡単にできはしない。まして自身が世界に対する尺度を正しく持ち合わせぬ奴隷である身の上で、この世と対等に渡り合うのは不可能だった。
男が死せずしてこの時まで生きているのはまさに天恵に等しい。
呆然と立ちつくした時間は覚えていない。日の昇り始めた時分に転がった主人を眼下に眺め、それに気がついたのは辺りから光が消えた頃合い。
見上げれば星明かりを遮る影があり、それが男を見おろす人だと気がつくまでにもまた、呆然とした幼かった時分の男には、認識の内に入れるまで時間が掛かった。
腹の音が鳴り、空腹である事に気がついたときこれから先、誰が与えてくれるのだろうかと、与えられることしか内にない事に全く気がつかず、ただそこで「待って」いた。
「腹が減ったか」
「……はい」
星明かりの逆光に、声が男性であることが解るが表情までは解らない。暗影に佇む二つが真っ当な人間の影でないことは確かだ。一つは捨てられた奴隷で、一つは不詳なヤツのものである。人を攫うなど日常茶飯事で奴隷など消耗品の様に扱われる界隈に、年端も行かぬ子供が放り置かれたのだから次の売り手が現れるなど珍しくもない。
その時のヤツの在り方はまた商人のそれと違い、ただ少年だった頃の男には「与えてくれる人間」だとしか思えなかった。
「お前、何が出来る」
「なんでもします。物持ちも、皿洗いも、伽も」
暗がりで男が憚らず大笑いした。その笑い声がなんなのか当時は解らなかったが、ヤツに男の子供に伽などさせる趣味はなかった。
なんでもするという言葉に、ヤツはどんな表情をしていたのか男にはその頃の記憶には残っていない。暗がりで見えなかったのか、単純に覚える気がなかったのか、その頃の自身に尋ねる他ないがそのやり取りで男の身の振りが決まった。
「どぶ浚いから死体漁りに鞍替えしただけだ」
縛られたまま男の昔語りを聞かされ、少年は置かれた場所に思い至ったのか。それともこれまであった境遇に話の子細を重ねたのか、ベッドの上で涙していた。
天上からこぼれ落ちてくる人間などいくらでもいる。同様に溝さらいの中から這い上がってくる人間もいる。その人の輪の栄枯盛衰は常であり、その采配を握るのは見えざる手の他にない。
誰が悪いのかと事の子細に拘れば、間違いなく己の行いが悪いのだ。
忌避しようとも必ず訪れる災厄も有ろうが、大概の物事の因子はかならず己の内にある。それは一見して責任を負うべきに無い、何の重要性も鑑みないものに等しいが。実、あらゆるものを内包する災厄の箱である。
藁敷きの上にシーツを敷いただけの粗悪な寝床を涙でひとしきり濡らし、少年は口を開く。
「どうすれば良かったんだ。オ…… わ、わたしには何も――」
「本当に」
男の凄みは少年の言葉を遮る物に十分事足りた。
少年の家が墜ちた理由など何の面白みもない話だった。小さな城塞都市国で起こる政争など取るに足らない。どこかの家が失墜すればどこからか新たなる家が興隆するだけだ。その渦中において最大の被害を受けるのは若年者と女性に他ならず、その一人がここにいる。
少年の曰く。外敵からこの都市国家を守る騎士団に属する父は一兵上がりの、成り上がり貴族で、前王に功績を認められただけの三流貴族だった。放蕩のような父の在り方に少年は不満足であり、二人の兄はそれぞれ腹違いで、彼自身も二人の兄とはまた腹の違う兄弟だった。
それでも兄二人は父の放蕩など見ぬふりをする様に、家に連なる純粋な兄弟の在り方として接し、少年と共に在りし日を過ごした。
だが父の放蕩は他騎士団の不興を買い、更に前国王崩御の後、新たに王座に就いた新国王は父の領地から入る税収に不興を買った。
与えられた領地への視察など与えられて一度行ったきりで放任し、そこで行われる一切に興味など持たなかった。
得られるはずの収入は失政はおろか無策に因って激減し、また良く思わぬ他の領地持ちの騎士団員は父の所領に対する無関心につけ込んで作物へ病害を与え、家畜を夜盗に見せて殺害、接収する。
父の無策、無能振りは騎士団内の議事にも現れ、孤立無縁を招き、最終的には逆賊との汚名まで着せられた。
逆賊との汚名。濯ぐには父のこれまでの行いには十二分に抗いがたい程、惨憺たるものであり、為す術など誰も持ち合わせていなかった。
成人した兄二人は放蕩する父親と同じ家名などに未練など無かったが、それぞれに母を守り、また少年を守るために押し入る騎士団員と刃を交え、すげなく切り伏せられた。如何に成人したとは言え、歴戦を経た騎士団員の力に「放蕩息子様」が抗うなど、叶うはずもなく、少年一人を逃がす時間を騎士団員達の戯れに稼げた事は奇跡にも等しい。
正妻たる長兄の母は、長兄の死に様に動転し、舞い戻り、長兄の隣で斬り殺された。
愛人だった次兄の母は長兄、次兄の死を見ても己の身が可愛いのかそれを見捨てて逃げたが、その身に可能な限り金目の物を纏い、手の内に握りしめ走れもしない高い踵の靴で屋敷を抜け出ようとするのは不可能だった。
身軽で、人目に付かぬ方法を心得ていたいのは遊び慣れた庭を駆けた少年一人だった。少年の母はそも屋敷仕えの給仕で、戯れに父が孕ませた子であり、母と呼ぶべき人間は少年が物心ついた頃には屋敷から逃げ出していた。
少年はその母の行いを恨むでも無く、ひたすらに同情した。いつか少年自身もこの屋敷から一人、飛び出そうと思っていた。如何に兄二人が同腹の兄弟であるかのように振る舞っていてくれたとしても、父の疎んじる眼や義理の母達による邪険に扱われる立場はとても少年の身と心に耐えられる労ではない。
しかし少年は思いも寄らぬ早い放逐に、心の整理など付かなかった。
男の言うように少年自身の価値は如何ほどか。それを勘案するだけの材料は己の中に無く、同様にそれを推し量るだけの経験則は無い。
家から出て己の浅はかな思慮の中に剣をもって身を立てるのが騎士たるものの王道だと思っていた。実にそうであるし、間違いではない。それでも手順と身の振り方、置き場において初めて成就される願望であり、路傍より誰彼に構わず戦いを挑んだ時点でただの自暴自棄に違わない。
喪失した何かの穴埋めに他人を秤に使った事を、襲った相手に諭されて思い至るに、少年は涙を禁じ得なかった。
「仇を討ちたいのなら相手が違い、身を立てたいのなら場所が違う。そも無謀と勇敢は違い、自尊とはおおよそ崇敬から限りなく乖離する」
誰かの上に立つには必ず「認められる」という過程が必要であり、それを認めるのは己ではない。絶対他者であり、限りない傍観者達の信任に因る。
「死にたいなら俺は止めはしない。だがどぶを浚う覚悟はあるのか。死体を漁る覚悟があるのか」
何もない。内に何もないのだからそれに応える答えも持ち合わせていない。
「……」
あらゆる者が消え去り、あらゆる物も消え去った。空白の頭に男の言葉は一つも響かず、また生きる意味など思いも寄りはしなかった。だが、
「生きることに意味など、そも有りはしない」
降ってきた言葉は完全な否定。何もなくなった人間には生きる意思など皆無であり、何か新たに始めることなど無用に等しい。
「ただ惰性である事に意味はない。得た慣性など一時の迷いでしかない。必要なのは流体に乗る意志の有無だけだ」
まるで意味の分らない言葉を羅列され、少年は頭の中に混沌が渦巻く。言っている事の意図するところが解らず、更に何を求めているのか解らない。それが少年に何かを求めた言葉なのかすら疑わしく、また男自身がその言葉の意味を理解しているのか疑問にすら思える言葉だった。
「それは、なんだ」
「お頭が昔、俺に言った言葉だ」
「どういう意味だ」
「知らん」
「……」
偉そうに講釈垂れた割に本人はそれの意味をまるで理解していなかった。これでその言葉に感動しろとか、生きることを諦めるなといった押しつけの意識を持っていたのなら少年は男の事を侮蔑の思いだったろう。だが男にはまるでそんな意識は無く、同じような立場で言葉の意味を考えるように「知らん」と言い切った。
「どうして自分で理解できない言葉をオレに、言う」
「俺自身、生きている意味など知らないし、生きてどうなるかなど興味もない。それでもこうして生きているのは何か他に意味があるからではないかと考えるからだ」
「何一つその言葉からも意味が分らない」
「当然だ、俺が俺の事を全て理解できるはずがないだろう」
吐き捨てた言葉が己の無知と蒙昧である事は承知の上であり、その無知と蒙昧の中に男の言う意味があると言う。少年の知る如何なる哲学思想者であっても似たような事を書いていた。意味ある概念に全幅を置いた人の在り方を否定し、内にある概念化できない混沌が人間真理に至るという。
元々奴隷である男がそういった人間に並び立つというのはどういった了見であろうか。生きてきた場所がどうあればその境地に立てるのか。
「じゃあ、オレがオレの生きる意味を見失ったとして、その先の人生に意味があると思うか」
「知らん」
何もなくなった。必要なかった。考えるまでもない。
意味など無いのだから尋ねたところで答えなど返っては来ない。
「だが、お前はこれまでの生かされる人生を終え、これから先には生き抜く人生がある。これより先には意味など皆無であるが、何らかの意味を探す生を往く。何もかも無くなったお前に、何が出来る」
言葉は真実ではない。受け売りの言葉をただ口から一線に並べ、男は臆面もなく自らの途を決めた言葉を少年に浴びせる。
「……オレは。伽以外なら、なんでも」
馬塵が視界を掠う。血しぶきは熱を持つ肌に清涼の風を与え、人の怒号がまた熱量を加速する。目の前で行われる同種の諍いにあてられて興奮の度合いを増すのは主を失って恐怖におののき、行き場を失い、置物と化した馬。
どれもが欠くことなく、どれも新たに生まれ、潰えて行く場所。
「ここで生きることがどれ程のことか解るか」
「いや」
「それでいい」
あの日、少年が迎え入れられたのはまともな人間の集まりではない。男が言うに死体漁りというのは間違いなく、それも漁る前段階を自力で作り上げるものだ。
夜盗や強盗の類ならまだ幾分かマシだった。
狙うのは勃興滅亡である。国が興るとき、国が滅びるとき。彼らの一団は現れる。
その一団は求める所に現れ、興りも滅しも彼らの行いによる功績が大きい。事の功罪を問われないのは常に勝つ側に組みし、彼らの行いが雌雄を決する。
その主なる行いを暗殺という。一国や一個人より受ける依頼でこの一団は身を立てる。持てる技能はただ人間の尊厳を奪うことのみであり、そこに意味など含まない。
男が言っていた「お頭の言葉」とはもちろん人の生き死にを疑わない事を教える言葉に他ならず、それは一団の統率と洗脳のために継がれてきた妄言でもある。
必要なのは目的の達成であり、誰がどこで死のうが意味を持たせない事。
本来なら戦場になど出る必要性はない。暗殺の本懐は誰にも知られないことだ。それが今や一団の皆は面を露わに、戦場に棒立ちして事の始終を見守っている。
殊更にどちらかに組みするような態度は無く、ただ戦場の直中に佇んでいた。
これは通過儀礼、ある年齢に達した青年達に与えられる入信の儀である。
場所は城塞都市の外れ、正確には崩れた城壁から不法に伸びた貧困民や他都市からの流入難民によって作られた貧民街である。
ある時、貧民街で一団員である男に拾われた少年が、いつしか青年となる時を経て故郷への凱旋を果たせばそこは形状を変え、為政者と人の心までも変えていた。
騎士団と呼ばれた彼らの姿は既に無く、王直属の軍があり、そこに軍閥という闘争があるだけだった。
軍閥はそれぞれ総体に宿る意思の下、最も国家からの利益を享受せんと覇権を争っている。そこに一団は一定年齢に達した青年達を放り込んだ。目付役としてある男が一人選ばれ、ただそこに佇むことを強要された。
五人の青年達がそれに参加し、既に二人が死した。抵抗を許されず、引くことも許されない。これの意味を問い質せばおそらく一団の人間は意味など無いと言うだろう。実際に男は青年達に「意味」を問うて、ある青年はそれを否定した。
青年はこの一団に加わった後、下積みとして団員達の身の回りの雑用をした。同じ年の頃の子供も多く、数人単位で行われる各地の仕事に同道して仕事を見る。
直接的に手を下す様を見、食事に一服盛る際には懇切丁寧に効能を教え込まれ、衆人に擬態する術を学び、人殺しとは感情抜きに行われる些事である事を叩き込まれた。
物事には意味があることを学んだ少年は、青年となる歳には嘘と偽りを見抜けるだけの器量を得ている。
言葉は真実ではない。
この入信の儀には意味がある。人は悲痛の怒声を上げ、馬の悲鳴が耳に粘性の念を残す空間で微動だにしない。これが意味のない悪い冗談まがいの物であるはずがない。求められているのは幸運や悪運の類である偶然の生存ではなく、停滞による生存。
恐れ、緊張の姿は人の目に映る。ここにいるのは真っ当な人であり、青年が身をやつしたのは人の道では無い。少しでも恐れ、緊張の色を見せれば彼らの目に映り、無抵抗のままにこの戦場というどぶの中に沈むだろう。
無関心であり続け、存在そのものが和とならない業を負わねばならない。
また一人が入信の儀で潰えた。彼の死因はただ緩慢だった事だ。感情の一切が不要。知らないことは生きる上で必要なことでもある。
ここで生き残れたのは目付役の男と、青年男女一人ずつ。
「ゆくぞ」
戦況に明暗が見て取れたとき、その入信の儀は終わる。混沌が終演すれば観劇のヒトがはけてしまうのは当然のこと。目付の男が掛けた言葉に、青年と少女は何ら応える事はなく付き従った。
入信の儀が終わった後、一団の本拠地へと戻ると皆は笑顔で歓待した。仲間だった少年達が三人も死んだことに彼らは何ら思うところはない。それは当然の様に生き死にの場に居合わせる生業である事もあるが、以前に彼らはやはり信仰の徒である。死んだ人間への思いなど希薄であり、生きている人間への信頼など氷薄である。
笑顔で迎え入れられるのは自分が信じていないからだ。これまでも皆がそう生きてきて、これからもそう死に往く。そういう一団だ。
一団に戦場への興味はない。先に十五名だった、現在十二名の団員達は一国に暗躍し、与えられた仕事を成す。国王を始め、内政要職の人間を殺害し、既に国家としての体裁が保てない程に斜陽している。
次に王を担ぐのはどの軍閥で、最も利益を享受するのは誰か。雌雄は既に決し、一つ所に帰結する瞬間は間近だった。新しい国が興る。ある日少年だった頃に見た、政争の国は終わる。そして始まるのはまさに政争の国である。
そう、盛衰の世こそ身を立てるに相応しい。
「おい、大変だっ」
一団は身支度を調え、仕事の終わりに去るのみだった。そこに訪れたのは勝ち馬に乗った人間の一人で、走り出す馬との連絡役である。
急報は一つ、城塞都市が魔物に襲われ始めた事だった。
問題の根本は単純に戦力である。
人間同士で争い、極限まで敵対関係者の頭数を減らし、反乱の芽を摘み、二度と反逆の思いを抱けぬように完膚無きまでに叩く。それが戦場での行いであり、暗殺での成就である。だがその行いはある種、最悪の防衛戦力低下に繋がる。無論他国からの軍事介入を招きうる事もそうだが、魔物の攻撃を受けるには最悪の状況下だった。
相手が他国の「人間」ならばまだ話は通じるが、魔物のことであれば話など無用。
人間が古来より話の通じない相手として最も忌避されるのは件の魔物である。話が通じないだけならば野生の動物と同じく寄りつかないように策を講じればよいが、魔物と呼ばれるモノは明確に人間の生存圏と知って襲い来る。その中でも最も凶気とも言うべき魔物たちは城壁都市ですら襲う。無節操に襲うような魔物なら早々に退治されて然るべきであるが、事、城壁を持つ大規模な都市を襲い来る魔物には必ず統率するモノがある。
統率され、組織化された魔物の軍勢には並の兵が束になった所で叶わない。職業からして「軍人」たる人間が居て、更に人を人と思う優秀な指揮官、欲を言えば英雄の登場すらも渇望される事態となる。
それが一団の退去前に現れ、疲弊し、削ぎ落とされた国軍の善戦を望めない状況下である。もしこの国が平時であり、城壁の一部が崩れて居なければおそらく防戦は成ったろう。
「また、奴らです」
「また?」
普段、一団の面々は国の行く末に興味など無い。だが仕事に関する情報であれば別だ。元来魔物退治を請け負うような集団ではないが、敵対する組織の情報であれば人間であれ、魔物であれ、組織化した存在である以上情報の内に欲しかった。
「何故、秘匿した」
「いえ、そういう訳では――」
城壁が破砕されたのは三年前。そこに現れた魔物の軍勢は統率され、更に戦術知識に秀でるような戦闘を行ったという。
夜襲。南より大門を狙う中隊規模の攻撃があった。前衛に移動速度の速い四つ足の魔物、中衛に重武装の四つ指と呼ばれる二足の禍物、後方に陣取っていたのはまるで破城槌の様な鈍重の一角を持つ四つ足魔獣。
城壁より射下ろす矢束は足の速い四つ足には効果的に当たることもなく、四つ指に至っては致命を与えるほどに穿つ力はなく、当然のように破城の魔獣は矢が当たるそばから城壁の様な皮膚に当たればへし折れる。
魔物の中隊規模であれば人間は大隊編成二つは必要である。それに対したのは城門、城壁の防備兵中隊、二隊であり、陣的優位である事は確かだったが支えるには厳しい人員と編成だった。
都市防衛本隊が南大門に到着した頃合い、見計らったように北北東に魔物の大部隊が現れる。大部隊の影を確認し、火急である旨を防衛本隊に伝え急転進する。
南大門に大隊一隊、中隊一隊という戦力を投入し、残りは北北東壁へと向かう。防衛隊本隊が北北東へ向かう中途、西門付近に小規模な魔物の部隊が現れた。
戦力の分散を誘い、南方、西方に大部隊を釘付けにするつもりで攪乱陽動であろうと当時の最高指揮官以下作戦本部は判断した。実際に北北東より現れた魔物の大軍勢を相手取り、確かに本隊であるという確証を得られるほどの苦戦を強いられた。
しかし、その本隊が戦術的な囮だったのは、未来が証明している。
北北東の本隊が釘付けとなり、中隊規模の南門へぎりぎりの防衛人員を配し、西門には少数部隊を留められるだけの人員を配した。
国家において稀少である戦闘法術師を南大門に配し、長期的な防衛戦略に必要な門を脅かす破城の魔獣を優先目標とし、その後、機動力に劣る戦闘法術師は北北東へと向かう。
それが致命的な落ち度だった。法術師達の大規模な攻撃には予備時間が必要となる。北北東で事前に準備する暇が無く、大部隊との戦闘は乱戦中に混沌を極めて地獄の顕現に他ならなかった。後に到着した法術師達の行いは微力。敵味方入り乱れる極限に、一帯を払い退ける法術はその力を限られてしまう。
更に少数であり、最寄りが貧民街ならば多少の被害が出ても構わないと捨て置かれた西門が本当の意味で鬼門に成る事を予測していた者は一人も居なかった。
「おい、ありゃ灯し火か」
「あ、どこだ」
うすらと見える。紫紅の火が揺らめいて遠景に見て取れた。
城壁の上に陣を取った弓兵達は遠景に望むそれを人の灯火かと相談を始める。魔物が炎を用いることは希だ。火竜でも無ければ、魔に墜ち人を捨てた法術師でも無ければ、火など用いるモノは居ない。だからこそ間の悪い旅の者かと哀れんでもみた。だが皆、夜も更けて人など歩き回るものかと疑心も抱く。
その紫紅の振れが星明かりの下に輪郭を得たとき、西門の守備は竦んだ。
その昔、人を越える神々の技にて作られた存在がある。竜種と呼ばれる存在も彼ら神々の御技に因ると伝えられ、他に法術を用いる死霊の騎士、影に潜む犬、石柱の寄る巨人。
神代より伝えられた、お伽話の姿がそこに見える。
「石の……人か」
破城の魔獣を二頭横並べにした幅に、城壁に僅か届かぬ程度の巨躯。両腕のそれは悠久の時を過ぎた大木と変わらない。西門の防護にあてられた者は迷う。南門の掃討戦に援軍を求めるのか、北北東の混沌へ伝令を走らせるか。
精巧に積まれた煉瓦立ての、一つ目の巨人が向かい来る。城壁と変わらぬ巨躯にもかかわらず大地を踏み、圧し固める歩みには音もなく、まるでそこにただ壁があるように迫る。
この世のものと思えぬ光景に、ただ彼らはどうしようもなく見惚れてしまった。
「――」
西門が崩れ、貧民街の一部が圧壊した事が皆に伝わったのは日が昇ってすぐのこと。
抗う力のない人間をすり潰し、都市に侵攻して虐殺の限りを尽くす余力もありながら、その石の巨躯は城壁を破砕すると踵を返した。
目的さえ達すれば他に興味がないとでも言った風にそれは転進し、日が昇り光が満ちればそこに巨躯は無い。
そうして、一夜にして城壁の一部が崩壊した。
「それで、その……」
聞くにその後、主に内政の問題で城壁は再建されなかった。
まず貧民街という立地に因る。治安が悪く、再建のための物資搬入や人材確保面において滞った。更に内政面でも情勢が不安定であり、城壁崩壊の責任の所在が二転三転し、それもが政争の火種となる。その間にも城壁再建の予算が宙に浮き、緩慢な修繕を繰り返すうち、気がつけば城壁が崩れた辺りに歪な街が外側に向かって広がり始めていた。
城壁が壊れた理由は単純に前王政を打倒したときの名残だと思い込んでいた一団は話を聞くに現在の襲撃こそが本命であると悟る。
三年もの時を経てなぜか。前回の襲撃は夜襲であり、今は日が高い日中である。如何に人間同士が争って戦力が削がれていたとしても、人目の聞く時間であれば魔物や魔獣程度ならば凌げる程度には戦力は残っている。それでも一団は自分たちの目で一望せずには居られなかった。年配の団員から飛び出すように宿場から旧西門城壁へ上がり、光景を目の当たりにする。
旗だった。掲げられた旗は破れていて、覚えのある旗章を掲げている。前王政の御印である。その旗は一見にして多数掲げられている様に見て取れた。しかしよく見れば旗は乱立している。知りうる限り、亡国の旗だけでも八本。現在も続く国は四本。それが無節操に掲げられていて、そのどれもが戦火に飲まれ損傷した旗に違いなく、おそらく戦場から死体を漁って奪った物に違いない。
人の真似をしている。それが何に因って行われている行為なのか、皆目見当も付かない。旗の乱立する様には統制など無い様に見えるが、魔物の軍勢は整然と並んでいた。
「バカな」
「……」
一団の人間は息を飲んだ。魔物が整列していたのである。前衛、中衛、後衛と陣を分け、更に飛翔するバケガラスが八体もの破城の魔獣に分乗し、四羽ずつ爪を立てて留まる。明確に統制、統率され、陣容も人間の取るものに近似している。
そしてなにより、
「何だ、あの数は」
崩れた西門の城壁より見渡すのは歪に伸びた貧民街とそこに一刻の猶予無く迫る魔物の軍勢だった。陣容と大きさから類推して二万は見て取れる。そして置かれた状況を悟る。開戦すれば国家として残ることは、人として生き延びることは不可能な状況を確信する。
その数に対して必要な人間の数は三万ほど。いや、三万を超えても不可能である。
「赤銅のオウが……居るぞ」
指し示す先を皆が誘い込まれるように見据える。
紫紅の灯火。
積まれた煉瓦はこの辺りでは見ない赤銅色をしている。近隣で生産される焼成煉瓦は乳白色のものばかりで、他に見たことがない。その赤銅と同じ煉瓦を作りたければ隣の大陸まで渡らねばならない。更に煉瓦の積みには寸分の狂いはなく、欠け一つ見えない。
未だ遥かに眺めるそれが、如何に巨大な一つ煉瓦の積み重ねで出来ているのかを知るに、神代の御技とはどれ程の奇跡を産めるのだろう。そして、どれ程の絶望を産めるのだろう。
整然と並んだ魔物の軍勢に、大将位置を取るのは赤銅のオウ。
「――」
軋轢を生んだまま、人間達はまともに陣形を組めぬままそれに対した。軍閥それぞれの境界線には居並ぶ事も出来ず、互いが違いに肩をぶつけ合い、そしていがみ合う。彼らは身内のみで隊を組み、同一の敵に対して当たろうという気概はない。
それに対し本来相容れないはずの魔物が軍団を組み、何からの統率を受けて隊列を完璧に陣を取る。
大将位置に佇んでいるという事実から統率しているのは赤銅のオウに違いなく、それは伝説上の存在であると伝えられるモノである。伝説が眼前に陣を敷いているのだからそれはもう伝説ではなく、明確な禍つものとして対処しなければならない。
赤銅のオウ。
その名を決めたのは誰かは解らない。なにせ最古の文献は八百余年まで遡る。以降、文献中に現れる赤銅のオウは遠景から望む目撃例ばかりであり、近影や戦ったという記録はない。無いのは当然で、掲げられた旗印の国は、亡国の数からしてヤツら魔物の軍勢が滅ぼしたのだろう。他に掲げられた現存国の旗は通りすがりの戦列を強襲して全滅させたものか、終わった戦場から奪われたものか。
御旗の来歴に思いを馳せるのは逃避である。眼前に広がるのは明確な脅威であり、ある種の絶望に近い。戦えるものは自身の責任において生命を賭ければ良いが、戦う術のない人間はそれを見てなんと思うだろうか。
「あの、俺達はどうすれば……」
「知らん」
「――そ、そんな無責任な」
「無責任? 先に全ての情報を開示しなかったそちらの責任だ」
無駄な事をしている場合ではない。現れた無慈悲に、責任も無責任も在りはしない。関わり合いをこれ以上持たぬよう、線引きをしなければならない。
「我々の仕事は既に終わっている。アレとの戦闘は我々には無関係だ」
一銭にもならず、更に身の危険もある。死ぬ事や殺すことに躊躇いなど無い。だが、一団の教えは『生きることに意味はない、生きることに興味も無し。生きた先に何かあることだけを心の支えとしている』その教えの先に何が待っているのか誰も解らない。
だからこそ、生きて一団の本隊に合流しなければならない。
音が鳴る。聞き覚えなく、空に鳴々と響く音は天界からの喇叭の様に戦場を誣いた。鳴り響く音は長く、戦場に棲まう者に畏怖を与えるだけでなく、聞き覚えのない大音量に畏怖したのは城壁から染み出した様に作られた貧民街に住まう人間と、崩れた城壁内に知らぬうちに閉じこめられた人間達である。
街は音の正体を未だ知らず、皆が街路に溢れ出て近隣の者と嘯き合う。三年前の夜襲時は寝静まった頃合いであり、音や灯りに様子を窺った者には夜盗狩りとでも言って混乱を避ければよかった。残念な事に今回はそうはいかない。三年の間に幾度も繰り返された人と人との諍いには皆辟易していて、戦火が及ぶならばいち早く逃れようとする機運が高まっている。その上日が高く、寝静まった夜半とは違い、民の殆どが覚醒したままその凶兆の音を聞いた。気味の悪い音に疑心と不安感は壁内を駆けめぐり、壁外で対峙する状況をよく知らぬままに、壁内は混乱を始める。
城壁の内外で混乱が始まる。城壁の上から人が無節操に動く様は戦時の統制が一切見えず、どう転んでも彼らは死を免れる事はできないだろう。
「我々は東門より離脱する」
「そんな、俺達を見捨てるんですか」
「見捨てる? 元々関わりなど無い」
暗殺を生業とする一団に魔物の軍勢に対する力など無い。小競り合いのような局地戦闘で幾ら戦果を上げたとしても、大局に影響など与える訳がない。
十二人程度で組める戦場陣形など、統制された魔物の軍勢には無力だろう。盤で行われる詰め石の遊びでも数手で詰まる程度の頭数だ。当然戦場で限りなく存在を悟られずに戦う事も可能だが、それでも限界は訪れる。
一団が城壁から下り、貧民街を通る。
彷徨う人々は既に見失っている。家財を可能な限り持ち、どこに逃げれば自分たちの身の安全が得られるのかと右往左往を繰り返す。その目には家族と家財しか映って居ないようで、所々で人が互いにぶつかって物をまき散らす。貧民街の人間は有事であってもその習性に変わりはなく、地面に落ちた物は端から盗まれる。拾って当人に渡そうなどと言う良心はなく、呵責に耐えきれないのならばそも人としての形は保てないのがそこだった。
そう、そこだった。
「なあ、生きていることに意味はないのはもう知ってるけど。生きた先に何かあるっていうのはどうなんだろうな」
唐突に一団に向けて零したのは、そこに捨てられた少年。今や青年となった彼だった。
一団から遅れ、後方から呟いた言葉を十一人は聞き逃さなかった。
仲間の声はどのような状況下でも聞き取れるように訓練している。仕事上必要な能力である事もそうだが、彼らは使い捨ての身の上で、同じ使い捨てのよしみという連帯感がある。
その一人が一団の教えに異を唱える様な言葉を放ったのだから、皆、彼を不憫に思うのは致し方ない。彼はこの都市の出身で、この都市で両親を失い、この都市で一団に加わった。
彼がそう漏らしたのは雑踏の中に見知った顔があったからかも知れない。
「オレ達が生きた先に何か意味があるのなら、ここに居る誰にも、生きた先に意味があるのかと思って」
別に一団の教えを曲げる発言では無かったものの、一団の面々は足を止める。その言葉にはまだ続く言葉があるはずだ。
『オレ達が殺した人間の生きた先にも、何かあったのだろうか』
そう続いてしまえば、彼はもう一団には必要のない人間となる。呵責に耐えられなかった人間は、仕事の最中に逡巡する。躊躇った人間は必ず失敗し、必ず脱落していく。
だが彼はそれ以上、言葉を継がなかった。それを継いではいけないという事は彼にも重々承知である事と同様に、単純な疑問として彼の中にふつと湧いたことに過ぎない。
「死ぬことにも、生きることにも、もうオレは何とも思わない。殺すことだって何とも思わなくなった。けど、どうしてかな。誰かを生かすことは、やめられないみたいだ」
人の往来は、既に方向を決定している。西に見える黒煙は、法術師達の炎から上がる魔物や人の焼ける臭い立つ煙。
見知った標が上がるのならば、それはもう近寄って良いものではない。
青年はそれを目がけて、勝手に走り出す。向かうのは西、禍つモノと人の燃える煙の方。
十一人はそれを眺め、止めることはしない。本来、逃げ出した者は追い、始末しなければならない。だが、あの戦場に身を置くのならばその必要性もなく、また彼の心情を察するに一団もまた彼の行いを責める道理にない。
彼が向かい来る人の波に全く呑まれず、人の中を縫うように行く様にある種の安堵感を見る。それでも、不安になる人間も居る。
彼の背中を見て駆け出したのは同じ頃の少女だった。
彼女がもし一団の決まり事として彼を始末しようというのならばおそらくそれに追従したろうが、彼女はその場に居た誰にも追従を求めなかった。
彼女は長らく一団にいて、彼と同じ仕事に就いたことも指折り数える程度では済まない。そこで情が湧いたのならば仕方のない事で、また人としての道理に彼女らが通るのならば、そうなって然るべきでもあった。
その場に残された彼らは「彼ら」の行いを、青いと思う。
それでも、二人が人の波を逆らって進むのはどこか。
自分の立つところは、往くところはどこか。
人の波に乗って北門や南門、予定通り東門へ進むべくか。
思うに人の道から外れた人間が今更に、人の振りをしてどこへ向かおうか。
人の行く途に逆らったのはある男だった。その行く様は誰に咎められることもなく、誰に認められることもない。往来の行く所はもう一つだった。誰も西に向かおうなどと言うものは居ない。
そこに逆行した人間が十二人いた事は、誰も覚えていない。
戦場では、戦ってはいけない。
元々暗殺を生業にする集団が、正面切って戦うなどと言うことを得意としてはしていない。真っ当に戦えばやはり職業軍人のそれに劣るのは明白なのだから、彼らは用いる戦術を一つとした。
歩くのである。
魔物の軍勢を相手に、まともに取り合えば明らかな不足である。人員も足りなく、練度も魔物を相手にするには不安である。前衛に置かれた四つ足の魔物は元は野生の獣だが、何らかの魔力に当てられて成る。知能は元の頃と変わりなく、戦っても獣と人の戦いと変わるところはない。問題は中衛に陣を取る四つ指である。
影姿は人と変わりなく、体高は成人男性より頭一つは大きい。筋骨は鍛えた人間のそれよりも遥かに強く、また得物を振り回す能力も持ち合わせる。戦略や戦術と言ったものには疎い様だが、この戦いではその限りではない。完全に居並ぶ姿は騎士の如く、人と変わりない知性と品格を映す。
件の四つ指と真っ向対峙出来るのはおそらく勝ち馬たる軍閥の正規兵だけである。それもよほどの腕利きでもなければ一対一で当たることは出来ない。
後衛に至っては破城の魔獣などというモノは無視でよい。鈍重で当てさえすれば雑兵でも狩れる程度の魔獣である。問題はそれが城門や城壁に到達する事だが、既に破砕された西門がある以上、魔獣など優先目標とならない。
一団が取るべきは大将首である。もとより他に道はない。真っ向から戦って勝てるのは前衛に配された四つ足の魔物だけで、他には太刀打ちできるだけの力を持つ者は十二人の内三人ほどだ。他は主に偵察や暗器使い、偽装や変装を主にする者ばかりで内政を崩すための人選だった。
最低限身を守るだけの戦闘能力は心得ているが、戦場で永らえるだけの余力はない。
故に、歩くことにした。歩くのは混乱する中央。最も大将首に近い真正面である。そこから前衛、中衛、後衛の陣をかいくぐり大将たる赤銅のオウに至る。
順路は一つ、至る道は目に見えていて、歩くには辛辣なものである。
前衛同士がぶつかり合い、双方討ち漏らした先駆けを中衛が止める。
黄土のくれがあらゆる方向へ蹂躙され、徐々に砂のように細切れてゆく。僅かな水を蓄えた黄土は踏み固められ、水分が抜けきると崩れて砂のように微細となる。
焼成すれば乳白色の煉瓦になり、粘土質の黄土は色を増して絹鼠の色をした陶器になる。大陸を越えれば高価な品に化ける大地も、生きて踏めねば意味はない。
踏みしだいた地面に在るだけの感謝を示しつつ、皆は己が居場所のために世界に無礼を示す。
四つ足が飛び退いた地面に両刃の切っ先が刺さる。四つ足はその一瞬を捉え、手首に迫る。一撃を狙うのは下策であり、確実に戦闘力を削り、失血や負傷の痛みで動きを鈍らせ、抵抗力を削いだ上で詰める。戦い方は人間も獣も変わりない。獣でも集団で獲物を狩る能力を有し、人も技術という方法で体現する。
切っ先を黄土に埋め、翻すのは技。埋まっていた切っ先は昼の光を照り返し、四つ足の眼を奪う。一寸の怯みは相応の後悔を生む。魔物に後悔するだけの知能が有れば、の話だが。返す刃に、横に薙ぐ軌道は魔物の目にはもう見えたろう。それが魔物自身の終わりだと気がついた頃には、胴から首が離れていた。
真っ向から戦端を担う兵士達の練度には酷く差がある。勇み足で抜きんでた若者は目の前に迫った四つ足に竦み、十二分に訓練と修練を積んだ青年は教則の通り事を運ぶ。老齢な騎士は衰えた力の替わりに経験則と実戦で磨き上げた技を用い、粋がったならず者の男は四つ足の魔物に真っ向に戦う事は能わず、土塊に汚れた。
年齢通り若い者が等しく練度が低いと言うわけではない。街にも人間とは色模様を生む。普遍である人生などただ一度もなく、生きるために戦う者や名声のために戦う者を生むこともまた、ただの『普遍』である事は誰にも否定できない。
時が経つにつれて戦況に色が付いてくる。物理的に鮮血が辺り一面に色を付け始めた事も確かだが、明確に優劣が両陣営に現れる。第1波である前衛同士の戦闘では人間が優位に事を運んだのだが、中衛たる四つ指の存在は大きいモノがあった。
四つ足の魔物では前衛としては心許ない事を魔物達は理解していて、それ自体を戦術に織り込んでいる様で、中衛に到達する人間は真っ向から四つ指の巨躯と対峙する。
四つ指との対峙には真っ向から戦える人間は少なであり、先行した人間は四つ指と対峙する際は二、三人を基本として囲むように戦っている。だが三人ないし二人という数も夢のような理想論に過ぎない。人間側の団結力は魔物ほど「崇高」ではない。自分たちと相容れぬ陣営の者とは組もうとせず、中衛まで抜けてきた者は同じ志を持つ者とは限らない。
四つ指の禍物に一人対峙しても誰もそれを手伝ったりはしない。無論相対できる人間など限られていて、そこに乱戦模様である。如何に軽く抜ける前衛であってもそれを軽んじてはならない。
相手方が何を戦略の本質としているのか、それを見誤ってはならず、そして見誤ることは術中という悪手を選ぶ、賽を投げぬ神の手に見放されるという事である。
人間の見誤りはいくつもある。前衛に四つ足の魔物が配置されていたのはただの偶然でも、指揮官の気紛れでもない。
この戦場を優位に、盤上を支配するのは彼だ。
練度の低い兵でもある程度敵う相手が前衛戦で当たる。腕に覚えがあるのなら難はなく、多少心なくとも狩れるのだから彼らの『軍』に優越を感じてしまうのは致し方ない。
だが進んだ先には必ずあの四つ指が待ち受ける。
乱戦状態の黄土野には明確な壁が存在した。中衛のそこが戦略の要である。足を止められた人間はとてつもない恐怖を得る。まともに立ち会えば抗う術はなく、集団で戦おうにも乱戦中には容易ではない。『味方』を見つける難しさ、すり抜けかわしてきたはずの、足の速い四つ足の魔物は明確に背後から人の恐怖する隙に付け入る。
優越感を与えた後、恐怖に竦み、怯える人間は優越感を得たはずの相手に食い殺される。
人間同士がいがみ合うこともこの戦場には織り込んでいる。当然、城壁が修繕されないこともそうであり、だからこそ敢えて破城の魔獣を八体も揃えたのだろう。
ある程度の識者であれば破城の魔獣など一体として必要ではないと解る。それでも一般の兵卒程度であれば十分に恐怖の対象であり、更に、背にバケガラスという死肉を漁る魔鳥を四羽ずつ、計三十二羽もの数を集めたのもその為だろう。戦場で死ねば弔いなどさせじとの明確な意思表示に他ならず、生きた人間も襲うことは少なくない、空からの不幸である。
完全に盤上は彼の手のひらの上だ。
赤銅のオウ、の。
盤上の不利を返すには、無謀は必要ない。
必要なのは、一つ。
無理だけだ。
遊戯であれば、盤上に並べられる駒は決まっている。
数も種類も、殆どの場合は同じ数だけ盤上に並べ、互いに知恵を競う。
だが実戦において最も重要なのは、同じだけの数を揃えた盤上で行われる知恵比べではない。事前に盤上へ置く駒の数を削ぎ合う知恵比べである。
人間はこの盤上で既に敗北を得ている。本来連携など行わない魔物同士が互いの領分を弁え、互いの不足を補う。
対して人間は与えられた盤上に、盤外の事情を持ち込み、最初から不利な位置に己を置いて道化を演じている。
初めから完成した「詰め」の盤上において、人間が多くを得ることは出来ない。
初めからの不利は壁上より承知である。
彼が人間の不和を戦場に組み込めるだけの慧眼を有しているのなら、ますますもって人間に勝ち目など初めから無い。人心を掌握し、人の生業を見る眼があるのならばそれはもう『王』であるに相応しく。また人知を越え、神代より何者もを超越するのなら『皇』と呼ばれて差し支えない。
為政とはこう振るわれるべきであると、彼の身を持って示す姿を見て人の身である王達が襟を正すならばこういった事態は早々起こりえないだろう。
万難を排する能力に欠いた人間は、必ずやあのオウに蹂躙される。
盤上に配した駒がオウの思い描くとおりに双方布陣しているのならば、そこにあるはずのない駒が紛れ込めばどうだろうか。程度はあれ、戦術に柔軟性を持たせて対応される可能性もあるが魔物の衆であれば一団でもなんとかなるという見立てが団内では優勢だった。
暗殺に魔物が含まれる事はない。それでも仕事上、移動の度に遭遇戦を行う事もある。十五人、今や十二人の内三人はそれなりに手練れである。移動時の遭遇戦であれば三名で大概は事足り、手間取るようであれば他九人も援護に回ることも可能である。
一団の優位性は戦闘自体よりも、前衛に配された四つ足の魔物をやり過ごす方法にある。元々狼や野犬、猪の類から生まれる四つ足の魔物は習性自体には変わりない。嗅覚や聴覚に由来するものが人間より鋭敏で、原野で生きる獣たちは代々戦いの中で戦術を得てきた。
その中でも敵意や殺気などと言った第六感による「気取り」は人間を凌駕する。
戦場という本来ならば人間だけが立ちうる場所に、四つ足の魔物が居る。それは普段とは違い常に殺意と怒気を受け、食うために狩る戦いではなく別の種と共闘を敷いている。
四つ足は戦場で当てられるあらゆる感覚に鋭敏になり、それに注力を尽くしていれば自ずと他へは散漫になる。だからこそ逆に平常心を持てばヤツラの、魔物の攻撃優先からはずれてしまう。
習性を利用出来るのは何も一団の者だけではない。事実、歴戦の戦士や討伐に駆り出された賞金稼ぎの小隊は悠々と脇を抜けて中衛に当たっている。数人であっても十二分に四つ指の禍物と対峙できるだけの力量を有し、中衛に至るという目的だけではない彼らには周りという状況がよく見えている。
抜け出た先駆けが真っ向に四つ指を捕らえる。正面に構えた人間を見た端から木っ端にせんと持ち上げた鉄の棒を振り抜いた瞬間、脇の間より俊足の手が入る。浅い切り込みを与えたように見えるのは素人目であり、確実に四肢の動きを鈍らせる為の戦術である。一撃で相手を黙らせる事に拘らずに三人ないし、二人で取り掛かる。
手練れであるが、その数少なである彼らが大局に及ぼす影響など微々たるモノである。
駒を動かす皇の手はその隙間を埋めるべく駒を配置し直す。その手の早さもさることながら、中衛を壁として手練れである要所を封殺してゆく。無論簡単に倒れる彼らでもなく、劣勢の中で突破口を模索して必殺から消耗を与える戦術へと移行する。
四つ指が彼らを取り囲み、四つ足が縫うように隙を穿つ。それでも見事なまでに消耗を抑えて、効果的に敵方への損傷を与え続けて行く。だがそれは一部に釘付けにしただけであり、根本的な解決にはならない。
陣形に薄い点がない。面が幾重にも織りなすように中衛は常に強力な封殺陣として機能する様に織り込まれ、封殺が完成すれば前衛に居た魔物が止める。
一団は難なく抜け出た先で、多分に漏れず中衛に、四つ指の禍物に相対を余儀なくされていた。対するのは三人、世にも珍しい片刃の湾曲刀。湾曲は鉤鉈のようで内に刃が付いた鉄塊のような刀を持つ男を筆頭とし。鋳型鋳造、両刃の汎用剣を携える女。細身の剣を腰に提げた青年の三人。
一団の前衛は以上。他は中衛と後衛。
真正面に四つ指を受けたのは珍しい片刃剣の男。四つ指の振るう得物は一合で重く、並の男ならば受けきる前に腕の腱が逝く。それを二度、三度と真っ向に受けても彼の腕には何の不自由もない。それよりも四つ指の禍物の振り抜きに明確な感情が見える。
止められたという事実に、禍物が明確な驚きと苛立ちを見せた。その色は実を伴って鉄の棒きれのように成り下がった両刃の大剣を軽々と片手で振るって現れる。
焦り、苛立ち、悔しさ、焦り、悔しさ、苛立ち。
何度も振るわれるそれに、受けている彼はあらゆる感情の起伏が内包されている事に安堵した。何の起伏もなく、一辺倒に振るわれる得物の恐怖感はその身を持って知っている。考えている事が解らない相手ほど手の先を読むことが難しい。それは今の盤上に立つ身の上をもって証明されている事実であるように、次手を読むには感情が必要である。
盤上の駒を動かすその皇の手に、感情の類は見られない。
一団で最も戦術に長けた、老齢に差し掛かろうかという元王国騎兵の男が、大局の情を見て色めいていないと言うのだから間違いなくそうなのだ。
片刃剣の男が受けた一撃に、間合いを詰めるのは女剣士。四つ指の禍物は足の健を安い両刃の剣で裂かれ、否応にも天を仰いだ。後頭部を黄土に打ち付けるとき、中衛、後衛に配置された者達に止めを打たれる。
それを簡単に許す皇ではない。一つ詰められては二つという駒の置き方はしない。一つ詰められたのなら、その手は必ず止めを打つために注力を惜しまない。
極力存在感を希薄に保ったはずの一団の前に、六体もが詰め寄る。あらゆる局地戦までも的確に詰めさせる陣形は一団の許容を越えるものである。戦闘に重きを置ける三人とは違い、子供と老人まで含む他九人は直接戦闘に長けている訳ではない。
だからこそ、
「跳べっ」
言葉を押しつけにしたのは九人の内の一人、過去王国に仕えた騎兵。直下に法術の陣、黄土の礫を一瞬に液状化し、足下を浚う。本来は遠隔地への足止めや迂回させる目的で展開する。跳び退き遅れた二人と法術を用いた術者、六体の四つ指がそこに囚われる。足に絡みついた粘性の黄土は底なしに三人と六体を腰の辺りまで飲み込んでしまう。
四つ指は力任せに抜け出ようとするものの、地面に飲まれた時点で簡単に抜け出す手だてはない。一度捕らえた対象をその場に留める法術であり、術者が死なない限り捕らえ続ける効果は持続する。
「行けっ」
飲まれて残った一人は刃物の投擲を得意とし、的確に埋まった四つ指を無力化する。時間はかかるが、そんなものは問題ではない。
三人を残し、一団は中衛を越える。
同様に手練れたる他部隊もいくつかが突破し始め、大将首へと向かう。どの部隊も教則に則った集団戦で中衛を越えてくる。その技量には疑う余地はなく、十二分に練度の高い集団である。
だが皇の陣に穴はない。中衛の遊撃要員を即時再編、一個隊四つ指の禍物五体、六匹の四つ足で追撃してくる。
皇の陣形は乱れ始めたものの、都市防衛側の不利に違いなく、既に四割ほど削がれた。ただの戦ならば敗走であるが、敗走する先はない。部隊はおろか全軍が圧壊、全滅したとしても引くことは出来ない。
様相は乱戦から混沌へと昇華した。泥仕合もまだ優しく、血で血を洗うなどと言う言葉もまだ浅い。血液で氷筍の様な塔でも築きたいのかと見まがうような累々の重なり合いが生まれ始め、総力戦と成り果てた。
後衛に陣取っていた破城の魔獣も混沌の中に踏み入り、敵味方の別なく踏み砕き始める。そこに慈悲はない。下は黄土とは言え重量のある足は人だろうが四つ指、四つ足だろうが踏み砕く。固形物が軋みを上げ、液化物が弾けるような音が耳に付く。
少ない騎兵が恐れに落馬を始め、逃げ出した馬が戦場の直中で四つ指に殴殺される。
陣形の乱れと破城の魔獣の歩みが乱雑で、天にバケガラスが舞ってこの世の終わりが近づいてくる。
踏みしめた乾燥した黄土は鮮血で粘性を持ち始め、それを倒れた何かが啜る。
魔物達は統制されているのか、それともこれも皇の戦羅略的方策なのか。陣形を失って、更に状況は悪化した。支配したのはただの狂気であり、そこに戦略や戦術という意図が全く見えなくなった。
気がつけば皇の姿がない。身の丈は城壁と同じほどに大きい石の巨人が唐突に消えたのである。それに気がついている者も居るだろうが、ただ大勢に影響がないと考える者ばかりであり、自身の身を守る事を優先していてそれを探そうとは思う者は居ない。
一団には三人欠いて九人が残っていたが、乱戦中で更に二人はぐれた。破城の魔獣進路上より退避するために散開したのだが、二人戻ってこなかった。
戦中において気が触れる事などままある事で、魔物に殺されたのか狂った人間に斃されたのか解ったものではない。逃げたとしても一団にはもう彼らに意味はない。
居なくなった人間を慮るなど無意味である。七人は見失った皇の姿を探し、目的だけを達成する事を心より願望する。
全くの空虚である。その願いは全くの虚ろ。空しい事この上のない願いである。
眼に光のない人間が立っている。陽炎の様に揺らめく姿に、それも目に映る虚構ではないのかと疑心に駆られる。だがそれに近寄る何かの影は見境無く切り捨てられ、またそれは他の何かに斃される。
何もかも無用な世界が目に映った。
七人してその荒涼とした世界を見て何も思わなかった。
荒んでいるのは世界の方ではなく、自分たちの心の方であると理解するのに時間は必要ない。そもそも人も魔物も大差など無い、生きるために何かを殺すことは当然である。意味のない殺傷など顧みればいくらでもあろう。幼子が何の理解もなく動物を無碍に扱う事も含めれば限りなく、大人になろうとも飛び回る羽虫を無意識に手で払いのける事もそうだ。
生きているモノに興味など、無い。死に行くモノに興味など、無い。
主戦場たる中央から外れ、外縁にまで皇の姿を探し歩いた。見つかるのは戦う意志を失った人間、負傷して己の身を守ることに専念し始めた四つ足、主を失って胡乱な眼で立ちつくすだけの四つ指。
眼に映る全てが絵画のように見える。そこに停滞するモノは何もかもが朧気な輪郭で、移ろうた戦域は城壁側に寄りつつある。破城の魔獣が踏みしめた数だけ血液を含む黄土の粉塵が巻き起こり、辺りは赤まだらな黄砂の雲海が流れ始める。
砂塵の舞う世界に手を伸ばし、今また彼は手探りに皇を求める。続くのは他に三人。一団には七人が居たものの、後の三人は既に動けるだけの余力はない。今から入れたとしてもたちどころに砂に体力を削られるだろう。彼らには遠望より一団の末でも案じてくれればよい。
もう彼らと会うこともないだろう。戦う術があるのならまだしも、能力に欠いたのならば足手まといである。彼らも四人の邪魔立てをするほど愚かではなく、これに懸命する意味もない。
ただ一団の本隊に戻り、ここに留まる者を「損失」という報告で済ませるだけだ。
砂塵の中を進むのは男二人、女二人。歩いている破城の魔獣はその歩みを鈍らせることなく城壁へと向かう。その様は目的を得た歩みではなく、魔獣自身にも苦渋を強いるような、巡礼にも似た歩みである。八体もの破城の魔獣が一つ処に歩みを寄せていて、それは円形の陣を組んでいる。踏み荒らす礫は必ず砂塵となって宙を舞う。円形に陣を組んだのは中央にそれが居るからだ。
赤銅の皇。
確かに赤銅色の巨石を組み上げた人の形。だが彼が真にシャクドウのオウと呼ばれるのは、常に赤銅色で世界を染める事に由来するのだと見る者全ての目と心を奪う。
破城の魔獣の陣内に居る人間はその異様に全てを止める。絶対の統制から外れてしまった四つ足も四つ指も、皇には既に転がった路傍の石と変わりない。足蹴にされようとも、ヤツらには抗う術など無い。
彼の行軍に意味はない。見て得たのはその感想だけだ。
体中にまとわりつく粘性の砂塵を歩き、死を窺う四つ指の手を薙ぎ払い、一団は行く。彼らは走ることはせず、今まで通り歩いて中央へ向かう。
彼らの見誤りは戦術的誤算ではなく、戦略的誤算である。
陣形を擁し、前衛、中衛、後衛と戦略性を重んじた展開を見ていた。だがそれは全てが無用である。もっと簡単に考えればよい。
彼自身が要塞のような存在であり、破城を成す究極の軍である存在であるならば四つ足も、四つ指もそも必要がない。戦場に砂塵の帳を生む為に破城の魔獣を従わせているのならそれすらも必要はない。
だが、皇は陣を敷いた。そこに四つ足も、四つ指も、破城の魔獣も、バケガラスまでも用意した。人間が戦わねばならかったのは唯一、あの赤銅の皇である。
城壁の上から法術の陣を敷き、城壁を盾に人間は耐えるべきだった。
それが城壁の内を守るための最大の手段だった。どれだけ魔物に流入されたとしても反対の城門から皆逃げ出れば良かった。どれだけ国を蹂躙されたとしても、人命に替える財などこの国には無いはずだった。
それがこの惨状である。
見かけこそ軍だが、集められたのは皇に強制されただけの「羊」に過ぎないと言うことだ。それは赤銅の皇による最大の武器であり、最大の虚像だった。
これ以上の侵攻は阻止しなければならない。
先行したのは男一人、女一人。細剣を持った男は生き急ぐように皇への進路を取り、続く両刃の鋳造剣を携えた女は毀れた剣を捨て、近場に転がっていた同じ型の剣を代わりに拾って追う。
男の方は先日まで子供扱いされ、重要な話し合いや任務からは外される身分だった。それが入信の儀式を経たその次の日、見知った街が皇の圧力を受けて義憤に駆られ、彼はこの場所で「身を立てる」事を選んだのだ。
それを青いと思うのだ。
先を行く若者を見ながら、一人、後に控える彼女のために道を開く男が三人目として続く。戦えもしない、小娘を青臭いそれの為に連れ立って歩く。
下半身が不自由になったそれが足下にまとわりついてくる。それを湾曲剣で払いのけ、道を造り進む。形がなんであれ、一瞬でも躊躇ってはならない。逡巡は死に繋がる戦場で用いるのは武力であり、温情ではない。
後ろを付いてくる彼女はそれを見ても心を揺らすことはない。それを強いてきたのは一団であるし、案内役として彼女を先導している男もその洗脳に荷担してきた。それを後悔するような人間は一団には居ない。それでも、覚えてはいるのだ。
皆、思うのだろう。まだ、青いのだろう、と。
細剣が折れず、一瞬にして四つ足の魔物を貫き、また折れずしてそこから払うように串から投げ飛ばす。折れやすい細剣だが、彼の用いる技は極限まで柔軟性を持ち合わせるものであり、刺突の一撃は必殺に違いない。
砂塵が舞う中に、流れる風が見える。薙ぐような風は弱くとも、突くような風は岩をも穿とうかという勢いである。それは一陣の青い風であり、彼の存在は戦場に吹き抜けた突風のようである。それでも砂塵の舞う中では一瞬巻き起こる程度の些事に過ぎない。
彼が如何に将来有望たる人間だとしても、それは蛮勇を振るって良い免状とはならない。
疾風が怒濤であるならば、大山は悠然である。彼の思いの丈がどれだけ清廉であろうと、彼の皇へと至るには、惜しい。
操るのは細剣だが、彼が振るう剣は折れたりはしない。修練の途中に何度折ったのか覚えてはいないが、後ろに従う男にはそれが一団の憧憬に見えた。
赤子の粗相を片付けて歩くように汎用剣を取り替えつつ、女が青い子供の尻を拭ってやる様に背中を守ってやる。
辺りに居るのは魔物だけでなく、人間だったモノも居る。もう見る全てが味方ではない。彼らが今切り伏せているのは、はてどちらだっただろうか。崩れて行く姿は人であり、また獣のようでもある。彼らは敵味方の別が朦朧とした場所で数すくなに、それを切り伏せ、押し通る。
だが、男が彼らの姿を砂塵の中に見失ったとき。剣戟の音が止んだ。
歩く度に砂塵は目の当たりを色濃くし、擦り切れた噴血で煙っている。
音が聞こえなくなったのは、競っているからか。一瞬そう考えたものの、すぐにその幻想を振り払う。否である、否応なく、否である。
競るような正気を保っているのなら今立ち向かうべきは一団ではない。既に皇の統制から離れた魔物に襲われているとは考えにくく、気の振れた人間に襲われてる事も考えた。
それら全ての前提が否である。
一間、砂塵の中に垣間見た光景は少女を連れ立った男の目を見開かせるには十分だった。
「リディア」
青臭い青年の背を追って彼の尻を拭うように連れ立った女が、その彼を、青年を刺していた。もちろん手には拾った安物の鋳造剣を持ち、伝う血液にその手を汚し、何の感情もなくただ青年の背を穿っていた。その切っ先は肺にまで達し、流れ出る。
息をすれば口から鮮血を噴き出し、喉につかえた血を不快に感じて息を止めれば肺に溜まる。血液の行方は開けられた穴の方で、肋骨をすり抜けて入れられた金属に伝い、体から出て行く。
その穿つ彼女には一切の余念はない。気が触れた訳でもなく、自棄として現れた行動ではない。ただ、元々こうすると決めて居たに違いない。
男に久方ぶりに名を呼ばれ、追い来る方を見やる。彼女にはそれが普遍である姿で、男には彼女の有様が何ら変わりなく見えた。何一つ、当たり前だと言わんばかりの光景だった。
「どうして」
それに異を唱えたのは男の後ろから付き従った少女である。年の頃は刺された青年と変わりなく、数年の違いはあったが同じ頃から一団に寄与している。彼女は青年が後ろから刺された事に一切の理解が及ばなかった。
一団の掟として、許可無く抜けることを良しとしない。抜けた者を必ず仕留める事を求められる。十一人が彼を追ったとき、彼の思惑を汲んだ人間と一団の思惑を汲んだ人間が居ただけの事だ。
「どうして? このあたしが何か間違えたことをしたのか」
一団にいる人間として何一つ間違った行いはしていない。それでも、彼女を突き動かすだけの動力たる言葉には違いなかった。
男の脇を抜け、小走りに青年と女の元へ彼女が向かう。明確な敵意を向けられ、明確な殺意が見えるのにも関わらず、女は、リディアは彼女を見つめたまま微動だにしなかった。
「――」
少女が踏みつけたのは青年が流す血溜まりで、ぬかるんだ足下の不確かさも彼女には揺るぎない心の在り方を示す事となる。
外套の袖から短剣を滑るように出すと、ほんの一瞬の、瞳に恐怖が宿る刹那だけを与え、彼女はリディアの喉元を突いた。
一瞬の隙などリディアには余暇と変わらないだろうに、それを避けることはなかった。狙い通り首の筋を柔らかに刺し、血の通う道を裂いて進んだ。
目の前で行われる光景に驚いたのは少女の方で、力量の差からしてこれは最低の仇討ちであると自戒していたにも関わらず、目の当たりにしたのはリディアという一団中でも一目置かれる剣士の最後だった。
少女には何故死んで行くのか皆目見当も付かなかった上、憎むでもなく恨むでもない眼差しをしたリディアが力なく崩れて行く姿に思考が停止した。
「あの、わたし。わたし……」
リディアの刺殺を支えに立っていた青年は共に倒れ、うつ伏せに血を吐き続ける。なにをどう足掻いても死ぬことは避け難く、喉元を突き斬られたリディアは天を仰いで血溜まりに倒れている。
男はその始終を離れて捉え、歩んで辿り着いた頃には二人は絶命していた。
リディアの一撃は見事に背中から刺し穿ち、肺まで到達して必殺である。肋に遮られる事無く、十二分に技量を示す一閃に違いない。
そのリディアが喉元を斬られ、天を仰ぎながら微笑んで死んでいた。
砂塵は二人の死を偽装して行く。赤い血が酸化して黒くなって行くに合わせ、黄土の砂が二人を塗り替えて行く。血液で濡れた肌に張り付いた砂が舞い降りる砂を呼び込むように埋もれて行く。
「わたしは、わたしは――」
男の目に映る姿は少女一人になったが、彼女はリディアの血に濡れた短剣を自分の喉元に当てて整わぬ息のまま、意味を成す言葉を吐けずに竦んでいた。
リディアを姉のように慕っていた彼女は、自らの行いに整合性のある回答を持ち合わせていないのだろう。一団の教えの通り人を殺すことに何の躊躇もなかったのは男の目から見ていての評であり、彼女は人間らしく逡巡した。
殺してはいけない家族である事を肯定し、青年の仇であるという一団の不合理を持った彼女は混乱を極めた。
自らの首に刃を当てる彼女を男は引き留める様な事はせず、彼女を二人の元に残し、砂塵の中に消えた。
その歩みは残っている。
破城の魔獣が作り上げた砂塵の壁を抜けると、そこには見上げるほど大きな石の人が歩みを進めている。周りには薄い砂塵を避けて這い出てきた魔物や人間の姿がある。五体満足な魔物達は人間を襲うことを止めないが、人間は這い出た先で皇の姿に皆、諦めを覚える。
だが男の歩みは止まらず、皇の進路を塞ぐように歩んだ。
皇はあまりにも歩みが遅く、先に姿を見失った様な急性さは無い。それでも一歩ごとに進む幅は人のそれより遥かに大きく、男は逃がさぬように向かう。
容易に辺り一面の人や魔物をすり潰すだけの巨体を持ちうるが、皇の身の振りは鷹揚であり戦場に身を置いた大将格とはほど遠いものである。それは彼の皇の余裕か、慢心か。はたまた落涙を知らぬ身の上に、己が哀れを憂いたものか。
彼の歩みはやはり巡礼に近い。従えた破城の魔獣共々、人間の作り上げた壁に向かう信徒のように遅々とした歩みをする。
その歩みが止まるとき、あらゆる砂塵が行く先を失って墜ち始めた。破城の魔獣、皇、共々に歩みを止め、眼下に人の子を見る。
紫紅の瞳が正面眼下に、人の子を捉えて止まるなど何の気紛れか。
「オウよ、一つ問いたい。お前の先に、何がある」
止まったのが気紛れなら、止めたのも気紛れに相違ない。男には、思うに戦う意志など持ち合わせず、ただ彼の皇に問うてみたくなった。
これで伽以外に生きてるとでも答えて貰えば、文句無しに彼は人生を終えられたろう。
皇の答えは一つの躊躇いなく、巨大な手で男を打ち払わんとする事だけだった。
振り抜かれた手は空を掴む。その内に人の姿はなく、一枚岩の様な巨大な赤銅の煉瓦は望外に削られている。
男の持っていた剣、内に湾曲したそれは正確には剣ではなく刀。ただ薄い棟などとは縁遠く、反りの内に刃を付けた肉厚の刀は斬馬の刀。重い刀身は遠心力を掛けて馬の足を叩ききる為のもの。使うには相応に修練を積まねば刀に振られる。
そんな難儀する業物を軽々と携えて一撃を巨岩に振るった。無論岩のように硬い煉瓦は叩ききれるような事はなかったものの、重量、遠心力分だけ表面の赤銅を削いだ。
刀身は堅牢であり、刃は若干こぼれたものの手応えに十二分に通用するものを得た。切り伏せる振り方では刃が後数合で砕ける。それを引き斬る様に煉瓦造りを剥離させれば良いのだと理解した。
過ぎ去った腕の振りに風が巻く。軽い砂は舞い、濡れた土塊は寸間浮いて地に伏せる。周りにある何かの亡骸は形を留める事を許されず、血液を延ばした様な跡にすげ変わってしまう。
一撃をその身に貰えば終わる。
男の持つ湾曲刀で彼の皇を仕留めるにはあまりにも無謀だった。まず岩のような煉瓦造りと戦う事が無謀で、煉瓦を剥離させた所で何をすれば皇が死ぬのか解らない。それでも男は皇の手から命を延べ、直下に迫る。
すくと二つ足で立つ様は人のようだが、それにはあまりにも貧弱な足である。一つが岩のような煉瓦だが、男にはそれを支えるにはいささか心許ない様に見えるのだ。削るのなら最も効果的に与えられる場所だった。
それは皇も承知している様で、足下に入られる前に後ろへ飛び退いた。巨体が跳ぶ様に簡単を禁じ得ず、そして着地の衝撃は砂塵と地を揺らすものとなって現れる。砂の帳を巧みに扱う皇へ迫るには、それは分厚い盾である。
皇の姿を見失ってほんの瞬きを三度、砂舞う中で瞬きを堪えることなど生き物には耐え難く、その時間は十分に皇の攻め時となる。
気付けば直上、黄土の影に黒い帳。思う間もなく男の体は活路に至る。
それでもその振るわれた直上より煉瓦造の左手掌打に男は左肩を掠め、脱臼する。脱臼などありふれた傷痍であり、男の数えきれぬ傷病の内に幾度もあった。だがそこは皇の御前である。動かなくなった腕を提げたまま、縦から横に変わった手の軌道を躱すにはあまりにも重い枷となる。
抜けた腕など入れる暇など無く、駆け抜け、右の腕一本で岩の手首を削いでやるものの、両手で振るわれる一撃には遥かに劣る。浅い切り傷のような溝を掘った程度で、男はその戦功に一瞥もなく皇の足下へと駆けた。
足下は皇の飛び退いた衝撃で波打ったように荒れ、赤斑の黄土にはここにいる全ての咎がうずまっている。引くことなど既に叶わず、克つことなどげに能わず。
紫紅の瞳だけが、砂煙の中に浮かぶ。
それより先、男の姿は誰にも見えることはなかった。