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錯誤

【錯誤】


 1


 目を開いた。

 眩いほどの真っ白な空間にいた。床も壁も天井もない、見渡すかぎりどこまでも続いていそうな幻想的でもある空間に、俺はポツリといた。

 右手を伸ばし、人差し指をたてた。

 こずえ、という文字が宙に浮かんだ。続けてコズエと書いてみた。ふたつはゆらゆらと並んで浮いている。でもタクヤという文字だけは、何度書いても宙に描くことができなかった。俺は首を傾げていた。

「ここは・・・一体」

 上空を見まわすようにきょろきょろしながら歩いてみた。床が見えないのに、床を感じる。走ってみた。走れた。座ってみた。やっぱり座れる。言葉にできないほどの不思議な空間だった。

(ここが、どこだかわかる?)

「真っ白い・・・」

 俺は言葉に詰まり、さっきとは逆に首を倒した。

(そう、それでいいよ)

「帰りたいな」

(どこに?)

「家に」

(ここにいれば、ずっと)

「それもいいかもな。でも布団で寝たい」

(ここはいいよ、無になれる)

「腹減ったな」

(有り得ないよ)

「ビール飲みたいな」

(それもないな)

「じゃ何があるっていうんだよ」

(過去の記憶)

「それだけ?未来は」

(ないでしょ)

「じゃ現実は?」

(あるわけないよ。そんなもの)

「俺は誰?」

(君はタクヤだよ。それに変わりはない)

「変わりないって?」

(理解しなくていいんだよ、無理に。君はキミなんだから)

「ここはどこなの?」

(知りたいの?)

「うん、まあ」

(知ってどうするの)

「知るくらいはいいじゃないか」

(今までも、知らなくていいことを知ってしまったよね。何度も何度も)

「こずえちゃんとコズエ、そして梢のことと・・・あとは両親のこと」

(また知りたがるの)

「これは自分のことだから」

(また同じことを繰り返すわけ?)

「自分のことだもんいいじゃないか」

(そうだよね、自分のことだよね)

「そうだよ。だから・・・」

(そう、いつもそうだったよね)

「は、早く」

(こずえちゃんのことにしても、コズエのことにしても、梢にしてもだ)

「何がいいたい?」

(結局は、自分だったよね)

「いや、俺はこずえちゃんもコズエも梢も愛していたよ。心から」

(心から愛していたんだよね。彼女らを愛している自分のことを)

「違うよ。彼女たちを、だよ」

(彼女らを愛することにより、自分の存在を確かめていたよね)

「俺が、彼女たちを愛していたんだよ」

(逆だよ)

「違うよ。逆じゃない」

(居場所が欲しかったんだよね。奪われてしまった自分の居場所を)

「違うよ。勝手なことをいうな」

(いじめや虐待を受け居場所を失ったキミに、希望を与えてくれたのがこずえちゃんだった)

「そうだよ。こずえちゃんが俺を救ってくれたんだ」

(同一人物だった)

「そう、結局同じ女性を愛していたんだ」

(彼女は自分自身を犠牲にし、キミに尽くしてくれた。生涯を費やしてね)

「・・・うん」

(キミに利用されたんだ)

「利用なんてしてないよ」

(いいんだよ。なぜなら彼女がそれを望んでしたことだから)

「こ、こずえちゃん」

(そう、結局はこずえだった。キミが作り上げたんだよ、コズエは)

「ごめんね、コズエ」

(変わったのはキミ自信だった)

「・・・」

(変わったというか繕ったんだ。もうひとりの自分で)

「もうひとりのオレ・・・で」

(すべてキミ自信が選択したことなんだよ)

 気が付くと、俺の周りを巨大な鏡が取り囲むように立っていた。右を見ても左を向いても、後ろにも俺が映っている。

(見てみなよ・・・背中を)

 ゆっくりと振り返り、上着をめくった。ゆっくりと過去を思い出しながら。

(ないね)

 俺は目を疑った。

(背中の傷が)

 肩から脇腹辺りにかけて、斬り裂かれたような傷跡があったはず。なぜか跡形もなく消えていた。

「紅い傷が・・・」

 忌わしき傷跡が、KOZUEたちの瞳に焼きついた紅い月の形をした傷跡が、まっさらにないのだ。

(もう、わかったでしょ)

「えっ?」

(まあ、そのうちわかるよ)

 背中の傷はなぜ消えてしまったのか。肩をぎゅうっと絞めつけられるような窮屈さを感じていた。過去を蝕まれた、そんな淋しさと共に突然俺の胸を不安が襲ってきた。

 どこまでも続く無の空間に俺は独り、小さく蹲り肩を竦めていた。


 2


「こずえ、そろそろ時間だよ」

 階段の下からお母さんの声が聞こえた。私は急いで着替えを続けた。

 晴れ渡る空。今日はとても清々しい一日になりそうな気がした。

「今日は、奇麗な夕日が見れそうだね・・・」

 あの日の夕日を、心に残る奇麗な夕日を思い出していた。

 階段を足早に降り、居間のドアを勢いよく開けた。お母さんは背中のファスナーに手が届かず、やきもきしていた。

「こずえ、ちょっとこれ上げてよ」

 眉間に寄った皺には触れず、はいはい、と笑いながら私は背中のファスナーを上げてあげた。

 玄関のチャイムが鳴った。親戚のおじさんが私たちを迎えにきてくれたんだ。お母さんは家の鍵をそそくさと閉め、道路に横付けされた黒塗りのセダンに乗り込んだ。

「何やってるの、こずえ。早く乗りなさい」

 私は振り返り、家を見上げていた。

「もう、12年にもなるんだね」

 私たちと共に歳を重ねてきた家を眺め、時間が過ぎたんだな、と実感していた。

「こずえっ」

 お母さんの尖った声に引っ張られるように、私は車に乗り込んだ。

 景色が流れてゆく。普段は感じないことが今日は特別に感じた。見慣れた街並みなのに、何かが足りない気がしてならなかった。

(短すぎたね)

 最終的には皆、同じゴールに辿りつく。紆余曲折しながらも人生を感じ、戸惑い、笑い、悲しみ、感謝し、怒り、泣き、そうしてヒトは死んでゆく。ただ、それだけなんだ、と思った。長く生きようが早く死のうが、それ自体がこの世の倣いなのだから。

 だから、悲しまないと決めたのだ。あの日から。

 泣いても笑っても亡くなったヒトは帰ってこない、それならそのヒトの分まで笑って暮らそうと、生きていこうと思った。それが供養に繋がると。

 気が付くと車は、タイル張りの四角い建物の前で停まっていた。

「ほら、早く降りなさい」

 お母さんは朝から忙しない。いろいろやらなければいけないので、顔が少し強張っていた。

 黒づくめの人だかり。私とお母さんは何度も腰を曲げ、通り過ぎる人だかりに挨拶を繰り返した。

 案内されて席についた。一番前の席。

(こんなに、たくさん・・・)

 振り返ると溢れんばかりの人たちが椅子にすわり、雑談をしながら定刻を待っていた。

(こんなに時間が経ったというのに)

 私は見上げた。壇の中央に置いてある写真を。涙が一筋零れた。

(よかったね、独りじゃなかったね)

 長く生きるだけが幸せではない。いかに人の心の中に残っているかなんだと。その想いは人それぞれではあるけれど、いつまでも人の思い出の一部として、人生の一部として残っていくかなんだと。

(見てよ。こんなにたくさんの人たちの心の中に生きていたんだよ)

 二人で過ごした時間は短かったが、思い出はいい尽くせないだけあった。目を閉じた。今でも昨日のことのように思い出せる。

 無邪気な笑顔。

 手の泥で汚れたランニングシャツ。

 滑舌はよくなかったが、何度もなんども私の名前を呼んでくれた。

 水面をはじけ飛ぶ小石。

 振り返る自慢そうな笑顔。

 揺れる小さな肩。

 痣だらけの細い右腕。

 大きくて暖かい瞳。

 助けようとしてくれた小さな手のひら。

(たっくん・・・)

 私の大切な想い出。

 何よりも大切にしてきた私の宝物。

 線香の香りが漂ってきた。お坊さんのお経が始まった。場内は静寂に包まれていた。たまに聞こえる赤ちゃんの泣き声が妙に臨場感を増した。

 巡る記憶。甦る感情。

(早いもんだね、たっくん)

 もう一度、写真を見上げた。

 今日は、たっくんの十三回忌。双子の弟たっくんの。

 幸せになる権利。それは誰でも持っているもの。幸せな家庭。どこにでもありそうなもの。私の家族はそれになり損ねた希少な家族。弟は父に殺され、その父は今まだ刑務所にいる。血塗られた過去によって葬られた家族。どこでどう間違えれば、どこでどう間違えなければ私の家族はまともに、幸せに暮らせたのだろうか。


「ギャーーー」

 つんざいた悲鳴。

 染まり滲むランニングシャツ。

 心に刻まれた傷跡。瞳に焼きついた傷跡。それが・・・紅い月。

 運命の絆。愛した証。

 忌わしくなんかない。私とたっくんだけの絆、なんだから。

 私はいつも思い出した。傷を背負っていないたっくんを。傷つく前のたっくんを。


 3


 幼い心は何を思ったのか。

 淋しさの中に作った心の拠り所。


 肉体が滅び傷は癒えたのか。

 背中の傷と紅い月。


 亡くなった魂はどこへ向かうのか。

 夢と現実の狭間へと。


 彷徨った魂は何を求めた。

 魂を宿らせる肉体と自分への認識。


 でもそれは不可能だった。

 だから、ヒトの心に生き、ヒトの心を動かした。


 こずえちゃんは、こずえ姉ちゃん。

 どっちでもよかった傘の色。

 黒い影は、父への憎悪。

 昇る夕日は、諦めきれない明日への羨望。

 コズエは、愛の造形。

 首を絞めることによって補った欲求。

 将来の母親、欠けていた愛の形。

 梢は、暴かれたい本心。探してほしい自分の居場所。


 結局ヒトは独りでは生きられないということ。常にヒトに支えられ、ヒトに翻弄され続ける。天へと昇ってゆく途中に、たっくんが想ったこと。たっくんが望んでいたこと。たっくんが悔やんでいたこと。ヒトとして普通に生きる、ということだったのだ。

 結果がどうであれ、ヒトとして生まれ、ヒトとして死んでゆく。踏み躙られた自分の権利を、私に伝えたかったのだろう。託したのだろう。だから、私の心の中に宿ったのだ。私の心を動かし、自分の存在を主張したかったのだ。

 ヒトが生まれてくる理由。この広大な宇宙の地球という奇跡の星に、ヒトが存在し自己を主張し続ける理由。この星を破壊してまでも、ヒトがヒトとして生き続けようとしている理由。

 答えは簡単だ。

 自分の意見や存在を他人に認めてもらうこと、それが生命というもの。他人に認められなければ、無と同じだから。

 資源を費やしながら、火は火でいられる。炎にもなれる。ヒトも同じだ。何かを犠牲にして、ヒトは生きていかなければいけない。それが、時に他人を消すことになってもだ。

 たっくんは、それを私に教えてくれたような気がした。だから、尊いと感じる命。生きている間にしたいこと、やり残したこと。死んでしまっては何もできないのだ、自分自身では。だから、たっくんは私を選んだ。そして、私の人生の上を共に歩いた。

 たっくんは、ニコニコ笑いながらいった。

「ヒトが死ぬことは、そんなに意味はないよ」と。「生き続けることの方が貴重だよ」と。「僕はもう何もできないけどね」と、隙っ歯を見せながら笑っていった。

 瞼を開けた。潤んだ瞳と微笑む唇。優しさが甦ってきた。

「夢を見ていたんだ。アナタを失った時から、ずっと・・・」

 涙を拭ってくれた。

「でもまだ私は夢の途中なんだね・・・だって今この瞬間も首のまわりにアナタを感じているのだから・・・

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