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白日夢

【白日夢】


 1


 親父の告白。

 訊くことはひとつだけのはずだった。俺の過去を掘り下げることによって失われてゆく大切なモノたち。

「双子の弟だ」

 嗄れた声で親父がいった。

「俺が、こずえちゃんと・・・」

 俺にとっての初恋。

「姉弟だっただなんて」

 何度もなんども唇を噛んだ。あれから数日、なにも考えることができなかった。気になっていること、訊きたかったことがヤマのようにあるのに。親父はあの日、涙を浮かべ俺の前から去っていった。

(もう会うことはないよ)

 はっきりと俺じゃないオレがいいきった。

 バイトは辞めていた。気力が出ないからしかたがない。

「これからどうする」

 浮かんでこない将来。暗いトンネル、深い海の底にいるようだった。

「いっそ、死んだほうが・・・」

とも思ったが、それもいまいち気がのらない。

 トイレに行こうと立ちあがった時、右足でゴミ箱をけっ飛ばしてしまった。そこから零れるように転がって出てきた携帯電話。

「コズエと同じやつだ」

 忘れていた。何日も放置していたので電源は切れていた。俺は充電コードを差し込み、携帯を立ちあげた。浮かび上がる画面。何も入っているはずがないのに、何故か気になっていた。

 あの日、布団に潜りながら握りしめ彼女の連絡を待っていた俺。苛立ちを捨て去るようにゴミ箱に放った。

 不在着信が2件入っていた。

「コ、コズエ」

 はやる気持ち、押える必要はない。衝動的にボタンを押していた。

「オ、オクダ?」からだった。拍子抜け。肩から力が抜けていく。俺は携帯を布団の上に放り投げてしまった。横になった。天井にコズエの笑顔を描いていた。

「コズエじゃなかった・・・な」

 目をそっと閉じて、息を止めた。

「このまま死ぬか」

 息を止め続けると違う世界に行ける。つまらない過去も、背中の傷も、全て白紙の世界。無の境地。生まれ変わればいいと思った。虫でも草でもなんでも。人生という足の裏に踏んづけられていることには変わりはないと思った。

 そろそろ限界かと感じた瞬間、布団の上の携帯が鳴りだした。俺は逆にびっくりして、死ぬかと思った。胸の動悸が異常にでかかった。着信はオクダからだった。少し躊躇ったがしつこく鳴っていたので俺はしょうがなく携帯を耳に当てた。

「おお~、やっと出たな。死んだのかと思ってたよ」

 半分図星だったが、それには返さなかった。

「お前暇だろ。また付き合えや」

 俺は躊躇なく断った。今そんな気分に到底なれそうもない。

「そんなこといわずに絶対来いよ。○ずえちゃんも来るしよ」

 オクダは一方的に待ち合わせ場所をいい、電話をきってしまった。

「○ずえちゃんって」

 まさかの聞き間違いだと思った。いるはずのない彼女の名前。生きているはずのない彼女の名前が、聞こえたような気がした。

「病んでるな、頭」俺は額を摩っていた。

 行くつもりにはなれない。なれるはずがない。だって来るはずがないから。

 また横になった。また天井でコズエが笑っていた。手を伸ばしてきた。その指で俺の頬を伝う涙を優しく拭ってくれた。俺はその手を握りながら、いつの間にか眠りに落ちていたのだった。


 駅前の銅像。あの日と同じ待ち合わせ場所。あの片手に変な物を持った銅像だ。俺は少しだけ早く着いてしまった。

「○ずえちゃんも来るしよ」

 引っ掛かっていた言葉。どうしても気なってしまった。だから自然と足が向いたのだろう。オクダはやって来るなり、また慣れ慣れしく俺の肩を抱き歩き出した。

 今日の設定は、医者の卵だそうだ。前回もそうだったが設定に無理があるのではないかと思っていた。

「訊かなくちゃ」

 ○ずえちゃんの意味。○ずえちゃんの正体。複雑な心境、裏切られたい自分が見え隠れしている。

「なあ、オクダ。ひとつだけ訊いてもいいか」

 オクダは無言で頷いた。

「あのさ・・・」

 遮るようにオクダは俺の肩を引き寄せた。

「残念だったな、コズエちゃん。いいコだったのによ」

 一番、一番聞きたくなかった言葉だった。間違いではなかった。現実だったのだ。どれが現実でどれが夢なのか、最近わからなくなってきていた自分。

「夢じゃなかったんだな」

 悔やむ自分と、ホッとしている自分がいた。

 なにもかもが現実。夢だといって逃げていた俺。こずえちゃんがいなくなったことも、親父が逮捕されたことも夢として片付けようとしていたのだ。その方が楽になれると思ったから、その方が新たな自分に転換できると思ったから。

 合コンの会場となる店の前でもう一人の連れのワタナベと落ちあった。オクダはいつものように勢いよくドアを開け、大股で入っていった。前回と違って落ち着いた雰囲気の店だった。俺たちは案内されるがままに通路を歩いていった。

 女性陣はまだ来ていなかった。少しホッとした心境で席についた。オクダと連れのワタナベは何やらヒソヒソと打合せをしている。普段ならそれに聞き耳をたてている俺なのだが、今の俺にはそんな余裕はない。落ち着かない面持ちはなるべく見せないように、口を真一文字に閉じるしかなかった。テーブル下で貧乏ゆすりをしている右足だけは別として。

「タクヤ」

 オクダが俯く俺を呼んだ。

「さっきの嘘ね」

「何が?」

「設定、設定。冗談だからな。今日は・・・お前らしくいけよ」

 すう~と、何かが胸の奥で降りていった。楽になれた。オクダ流の励まし方なのだろう。頬の辺りが緩んだような気分だった。

 そうしているうちに女性が3人やってきた。俺は視線だけで彼女らを確認していた。○ずえちゃんを捜していた俺。大きな花柄の女性も、艶やかなピンク色のドレスのコも、一見地味目な女の子も一瞬で違うとわかった。はやる気持ち。お前らしくいけよ、といってくれたオクダ。

「俺らしく・・・」

 考えたこともなかった。俺、について。

 自己紹介が始まっていた。○ずえちゃんは遅れているらしい。勿体つけられているようだったので、ビールを2杯立て続けに煽ってしまった。

 俺の隣の○ずえちゃんが座る予定のイス。早く来てほしかった。このままじゃ生殺しにされているような気分になってゆく。

 花柄の女性の携帯が鳴った。相手は○ずえちゃんだった。もう会場に向かっているらしい。俺は武者震いをした。

「ちょ、ちょっとトイレ・・・」

 なるべく冷静に振舞っていたつもりだったが、内心はドキドキだった。

「・・・そんなはずはない」

 小便をしながらかぶりを振った。

「来るのか本当に・・・コズエが」

 下を向いていると、肩越しに声がした。

「な~に、酔ったのか。頭なんか振って」

 オクダだった。

「あんま緊張すんなよ。それと・・・考えすぎもよくないぞ」

 見透かされていた。それもそうだ。こいつは百戦錬磨なのだ。人生経験の少ない俺なんて容易いのだ。

「お前、ちん○でかいなあ。自信持てよ、ほら背筋伸ばしてよ」

 力強く背中を叩き、小さなウィンクをして出ていった。オクダのお陰でまた気が楽になっていた。

 手を洗った。念入りに。心もいっそ洗い流してくれ、と心の中で叫んでいた。深呼吸した。両手を拡げ、出来るだけ大きく深くした吸った。

 席に戻ると女性がひとり増えていた。

「このコが・・・」

 名前は梢さんだった。ただでも珍しい名前なのに、偶然なのか、悪戯なのか。俺は神を疑い天を仰いだ。

 何気ない会話をしてみた。明るく答える梢さん。ナースだった。これも偶然か、それともオクダの趣味なのか。話は意外と弾んだ。気分は悪くない。けど何かが足りないような気がする。心の中で首を振った。梢さんにコズエを求めてはいけない、と。

 2次会でも梢さんは隣に座った。3次会でも、朝起きるまで一緒だった。今回は記憶を失っていなかった。すべて自分の意思でしたこと。彼女が起きるのを待ち、起きたら謝ろうと思っていた。好きでもないのにしてしまったこと。酔った勢いだったこと。いや、ただしたかっただけだと。何かを忘れるためだと。野暮なことは充分にわかってはいたのだが。

「ごめん」

 起きるなり、彼女の方から謝ってきた。想定外だった。戸惑ってしまった。

「好きなヒトが亡くなったの」

「俺もだ」

 手をとった。俺も謝った。素直に打ち明けた。大切なヒトが次々といなくなってしまったこと。俺が今、独りぼっちなこと。

 打ち明けたことによって、俺たちの距離はぐっと縮まった。つき合ってはいないが、時間を見つけては会うようになった。何をするにもキスをした。キスをしてから抱き合った。

 許し合う愛情。慰め合う愛情。愛にはこんな形もあったのだ。互いに傷を抱える凹と凹が微妙に位置を変え、その隙間を埋めあった。

 それから毎日会うようになった。食事をする前にも肌を重ねるようになった。食事を終えてからも夜中まで抱き合い続けた。寝る時もひとつになって寝た。朝起きてもした。休みの日は朝から晩までずっと。

 でも、俺の心を埋め尽くすことはなかった。それでも良かった。独りじゃないと思えたから。梢も多分、同感だろう。嫌な顔ひとつせず俺の胸に落ちてくる。

 2ヶ月を過ぎた頃、梢が俺に訊いてきた。

「私と同じ名前だったんでしょ。前の彼女」

 オクダの顔が浮かんだ。

「そうだよ。突然どうしたの」

「私に・・・似てる?」

「・・・いや」

 似ていない。顔も、声も、性格も、何ひとつとっても似ても似つかない。

「じゃ、どうして私だったの?」

 結構核心をつく質問だった。俺は答えることができなかった。だって今の俺は梢のことが好きなっていたから。

「誰でも良かった」なんて、今は口が裂けてもいいたくはなかった。

「もう飽きてきたでしょ」

 梢の手が布団の下を弄っている。

 首を振った。目を見た。黒くて大きな瞳だった。でもそこに月は浮かんでいない。

「コズエではない」

 しかし、体は梢に反応している。今の俺には梢が必要だといっていた。


 2


 一緒に暮らすようになった。料理は上手い。洗濯もマメだ。思っていたよりも家庭的な女性だった梢。この女性はいなくならないような気が、最近していた。

「もういいよ」

 俺が愛したヒトたち。

「失いたくない」

 もうたくさんだった。

「俺からこれ以上奪わないでくれ」

 叫んだ。心の中で、運命という残酷な奴に。

 梢の帰りは相変わらず遅い。しかも不規則。コズエの時でわかっていたから、結構平気になっていた。梢は俺に働かなくていいといった。そんなわけにはいかない、という自分と、それに甘えたい自分がいる。今は働いてはいない。働く意欲はあるけど、今は彼女に甘えていた。

 日中は暇だから、梢にもらった小遣いでパチンコに行くことが多くなっていた。勝てるわけがないパチンコ。だって初めてやったのだから勝てるはずがない。すぐになくなる小遣いは、また梢におねだりして貰った。そんな毎日を送った。

 堕落。

 自覚はあった。でもそれをやめる理由がみつからない。責任感を持ち、仕事に励み、家族を養うという日本男子の魂は姿も形もない。

 そんな生活がしばらく続いたある日、梢がニコニコして俺にいった。

「できちゃったみたい」

 できた。

「赤ちゃん」

 理由が。

「私たちの赤ちゃんだよ」

 涙を浮かべ、抱きついてきた梢。

「お、俺の子供・・・」

 変わるきっかけ。男として責任を果たせるきっかけ。

「幸せにしてね」

 男としての遣り甲斐。

「お、俺が守ってやる」

 梢は泣いていた。声を出さずに喉を震わせていた。俺の胸の中で。

 家族。こんな俺にもできたのだ。かけがえのないもの。一生、背負っていくもの。十字架を降ろそうと思った。もう忘れられる。二つの十字架を。

 責任感。以前のよりも重い、背筋に力が入った。男として一本ビシっと。

 梢なら、この女性なら俺と共に生きていってくれる。俺の前からいなくなることはない。だって子供というカスガイがいるのだから。

 翌日から俺は、就職活動に走った。どんな仕事でもいい正社員を探した。来る日も来る日も走った。二人を養っていくことを夢見ながら。

 高卒の俺には厳しい現実。簡単なワケなかった。日に日に落ちてゆくモチベーションを梢は優しく支えてくれた。家事も分担したやった。梢の負担を軽くするため。

 梢は俺に、ありがとう、といってキスをしてくれた。

 これが、思いやりというものだと知った。

 職が見つかったら籍を入れようと考えていた。けど焦ってはいない。何故なら俺たちはまだ始まったばかりだから。

 契約社員から、という会社が見つかった。1年働いて良ければそのまま正社員にしてくれるという。飛び跳ねたいほどの喜びを必死で押え、梢の帰りを自宅で待った。

 結婚。家族。永遠。もう昔のことを思い出さなくなっていた。今が充実しているからに違いない。脇見をしている暇はないのだ。

「遅いなあ」

 じれったい。教えたくてしかたがない。

「今日に限って・・・」

 時計を見た。6時だった。いつも梢は6時過ぎに帰ってくる。俺の焦りすぎだった。

 7時を過ぎた。

「・・・」

 7時15分をまわった。

「前にも・・・あったよな、こんなこと」

 思い出す寸前でやめた。記憶を遮断した。同じ結末を招きそうだったから。

「帰ってくるさ、梢は」

 ドアの音。

「帰って来た、ほらっ」

 いつもの梢が帰ってきた。帰ってくるなり俺は彼女を抱きかかえ、今日あったこと一部始終を教えた。梢は途中まで平静だったが、感極まったのか一筋だけ涙を流した。

「ありがとう、私のために」

 そういって俺の頬に口づけをしてきた。

「何いってんだよ、私たちだろ」

 彼女は一瞬ハッと息を飲んでから、恥じらいの表情を見せ、舌をチロっとだした。

「そうだよね、私たち・・・だよね」

 俺はその表情が愛おしくて、梢の頭を小突く仕草をした後抱き寄せた。

「ねえ、久し振りにしない?」

「えっ、大丈夫なの?お腹」

「優しく・・・してね」

 俺たちは静かに燃えた。燃え尽きてなくなってしまいそうなほど。二人は優しさに包まれていた。こんなのは初めてだった。優しさを重ねること。想いをぶつけることとは違う。家族へと一歩踏み入れたような、そんな夜だった。でもそんな最中、絶頂を迎えそうな梢が吐息混じりに、こういった。

「ねえ、絞めて」

「えっ?」

 意味がわからなかった。

「ねえ、早く」

「やめようよ、そういうの」

 梢の瞳が妖しく揺れていた。

「おねがい」

「だめだって」

 俺の胸の中で・・・。

「すこしだけでいいから」

 何かが弾けてしまいそうだった。

「弱くていいから」

 梢はそういって、俺の手をとった。

「おねがい」

 俺は両手をゆっくりと梢の首にあてた。

「ちから・・・いれて」

 俺の手は震えていた。

「もうちょっと」

 少しだけ、ほんの少しだけ力を入れてみた。彼女は背を仰け反らせた。額から汗が噴き出すのを感じた。

「もういちど」

「もう、やめよう」

 恐ろしくなった俺は、手を離していた。

「やめないで、私を愛して・・・」

 愛の形。これも愛。俺は梢を愛している。梢も俺を愛している。その想いが形になっただけ。俺は自分にいいきかせるように、梢の首に再び手をまわした。そして恐る恐る力をいれた。

 シーツを乱し仰け反る梢。俺はそれを押さえつけるように、さらに力を込めた。腕を伸ばし俺を求めてくる梢。目はうつろになりながら、俺の背中を、背中の傷を弄り爪をたてた。狂いそうな精神状態は俺に痛みなど感じさせることはなかった。

「・・・!!!」

 突然、頭が割れそうな刺激が走った。雷が脳天に落ちてきたような衝撃。次の瞬間、俺はその場に白目を剥き倒れてしまった。

(やっぱりね)

「何が」

(やっぱり同じだった)

「だから何のこと」

(今にわかるさ)

「お、おい、何がだよ」

 隣にはぐったりとした梢が寝ていた。それを見て、小刻みに震える肩。

「こ、これが愛の形なのか。俺の表現の仕方だっていうのか」


 3


 目が覚めた。少し寒気がして。

 部屋は真っ暗だった。

「さっきの・・・」

 頭には余韻がある。

 恐ろしいSEXだった。今思い返しても身震いするほど。初めて知った梢の性癖。今までとはまったく異なったものだった。

「梢の本性・・・」

 これは知らない方がよかったのではないか。

「いや、俺たちは一緒になるのだから、家族になるのだから」

 すべてを受け入れようと、理解しようと努めることにした。殺して、といったわけではない。首を絞められた方が普通より興奮するだけということ。これくらいのことは異質とは呼べない。

「けどあの頭痛は・・・」

 何だったんだろう。あの衝撃は。何かが俺を拒むような痛み。生半可なものではなかった。俺の胸を誰かが突き飛ばしたように、俺はベッドに倒れてしまった。

 俺は何かに触れてしまったのではないか。触れてはいけない何かに触れた。それを警告した痛み。

「梢?」

(じゃない)

「じゃ誰だ」

(オレ)

「・・・?」

(俺の中のオレ)

「またか」

 しばらく現れることがなかったオレ。

(あれ以上は危険だった)

「殺す気はなかった」

(そうじゃない、わからないのか)

「わからないよ」

(あのままじゃ、答えをだしてしまいそうだった)

「それはないよ」

(また、繰り返すのか。オマエ)

「オレにオマエっていわれたくない」

(そんなことはどうでもいい)

 梢は何も知らずに眠っている。とても落ち着いた寝息が聞こえていた。

(何か感じなかったか)

「頭痛しか・・・覚えてないよ」

(それでいいよ。余計なことは考えるな)

「余計って?」

(だから、それが余計だ)

「気になるだろ」

(そうかもしれないけど、答えを出せば、また失うことになる)

「梢を?」

(大切なヒトを)

「梢だ。梢とお腹の中の子供」

(知らない方がいい)

「お前は知っているというのか」

(残念だけど)

「しゃしゃり出てくるなよ。俺の人生に」

(これだけは覚えておいてほしいんだ)

「もう関わるな」

(首だけは・・・もう首だけはやめろ)

「えっ」

(繰り返してしまうから)

「俺は初めてだったよ。あんなこと」

(繰り返したくなければ、してはいけない)

「初めてじゃないっていうのか」

(忘れるなよ)

「お、おい。答えろよ。逸らすなよ」

 返事はなかった。

 夜明け。部屋には少しずつ朝陽が差し込んできていた。また今日が来る。今日という人生の繰り返し。でも昨日という今日は、忘れ難い日になってしまった。

 梢はまだ眠っている。布団を肩まで掛けてあげた。お腹が冷えたら大変だ。彼女のお腹には赤ちゃんがいる。俺たちの赤ちゃん。俺たちの愛が形になったもの。俺たちの愛し合っている証。

 まだ膨らんでいない梢のお腹を、俺はそっと静かに撫でていた。


 4


 明日からは久々の仕事だ。社会に復帰するという実感で手が震えている。あまりの緊張で吐き気もしていた。梢はそれを察してか暖かい料理を作ってくれた。心の休まる落ち着く料理を。

「梢はいい奥さんになるね。俺が保障するわ」

 何気にいった言葉に、梢は涙を流し始めた。

「どうしたんだよ」

 感無量、そんな表情をしている。

「私で本当にいいの。タクヤ」

「何いってんのいきなり」

「・・・ごめん」

「だから、何で謝るの」

「嬉しくて、つい」

「嬉しくて謝るなんて、聞いたことないな」

 二人は笑いあった。それはどこにでもあるような家庭の光景だった。それが幸せというものだと噛みしめた。梢の隣に座り、そっと肩を抱いた。細くて華奢な肩は小さく震えていた。

「泣くなよ。めでたいことなんだよ。縁起でもないから泣くのはよそうよ」

 鼻を啜りながら、梢が瞳を重ねてきた。黒くて大きな瞳。何度見ても大好きな瞳だ。

「・・・?」

 梢が瞬きをした一瞬だった。あった。もう一度瞳を覗いた。

「どうしたの?」

 確かに見えた。梢の瞳の中の、紅い月。

「ま、まさか」

 涙で歪んだせいだろう。見間違いだと思った。

「そんなわけがない。あるはずがない」

 それは俺にとっての凶兆になっていたから。不安が、怒涛のように襲ってきた。

「いや。相変わらずかわいいなって」

 梢の頬が紅潮していくのがわかった。俺は胸の不安をかき消すように梢を抱きしめた。梢の体が軋むほどに。

「梢。いいだろ」

 清々しい朝。日射しに包まれるように二人はひとつになった。頭が空っぽになるくらいに抱いた。

「今日もいうのか、梢」

 何かを期待していた。

「まだ、いわないのか」

 興奮が増すほどに、何かを期待する自分が現れた。

「早くいえよ」

 梢が仰け反り始めた。俺の手は己の意識とは別に梢の首にあった。

「早く・・・いえ」

 我を失っていた。目は獣のように息は荒々しく、梢を待った。梢の言葉を。

「もっと・・・」

「来た」

「もっと・・・絞めて」

 ゾクゾクと。背骨の辺りがゾクゾクと遡るように。得体のしれない何かが、俺の中で立ちあがるような、地面の中から隆起してくるような、込み上げるような何かが。

 力を込めた。

「・・・っと」

「聞こえねえ」

「もっと、絞・・・めて」

 梢の体が痙攣し始めた。大きく上下する胸。高鳴る俺の心臓。汗ばむ躯体。浮きあがる腕の血管。

「タクヤ。もう一度」

 休む間もなかった。極限状態までに達した欲情を冷ます時間など必要ない。俺はゆっくりと梢の腰に手をあてた。絶叫は再び部屋の中を駆け巡った。

「は、早く」

 止まることを知らない二人。

「絞めて・・・お願い」

 掠れて、なくなりそうなほどの細い声。かすかに聞こえた。俺はもう迷うことはしなくなっていた。

「あ、ありがとう。今ま・ごめ・ね」

 俺の耳は、もう何も聞こえなくなっていた。獣のようにうねる体。壊れそうなほど軋むベッド。

(そこに愛はない)

 そう愛は・・・ない。この瞬間、体を這わせているこの瞬間、愛はなくても違和感がなかった。

「愛とはなんだ」

 俺の眼下で暴れ狂う梢を眺めながら、自分に訊ねた。

(愛とは思いやる気持ち)

 誰かがまた横から口を挟んだ。また、オレなのか。

(やめろっ)

「黙れ」

(やめろといってるんだ。手を離すんだ)

「求め合っているんだ。俺たちは」

(ち、違う。それは違うよ)

「もう遅いよ。もう止まらない」

(また失うぞ)

「大丈夫、梢は大丈夫。これでいいんだ」

 根拠のある自信だった。二人の子供。愛の証。

(手を離せっ)

「やっと・・・」

(おい、聞いているのか。今すぐ手を離せ)

「やっと、俺の家族ができたんだ」

(それなら尚更・・・)

「俺だけのモノなんだ」

(モノじゃないだろ。だからそれは愛じゃないといったんだ。愛とは呼べないんだ)

 ハッと我に返った。梢はぐったりしている。意識がないようだった。

「こ、梢」

 返事はない。肩を大きく揺すった。梢の名を呼びながら必死に、謝りながら。

「ごめんよ。ごめんよ」

 溢れる涙。涸れてはいなかった。止まることを知らぬように涙は梢の体を濡らした。梢の体はまったく反応を示さない。

「梢、返ってきてくれ」

 後悔。

(またか)

「うるさい、しつこいぞ」

(何度繰り返すんだ。何度繰り返せば気が済むんだ)

「何度って」

(KOZUEだよ)

「誰のことをいってるんだ」

(KOZUEという名の女性だよ)

「だから・・・どれ」

 気付くと、涙は止まっていた。涙で感情を誤魔化すことを許されなくなったのだ。向き合えと、現実と向き合えといわれたような気がした。

 どこにでもよくある朝の風景が、一瞬にして灰色に変わってしまった。











 


 

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