婚約破棄されたので、“スンナリいかない呪い”をかけてもらいましたわ
少しでも笑っていただけたら嬉しいです。
ティアリーは、スンナーリ伯爵家の長女。
社交界で「無難に優秀」と評されてきた令嬢である。そんな彼女が、本日、婚約破棄された。
「ティアリー、君との婚約を破棄する!」
そう告げたのは、侯爵家嫡男ヴェルドー。外見も物腰も申し分ない、まさに理想的な貴公子。表面上は──だが。
ティアリーは涙を堪えながら、静かに問い返した。
「理由を……理由をお聞きしても?」
「君は完璧すぎる。僕にはもっと、守りたくなる人がふさわしい」
視線の先には、ふわりとした雰囲気の令嬢、タフィーがいた。キラキラした瞳で、ヴェルドーを見上げている。
ティアリーはその様子を見て、すぐに理解する。
(そう……。彼女が守ってあげたくなる存在……)
「真実の愛、ですか……」
動揺を感じさせない、穏やかな声。
「そうだ、ティアリー。僕は真実の愛に目覚めたのだ!」
ヴェルドーは満足そうに告げる。
ティアリーは微笑み、優雅に一礼した。
「かしこまりました……」
その所作に乱れはなく、声も震えない。
それがスンナーリ家の矜持であり──そして彼女自身の在り方でもあった。
◇
「へえ……侯爵家嫡男が婚約破棄。大した野郎ね」
紅茶をくるくるとかき混ぜながら、楽しげに笑うのはティアリーの友人、リゼット・カラミアである。
呪いを研究している、非常に個性的な令嬢だ。
「面白がらないでくださいまし」
ティアリーはわずかに眉をひそめ、たしなめるように言った。
「でも研究対象としては最高よ。そいつには、私が呪いをかけてあげるわ。ちょうど今、研究中の“スンナリいかない呪い”をね」
リゼットは楽しそうに目を細める。
ティアリーはその言葉を聞き、ほんの一瞬だけ沈黙した。
地味だが、確実に不快そうな響き。
あまり関わり合いになりたくない種類のものだと、本能的に理解する。
(……とてつもなく、嫌な予感がしますわ)
◇
翌日の朝。
ヴェルドーが、来客に挨拶をしようと手を差し出した、そのとき──
「……?」
指に何かが絡みついた。
一本の長い髪の毛だ。
払って取れた──そう思った瞬間、まだ指に絡みついている。
握手しようとすれば、その瞬間に絡みつく。
払う。絡む。払う。絡む。
(……なんだ、これは)
表情は崩さない。崩してはならない。侯爵家嫡男として、些細な動揺など見せるわけにはいかない。
(……落ち着け)
再び手を差し出す。
絡む。払う。絡む。払う。
──終わらない。
(な……なぜだ)
ただの握手。それだけのことが、なぜかスンナリいかない。
「……失礼」
笑みを浮かべたまま手を引く。だが内心では、不快感が残り続ける。
(こんなことで、苛立つなど……)
小さな違和感が、彼の心を蝕み始めた。
◇
昼。
ヴェルドーはサロンで令嬢たちと会話をしていた。
「「それで、先日の──」」
声が重なる。
「……どうぞ」
「いえ、どうぞ」
お互いに譲り合う。
(……落ち着け。こんなもの、よくあることだ)
「「それでは──」」
また声が重なる。室内の空気が、わずかに重くなる。
周囲は微笑んでいる。だがその微笑みが、気まずさを隠しているように見えてしまう。
(偶然だ。偶然に決まっている)
ヴェルドーは息を吸い、声を発するふりをする。
少し間を空けて──
「「あの──」」
三度、声が重なった。
(な……なぜだ。フェイントすら通じないだと……?)
胸の奥に、じわりと焦りが生まれる。
(話すだけだ。私のタイミングが悪いのか? それとも……)
彼は考えすぎて、余計に口を開くタイミングが分からなくなる。
笑顔のまま、何も言えない。
──普通にできていたことができない。
その事実が、静かに彼の精神を削っていく。
◇
午後。
学院の廊下。
人を避けようとすれば、なぜか同じ方向に動かれる。
右へ動けば、相手も右に。
左へ動けば、相手も左に。
軽くぶつかる。
「……すみません」
一度、深呼吸する。
(落ち着け。次は冷静に動けばいい)
もう一度。
右へ避けると、相手も右に。
左へ避けると、相手も左に。
また、ぶつかる。
(……は?)
三度、四度、五度。
避けようとしても、ぶつかる。
(おかしい……)
周囲の人間は普通に歩いている。
しかし、彼だけが引っかかる。
(なぜだ……なぜ私だけ……)
体が無意識に“ぶつかる未来”を恐れ、動きがぎこちなくなる。
歩くことすら、思い通りにいかない。
またぶつかる。
「チッ……」
相手から、舌打ちが漏れた。
(な、なんなんだ、一体……!)
ヴェルドーには、自分が自分でなくなっていくような感覚がしていた。
◇
そして夜。
舞踏会。
「……大丈夫だ。今度は何もない」
自分に言い聞かせる。
だが、会場へ入った瞬間──鼻の奥がムズッとした。
「は……っ」
(やめろ……)
嫌な予感がする。
くしゃみが出そうになる。だが、出ない。
「は……っ、は……っ」
大きく息を吸うも、くしゃみが止まる。
(で……出ろ……頼む)
もう一度、息を吸う。しかし、くしゃみは止まる。
(頼むから、出ろ!!)
焦りが膨らむ。
たかが、くしゃみ。
それが、終わらない。
握手も、会話も、歩くことも──
すべて、スンナリいかなかった。
(またか……ふざけるな!!)
「ヴェルドー様?」
「は……っ、ああ……っ」
返事すらまともにできない。
彼には周囲の視線が冷たく感じる。
(やめろ……見ないでくれ……)
「は……っ、は……っ……なぜだ……!」
声が震える。呼吸が浅くなる。
鼻の奥のむず痒さが、頭の内側まで広がっていくような錯覚。
(出れば終わる……出れば……!)
彼はその場で足を踏み鳴らした。
トン、トン、と最初は小さく。
それが次第に強くなる。
ドンッ、ドンッ!
床を打つ音が、静まり返った会場に響く。
「は……っ、く……っ!」
苛立ちを振り払うように、近くの壁へと拳を叩きつけた。
ゴンッ。
鈍い音がし、拳に痛みが走る。
「は……っ!!」
もう一度、殴る。
ゴンッ!
(痛みで……痛みで誤魔化せ……! 気を逸らせば……!)
しかし、むずむずは消えない。
むしろ、意識すればするほど強くなる。
くしゃみが出ない。終わらない。
(いやだ……もう、いやだ……!)
肩が震える。呼吸が乱れる。
視界の端で、周囲の人間が一歩引くのが見えた。
(違う……私は……こんな……!)
「は……っ、は……っ……く、そ……っ……!」
そして、限界が訪れた。
「はぁぁぁぁぁあああああああああああッッッ!!! 出ろぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおッッッ!!!」
くしゃみが出ないことへの怒り──それが叫びとなった。
静まり返る会場。
彼は肩で息をしながら、鼻を押さえる。
くしゃみは最後まで出なかった。
「は……っ、は……っ」
◇
その後。
ヴェルドーは「落ち着きがなく、急に奇声を上げる変な人物」と評され、タフィーに見捨てられる。
そして、社交界での評判も落ち、新たな縁談が持ち上がることもなかった。
「どう? スンナリいかなかったでしょ?」
リゼットは楽しそうに笑う。
「見事ですわ」
ティアリーはそう答え、紅茶を一口含んだ。
「この呪いはね、普通にできるはずのものが、上手くいかないから不快なのよ」
ティアリーは小さく息をつく。
(くしゃみが出そうで出ない、あの感覚ほど不快なものはありませんわね)
そのとき、ほんのわずかに鼻の奥がむずむずした。
ティアリーはゆっくりと顔を上げ、リゼットを見る。
「リゼット」
「なあに?」
「わたくしには、使っておりませんわよね?」
「うふふ……さあ、どうかしらね?」
「やめてくださいまし!」
こうして──
ティアリーの婚約破棄は、地味に嫌な復讐を経て、笑い話へと昇華されていくことになった。
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