悪役令嬢として断罪される予定でしたが、領地のホワイト化に忙しいので定時後にお願いします
ネトコン14参加作品です。
社畜転生×悪役令嬢×領地経営ざまぁ。ハッピーエンド。約6,500字の短編です。
過労死の瞬間に見えたのは、走馬灯ではなく退勤ボタンだった。
蛍光灯の白い光が遠ざかる。デスクに突っ伏した頬が冷たい。ああ、まだ退勤ボタンを押していない。結局、最後まで押せなかった——それが、前世の最後の感覚だった。
次に目を開けた時、私は天蓋付きの寝台の上にいた。
鏡に映るのは金髪碧眼の少女。名はリーゼロッテ・フォン・ヴァイスガルテン。第二王子アルフレートの婚約者にして、社交界では「悪役令嬢」と囁かれる辺境伯家の一人娘。病弱な父に代わり、十七歳で領地経営を任されている。
いずれ断罪されるとか、婚約破棄が待っているとか、周囲はいろいろ囁く。正直、そんなことはどうでもよかった。私には、もっと切実な願いがある。
(今度こそ、定時に帰る)
◇
転生してから一年。ヴァイスガルテン領に、鐘の音が響くようになった。
最初にこの領地を見た時のことを、今でも覚えている。
(領民の目が死んでる。弊社の新人と同じ目をしている…)
畑を耕す農夫たちの目に光がなかった。日の出から日没後まで、休みなく鍬を振るう毎日。報酬は不定期で、その額も領主の気分次第。七日に一度の休みなど存在しない。病に倒れれば代わりを連れてこられ、収穫が落ちれば罵声が飛ぶ。
誰も文句を言わなかった。文句を言う気力すら残っていないのだ。
子供たちの顔にも、笑顔がなかった。親が日没まで帰ってこないから、幼い子が幼い子の面倒を見ている。工房の職人たちは咳をしながら鉄を打ち、鉱山では十二時間を超える坑内作業が常態化していた。
人を使い潰して、壊れたら補充する——この領地はそういう仕組みで回っていた。
(これ完全にサビ残じゃない…。前世の弊社かよ…)
前世で散々見てきた構造だった。人を消耗品として扱い、短期的な成果だけを求める。その先にあるのは、組織の緩やかな——しかし確実な崩壊だ。
前世では変えられなかった。上に何度掛け合っても「現場を知らないくせに」と一蹴された。部下を守りたかっただけなのに、結局、自分が先に壊れた。
でも今は違う。私は、この領地の経営者だ。
だから、領主として最初の命令を出した。
「今日からこの領地では、日の鐘六つで全員帰宅とします」
誰も動かなかった。広間に集められた領民たちは、互いの顔を見合わせるだけだった。罠だと思ったのだろう。無理もない。この世界では「帰っていい」は「お前はもう要らない」と同義なのだ。
最初の一週間、鐘が鳴っても帰ろうとしない者ばかりだった。帰ったら明日の仕事がなくなるのではないかと、本気で怯えている。
その恐怖は、よく知っていた。前世の弊社でも「早く帰ると評価が下がる」と信じている社員が大半だった。
だから私は畑に出向き、工房を回り、一人ひとりに告げた。帰りなさい、と。明日も働くために、今日は休みなさい、と。
「お、お嬢様……? 残業が、禁止……? わ、私、何か粗相を……」
侍女のマリアが真っ青になって聞き返した。この子は領地の出身で、幼い頃から屋敷に仕えている。転生前のリーゼロッテは冷淡な主人だったらしく、マリアの瞳にはいつも怯えの色が浮かんでいた。
それでも、私は制度を曲げなかった。定時の鐘を鳴らし続け、七日に一日の完全休日を定め、収穫量に応じた正当な報酬を制度として整えた。最初は恐る恐る鐘の音に従っていた領民たちが、やがて少しずつ、日没前に家路につくようになっていった。
それから数週間——。
「……お嬢様が、『定時で帰りなさい』と、仰るのです……。そんなこと……今まで、誰にも……」
マリアが、泣いていた。嬉しいのか悲しいのかもわからないような、堰を切った涙だった。
私は、彼女の頭をそっと撫でた。何も言わなかった。言葉は要らなかった。この涙の意味は、前世の私が一番よく知っている。
(定時退社を命じたら泣かれるって、どういう職場環境なの。いや、前世の弊社も似たようなものだったけど)
一年が過ぎた。
税収は三割増えていた。定時で帰れる領地だという噂が広まり、隣領から職人や商人が移住してきた。新しい工房が三つ建ち、鉱山の産出量は倍になった。市場には活気が生まれ、領民の子供たちが広場で走り回るようになった。
何より変わったのは、人の顔だ。朝、仕事に向かう領民たちの目に光がある。夕方、家に帰る足取りが軽い。それだけのことが、全てを変えた。人が休めば、翌日の生産性が上がる。当たり前のことだ。前世では、この当たり前を誰も理解してくれなかった。
一方で、婚約者である第二王子殿下の領地からは、人材の流出が始まっているらしい。あちらは相変わらずの搾取型経営だ。休みなし、報酬は不当に低く、逆らえば厳罰。腕のいい職人から順にヴァイスガルテンに流れてくるのは、当然の帰結だった。
——まあ、そうなるだろう。
日の鐘六つ。今日も無事に、全員が帰路についた。
◇
翌朝、届いた書状の封蝋は、王家の紋章だった。
三日後、私は王城の大広間に立っていた。
高い天井にステンドグラスから午後の光が差し込み、半円形に並ぶ貴族席を照らしている。百を超える貴族たちが、扇の向こうからこちらを窺っていた。
正面の玉座の前に立つのは、第二王子アルフレート殿下。その隣に——銀髪の、見知らぬ少女がいた。清楚な白い衣装に身を包み、うつむいたまま王子の腕にすがっている。
ざわめきが、大広間を満たしていた。
「——リーゼロッテ・フォン・ヴァイスガルテン。お前の地味な領地経営など、この王家の婚約者にふさわしくない。私はここに、婚約の破棄を宣言する」
王子の声が、高い天井に反響した。彼は隣の少女の手を高々と取り、広間全体に見せつけるように掲げた。
「聖女イリスこそ、この私にふさわしい」
貴族たちのざわめきが一瞬止まり、すぐに波のように広がった。衣擦れの音と囁き声が、広間の隅々にまで満ちていく。
(あ、これ——前の会社の退職勧奨と同じパターンだ)
不思議なほど、心は凪いでいた。功績を挙げた者を切り捨てて、見栄えのいい新人を重用する。前世の会社で何度も見た構図だ。
上の人間が成果より好みで人事を動かし、組織の土台が静かに崩れていく——あのパターンと、寸分違わない。
私は——表情を変えなかった。
広間が、静まり返った。
王子が、答えを待っている。
——私は、口を開いた。
(退職理由は『一身上の都合』ではなく『パワハラ上司からの解放』、と)
「殿下、婚約の解消、喜んでお受けいたします」
広間に、息を呑む音が反響した。
王子の目が見開かれる。その隣の聖女イリスも、驚いたように顔を上げた。彼は私が泣いて縋るとでも思っていたのだろう。取り乱して醜態を晒すと。残念ながら、こちらは前世でブラック企業を十年生き延びた元管理職だ。
この程度で動揺はしない。
貴族たちがざわめく。「喜んで」の一語が、広間の空気を一変させていた。扇で口元を隠す者、隣と目を見合わせる者——彼らの視線が、王子から私へと移っていくのがわかった。
(退職届——もとい、婚約解消届は、とっくに懐に入っている)
「ただし、婚約解消に伴う領地間協定の解除もご了承いただけますね?」
一拍の沈黙。
「つきましては、ヴァイスガルテン領より貴領地への技術者派遣、資材供給、商路共有——すべて、本日をもって終了となります」
貴族たちが、互いに目を見交わした。今度のざわめきには、明らかに色が違う。
私は淡々と続けた。
ヴァイスガルテン領から派遣していた魔道具技師は十二名。彼らは王子領の農地改良の中核を担っている。灌漑用の魔道具の保守、新型農具の調整、種子の品種改良——すべて、我が領地の技術者が支えてきた仕事だ。
彼らが撤収すれば、来季の収穫は大幅に落ちるだろう。
資材供給の停止も見過ごせない。ヴァイスガルテンの鉱山から送っていた鉄鉱石と木材は、王子領の城壁修繕に不可欠だった。現在進行中の工事は、間違いなく中断に追い込まれる。
そして商路。東方との交易路の共有が解除されれば、王子領を経由していた商人は全てヴァイスガルテン経由に切り替わる。王子領の市場は商品の流入が止まり、干上がるだろう。
さらに言えば、王子領の鉱山で使われている精錬技術も、元はヴァイスガルテンの技師が持ち込んだものだ。技術者の引き揚げは、鉱山の操業にも波及する。
これらは全て、婚約に付随する領地間協定の範囲内である。婚約の破棄は、協定の失効を意味する。
これらは全て、私が一年かけて築いたものだ。一人ひとりの技術者を育て、商路を開拓し、信頼関係を積み上げてきた。それを——婚約破棄の一言で、全部手放す?
ええ、手放しましょう。こちらから願い下げだ。
法的には——何の問題もない。
広間が、しん、と静まった。貴族たちの扇が止まっている。依存構造の全容が明らかになり、空気が凍りついていた。
「それは……待て。待て、リーゼロッテ。領地間協定の解除だと? そんな話は聞いて——」
王子の声が裏返った。顔から血の気が引いている。ようやく、自分が何を切り捨てたのかに気づいたらしい。遅すぎる。いつだって、切り捨てる側は、切り捨てた後の損失を計算しない。前世でも、優秀な社員を追い出した後で慌てる上司を何人も見てきた。
王子は広間を見回した。味方を探しているのだろう。だが、目を合わせる貴族は一人もいなかった。先ほどまで王子に追従していた者たちが、一斉に目を逸らしている。風向きが変わった瞬間に手のひらを返す——それも、前世で見飽きた光景だ。
王子が、すがるような目で隣の聖女を見た。
「イリス。お前なら、領地の経営くらい——」
「わ、私は……経営、なんて……。私にできるのは、怪我を治すことくらいで……」
聖女イリスが、震える声で首を横に振った。彼女の銀髪が、揺れた。
(……悪い子じゃないんだろう。でも、あの子に領地は任せられない。それは善悪の話じゃない。適性の話だ)
癒しの才能を持つ聖女を、領地経営の駒にしようとすること自体が間違いだ。適材適所という言葉は、この世界にはないのかもしれない。だが概念は同じだ。人を正しい場所に置かなければ、人も組織も壊れる。
王子の顔から、完全に色が失せていた。広間の貴族たちは、もう誰も王子のほうを見ていない。視線の潮目が変わったことを、私は静かに確認した。
私は、静かに息を吸った。
「殿下。人を大切にしない組織は、いずれ滅びます。——それは前の……いえ、歴史が証明していることです」
踵を返した。振り返らなかった。
背後で何か叫ぶ王子の声が聞こえた気がしたが、もう関係のないことだ。大広間を横切る私の靴音だけが、沈黙の中に響いている。百の貴族たちの視線を背中に受けながら、私は一歩も揺るがずに歩いた。
重い扉を両手で押し開ける。
廊下に午後の陽光が溢れていた。まぶしい、と思った。前世で最後に見たのは蛍光灯の白い光だった。それとは違う。これは、自分の足で外に出た人間が浴びる光だ。
◇
——あれから半年。今日も、日の鐘六つが鳴る。
執務室の窓から、夕陽が差し込んでいた。琥珀色の光が机の上の書類を染めている。今月の収支報告書に目を通す。数字は順調だ。
「お嬢様、王子殿下の領地の件でご報告が」
マリアが書類を手に入ってきた。
「魔道具技師の撤収後、農地の維持が困難になっているそうです。灌漑用の魔道具が停止して、今季の収穫は例年の六割を下回る見込みだと」
「そう」
「それから、商路変更の影響で、王子領を拠点にしていた商人の多くがこちらに移ってきています。向こうの市場は、ほとんど機能していないようです」
「……そうね」
「城壁の修繕も中断したまま、鉱山の産出も落ちて、職人の流出は止まらず……。先月から、重税に耐えかねた農民の離散も始まっていると聞きました」
マリアが気遣わしげに報告を終え、小さく付け加えた。
「……あの、聖女イリス様は、怪我人の治療にお忙しいようで、領地の運営にはほとんど関わっていないそうです」
「……そう」
あの子は悪くない。ただ、場所が違うだけだ。
マリアが退室し、私は窓の外に目を向けた。
予想通りだった。いや、予想より早いくらいかもしれない。
搾取で回していた組織は、外部の支えを失った瞬間に瓦解する。人を使い潰す経営は、人が去った後に何も残さない。残るのは、疲弊した土地と、去っていく人の背中だけだ。
前世の弊社も、私が倒れた後どうなったのだろう。おそらく、同じだろう。私の仕事を引き継げる人間を、あの会社は育てていなかったから。
(人を大切にしない組織は——やっぱり、滅ぶんだ)
前世で何度も見た結末だ。けれど今回は、私はその組織の外にいる。外に出ることができた。自分の意志で、自分の足で。
それだけで——十分だった。
領民たちが、帰路についていた。
市場通りから夕餉の支度の匂いが風に乗ってくる。焼きたてのパンと、煮込み料理の湯気。鍛冶屋の主人が火を落とし、隣の仕立屋と笑いながら手を振り合っている。肉屋の軒先では、おかみさんが残り物を近所の子供たちに分けていた。遠くの広場からは子供たちのはしゃぐ声が聞こえ、鉱山帰りの職人たちが明日の段取りを話しながら石畳の道を歩いていく。
噴水の前のベンチでは、老夫婦が並んで夕陽を眺めていた。
一年半前、死んだ目をしていた人たちの面影は、もうどこにもなかった。
この領地には今、人の暮らしがある。朝起きて、働いて、日が暮れたら家に帰る。家には温かい食事と、自分の帰りを待つ誰かがいる。当たり前の日常が、当たり前に回っている。それは、前世の私がずっと欲しかったものだ。
領都の人口は、一年前の倍近くになっている。
手元の紅茶が、ちょうどいい温度になっていた。一口含むと、領地産の新しい茶葉の柔らかな香りが広がった。この茶葉を栽培し始めたのは、半年前に移住してきた農家だ。王子領で休みなく畑を耕していた老夫婦が、噂を聞いてやってきた。ここなら休みがあると。
前の領地では認められなかった品種を、ここで育てている。誰でも好きなものを作っていい。それだけのことで、人は新しいものを生み出せる。
窓辺に目を戻すと、最後の帰宅者——鉱山の監督官が門をくぐるところだった。彼は以前、日没後も坑内に残って作業を続けていた男だ。今は鐘が鳴ると真っ先に道具を片付ける。「家で娘が待ってるんで」と笑う彼の顔を見るたびに、改革は間違っていなかったと確信する。
今日も全員が、日没前に帰路についた。
ふと、机の端に置いたままの書状が目に入った。
差出人は——隣領の辺境伯ヴェルナー。先月も、先々月も、同じ差出人から書状が届いている。
「ヴァイスガルテン領の経営改革について、直接お話を伺いたく存じます。貴女の手法には学ぶべきものが多いと感じております。ご都合のよい日時をご教示いただければ幸いです。——ヴェルナー・フォン・ヴァルトシュタイン」
「……経営手法を、ね」
(あの辺境伯、やけに視察の頻度が高いと思ったら。しかも毎回、手土産の花束が妙に立派なのよね。前回の白百合は明らかに経営視察に持ってくるものではなかった)
……まあ、それは定時後に考えよう。仕事とプライベートは分けるものだ。
書状を脇に置いた——その時だった。
窓の外で、日の鐘六つが鳴った。
澄んだ鐘の音が、夕暮れの領地に広がっていく。
私が導入した定時の鐘。一年半前、この音を初めて聞いた時、領民たちは怯えた顔をしていた。帰っていいなんて嘘だ、と。罠だ、と。けれど今では、この鐘を合図に、誰もが当たり前のように家路につく。
扉の向こうから、軽い足音が近づいてきた。
「お嬢様、今日も定時退社ですね」
マリアが、微笑んでいた。あの日泣いていた少女が、今は当たり前のようにその言葉を口にする。
私は紅茶のカップを置いて、立ち上がった。
日の鐘六つ。今日も、定時退社。
お読みいただきありがとうございます。
リーゼロッテのその後が気になる方は、ブックマークしてお待ちいただけると嬉しいです。
反響次第で後日談(隣領の辺境伯とのあれこれ)を追加予定です。




