第一話 偽りの宿泊客【問題】
いつも読んで頂きありがとうございます
グランド・インペリアル・ホテルのロビーは、夜十時を過ぎると人の動きが止まる。
照明は落とされない。音だけが減る。
瀬戸遥斗は、フロントカウンターの内側で指先の違和感を確認していた。軽い痺れに近い。血流の問題か、緊張によるものかは特定できない。
「瀬戸」
背後から声がした。
九条怜。宿泊部接遇課長。
金色のはずのバッジが、光を反射していない。
「その手の動きは、顧客対応として不適切だ」
「失礼しました」
「理由は不要だ。是正すればいい」
九条はロビーの一角へ視線を移した。
三番テーブル。新聞を広げた老紳士が、一人で椅子に座っている。
「あの人物は、松方と名乗っている」
九条の声は一定だった。
「宿泊カードの筆跡、申告された経歴、装身具の価格帯。整合性は取れている」
一拍置く。
「ただし、欠落が一つある」
「欠落、ですか」
「あの周囲のみ、空気の対流が停止している。通常、人が存在すれば体温差による気流が発生する。だが、観測されない」
九条は懐から手帳を取り出した。
そこには、清算されないまま残された案件が時系列で並んでいる。
「百年前。当ホテルで名称を書き換え、代価を支払わずに消えた宿泊者がいる。本件は、その未清算案件と判断される」
空白のカードが、カウンターに置かれた。
「瀬戸。接触しろ」
「……私が、ですか」
「適性確認だ。正体を悟らせるな。彼が何を差し出すかを見極めろ」
「失敗した場合は」
「記録上から削除する」
説明はそれだけだった。
遥斗は一度、呼吸を整えた。
「承知しました」
歩き出した背中に、事務的な声が重なる。
「正体認識が発生した時点で、接遇は中断される。以降は強制処理に移行する」
ロビー三番テーブル。
老紳士の新聞は、一枚も動いていない。
距離が縮まるにつれ、体感温度が下がる。
数値化はできないが、変化は明確だった。
「失礼いたします。松方様」
規定角度で会釈する。
「……用件は何だ」
声は乾いていた。新聞の影で、顔の輪郭が定まらない。
「当ホテルより、お渡しするものがございます」
銀のトレイを差し出す。
カードと万年筆。
視線が移動した瞬間、新聞紙の一部が黒く変色した。
インクが滲むように広がっていく。
「確認、か」
「未清算分に関する書類です」
老紳士の動きが止まった。
「……九条は、まだ管理を続けているのか」
声音が変わる。
遥斗は、その反応を記憶した。
「当ホテルでは、未清算状態でのチェックアウトを認めておりません」
声量を一定に保つ。
「支払不能を申告した場合はどうなる」
「代替決済の提案に移行します」
影が床に沿って広がった。
照明が一度だけ明滅する。
そのとき、フロント方向で硬質な音が鳴った。
万年筆が机を叩く音だった。
遥斗は、呼吸を調整する。
「代金は、記憶での決済が可能です。このカードに、最後に忘却したかった名称をご記入ください」
万年筆を取る手が震える。
背後の鏡に、九条の姿が映っていた。
右目が、照明とは異なる色を帯びている。
「夜明けまでが有効期限です」
万年筆が再び動こうとした瞬間、影が集まった。
床の感触が変わる。
視界が切り替わった。
ここまで読んで頂きありがとうございます




