第八話 壊れた評価基準【解答】
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対象の宿泊客は、ラウンジにいた。
新聞を読んでいるわけでもない。
飲み物を口にしているわけでもない。
ただ、そこに座っている。
年齢も、性別も、印象に残らない。
だが、以前対応した「評価不能客」とも違う。
あの客には存在感が希薄だった。
だが、今回の客には、確かな存在感がある。
「失礼いたします」
瀬戸は、規定通り声をかけた。
「はい」
返答は即座だった。
「ご滞在中、ご不便はありませんか」
「ありません」
即答。
だが、反応がある。意思がある。
「ご満足いただけていますか」
「その質問は、成立しません」
瀬戸は、一瞬言葉を失った。
「……成立しない?」
「評価基準が、私を定義していない」
淡々とした声だった。
「あなた方の基準は、
“変化”を前提にしている」
瀬戸は、息を整える。
「変化、とは」
「快適になる、不快になる。
満足する、失望する。
そうした差分を測るための基準だ」
「……はい」
「私は、変化しない」
その言葉に、瀬戸は何も返せなかった。
「良くも、悪くもならない。
だから、評価できない」
「……それは」
瀬戸は、言葉を探す。
「未清算、ではない」
「未清算とは、残留だ」
宿泊客は続ける。
「私は、残っていない。
最初から、ここに適合していない」
瀬戸は、はっきりと理解した。
この存在は、
未清算でも、
処理対象でもない。
評価基準の想定外。
「……では、なぜここに」
「基準が、私を必要としたからだ」
「基準が……?」
「万能だと誤認された基準は、
必ず例外を生み出す」
瀬戸は、背中に冷たいものを感じた。
「例外が現れることで、
基準は自身の限界を知る」
宿泊客は淡々と言う。
「だが、万能であると誤認した瞬間、
壊れる」
「……あなたは」
「例外だ」
即答だった。
「だが、例外は排除すべきではない」
瀬戸は、静かに息を吐いた。
「報告します」
「そうするといい」
瀬戸は、その場を離れた。
⸻
ロビーに戻ると、九条が待っていた。
「報告を」
「評価基準が、対象を定義できていません」
「原因は」
「基準が、変化を前提にしていた」
九条は、端末を操作する。
「想定通りだ」
その言葉に、瀬戸は一瞬だけ顔を上げた。
「……想定、していたのですか」
「過去に、同様の事象があった」
九条は、そこで一拍置いた。
「一度だけだ」
瀬戸は、その右目を見た。
硝子の奥で、光を反射しない。
「その際、基準の修正は」
「行われなかった」
九条は淡々と答える。
「修正を試みた。だが、代償が大きすぎた」
それ以上は語られなかった。
だが、十分だった。
「今回の処理は」
「保留だ」
九条は即答した。
「評価基準の再定義が必要になる」
「それは……」
「君の担当ではない」
即座に切り分ける。
「だが」
九条は続けた。
「君は、基準の破損を認識した」
瀬戸は、息を詰める。
「評価できないものを、
無理に評価しなかった」
一拍。
「それは、正しい」
評価語ではない。
だが、記録された。
端末に、短い追記が表示される。
――基準逸脱事象:観測完了。
瀬戸は、その表示を見つめた。
判断しなかった。
処理もしなかった。
だが、壊れていることを認識した。
自分の中の「余白」が、
初めて役割を持った気がした。
九条は、踵を返す。
「業務に戻れ」
「はい」
九条が歩き去る直前、
瀬戸は、ある可能性に気づいた。
九条の右目。
あれは、
かつて基準の修正を試みた、
その代償なのではないか。
だが、それを口にすることはなかった。
業務に、不要だからだ。
ロビーの照明は、いつも通り一定だった。
評価基準は、まだ壊れたままだ。
だが、
それを認識できる者が、
一人、増えていた。
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