第七話 判断が生じなかった夜【問題】
いつも読んで頂きありがとうございます
――業務目標:判断不能案件の処理可否確認
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夜のグランド・インペリアル・ホテルは、判断を要求しない。
照明は規定値。
空調音は一定。
人の動線も、想定範囲を逸脱しない。
迷いが生じる余地はない。
少なくとも、表層には。
瀬戸遥斗は、フロント奥の管理端末の前で足を止めていた。
画面には、単一の案件が表示されている。
深夜帯、館内を徘徊していた宿泊客。
複数回の注意喚起に応答なし。
行動ログは途中で断絶。
客室には戻っていない。
規定を確認するまでもない。
即時回収対象。
「……」
瀬戸は、画面を見つめたまま動かなかった。
違和感はない。
異常も見当たらない。
ただ、指が動かない。
理由は明確だ。
処理基準は満たしている。
過去事例も十分にある。
それでも、判断が発生しない。
「瀬戸」
背後から声がした。
振り返らなくても分かる。
九条怜だ。
「確認を行え」
いつもと同じ声音。
同じ距離。
同じ業務指示。
だが、瀬戸は直感的に理解していた。
――今回は、案件が違う。
「処理基準は、満たしています」
端末から視線を外さずに答える。
「そうだ」
九条は即答した。
「では、回収を――」
言葉が、途中で止まった。
瀬戸自身が、その事実を認識するまでに少し間が空いた。
口が動かない。
声が続かない。
「……」
理由はある。
だが、言語化できない。
正しさが、過剰に揃っている。
選択肢が多すぎる。
どれを選んでも、規定上は正解だ。
だからこそ、決められない。
「……判断に、少し時間をください」
九条は否定しなかった。
「記録しろ」
「何を、ですか」
「判断が発生しないという事実だ」
瀬戸は、端末に視線を落とす。
入力欄を探す。
だが、そこには判断結果を記す項目しかない。
「判断不能、という分類は……」
「存在しない」
九条は無機質に答える。
「判断が存在しない場合は、未提出として扱う」
瀬戸は、短く息を吸った。
逃げているわけではない。
責任を放棄した感覚もない。
ただ、決められない。
「……未提出で、記録します」
その瞬間、
胸の奥で、何かが静かに落ち着いた。
判断しなかった。
だが、放棄したとも思っていない。
九条は端末を操作する。
ログを確認し、更新する。
表示される文字列は簡潔だった。
――判断未提出。
九条は、何も言わない。
端末を操作する右手は、迷いなく動いている。
その横顔は、夜の照明の下でも変わらない。
瀬戸は、その右目に一瞬だけ視線を向けた。
硝子の奥で、光が反射しない。
何かを失った結果として、そこにあるように見えた。
「業務に戻れ」
それだけだった。
瀬戸は、ロビーに一人残される。
判断しなかった。
だが、間違えたとも思っていない。
自分の中に、
判断が生じる前の空白がある。
それを埋める方法は、
まだ分からない。
夜は、静かに続いていた。
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