3
旦那様の目がルカの頬の涙の跡と、男の子の手に握られた騎士の人形に向けられる。
「おや……そのおもちゃ、俺の息子の大事な物だな。どうして君が持っている?」
いつもの穏やかな声だったけれど、部屋の中の気温がグッと下がった気がした。
「子供のしたことですから、大ごとにしないでくださいまし」
割って入ったのは、やはり母親のドネロン伯爵夫人だ。
旦那様はその言葉を無言で受け流しながら、ぐったりと床に身を横たえたアルトの姿に目を止めた。
「……アルト。おまえ、背中に翼……? 伝説の神獣そっくりじゃないか。いや、まさか本当に?」
そう言いながらも、旦那様はアルトに駆け寄りひざをつき、優しく撫でてやる。私も後に続いて顔を覗き込むと、アルトはスヤスヤと気持ちよさそうに眠っていただけだった。
「神獣様は力を使ったあとは、しばらくお休みになるという記述が、神殿にありましたわね」
ヴェルツェル公爵夫人が、ふとそんなことを口にした。なるほど、そんな記述を、どこかの文献で目にした記憶がある。
すると、ルカがぺたんとアルトのお腹の横に座った。
「あると、えらかったね。ぼく、まもってくれたの。すごいよ」
そう言って、ふわふわの首元に小さな腕を回し、頬を寄せた。
そのままウトウトと……その寝顔は、心の底から安心しきっているようだった。
「神獣と、愛らしい幼子……。ルカちゃんは、神獣を従えた騎士になるのかしら? まぁ、なんて素敵な未来でしょう」
ヴェルツェル公爵夫人がぽつりと呟くと、貴婦人たちの間からも、うっとりとしたようなため息がこぼれた。
旦那様はその光景を静かに見守りながら、小さく息を吐く。
「……ああ、俺の家族って、本当に誇らしいな。最愛の妻と、愛らしくも優しい息子。それに神獣までついてくるとは、贅沢な話だ」
そのとき、ドネロン伯爵夫人がどさくさに紛れて子供の手を引き、こっそりその場を離れようとしていた。
「お待ちを。まだ話は終わっていない」
旦那様の声が低く響くと、夫人の肩がピクリと揺れた。
「あなたは平民をお嫌いだそうだが――俺の妻はグリーンウッド侯爵夫人だ。そして、ルカは俺の息子。たとえ血が繋がっていなくとも、かけがえのない大切な子だ。正式にドネロン伯爵家宛てに抗議文を送らせてもらう。……そのつもりで」
旦那様は声を荒げていない。淡々と事務的な口調だった。けれど威圧感に満ちていた。
「まったく……。平民を蔑むほどの家柄でもありませんでしょうに。たしか、ドネロン伯爵夫人のご実家は、一代限りの男爵家だったと記憶していますわ。片腹痛いとは、このことですわ」
ヴェルツェル公爵夫人の言葉に、ドネロン伯爵夫人は顔を真っ赤に染めながら、足早に立ち去った。
――あの子供、大丈夫かしら? ドネロン伯爵夫人も、少しでも考えを改めてくれるといいのだけれど……
※ドネロン伯爵夫人視点
(……許せないわ、絶対に)
なによ、あの女。平民のくせに、あんなに余裕のある顔で、貴婦人たちの前に立つなんて……。
しかも夫は王都騎士団長? 子どもは神獣に守られてるですって? ふざけないで!
どうせ“いい人ぶってる”だけ。裏ではきっと、なにかやましいことをしてるのよ。
あんなすごい“神獣”を手懐けてるなんて――気に入らない。
……そうよ。神殿に報告しなくちゃ。
私はその足で、すぐに神殿へ向かった。
「レオン王都騎士団長の奥様、グリーンウッド侯爵夫人のことなのですけれど――神獣を手なずけて、もとは平民の騎士だったくせに、レオン様まで誘惑して今の地位を手に入れて……。きっと、あの女は悪い魔女ですわ!」
私は腹いせに、そうまくし立てるように言った。
「……なるほど。それは、見過ごせませんな。上にも報告いたします」
思ったよりも真面目に聖務官に受け止められて、私は少し意外だった。
どうせ神殿なんて、形ばかりの対応しかしないと思っていたのに。
しばらく待たされた後、奥の扉が音もなく開いた。
現れたのは、神殿の頂点、コルネリオ大神官だった。
(え? まさか……本当に?)
コルネリオ大神官は、まるで愉快な玩具でも見つけたかのように、楽しそうだ。
「大層、貴重な情報をいただきまして、感謝に堪えません。この件、私が直接預かりましょう」
(……まさか、コルネリオ大神官ご本人が出てくるなんて。ほんの少し言ってやりたかっただけなのに。ふふ……でも、思った以上に、面白いことになりそうですわ)




