32 ルカの捜索
――けれど、ふと横を向いたとき。
そこにあるはずのベビーカーが、跡形もなく消えていたのだった。
目がくらむような衝撃に、背筋がぞくりとした。
一瞬、何かの見間違いかと思って、周囲を見回す。でも、どこにも、ルカの姿はない。
「なんで?……ルカ?」
声にしようとした言葉が胸の奥で崩れた。
足が思うように動かない。世界が音を失ったみたいで、自分の心音だけが耳の奥に響いていた。
駆け出したいのに、体が追いつかない。
――早く探さなきゃ。早く……!
どうにか足を動かして、私はふらつきながらも前に進む。
目指したのは、すぐ近くの商店街。誰でもいい、誰か――誰かに助けを求めなきゃ。
「誰か……っ! 誰か、ルカが……!」
叫びながら、馴染みの八百屋の前へ飛び込む。
店先には野菜がずらりと並び、ちょうど女将さんが品出しをしていた。
「エルナちゃん!? どうしたの、顔が真っ青よ……!?」
私の姿を見るなり、女将さんが顔を強張らせて駆け寄ってくる。
私は思わずその腕にしがみついた。
「ルカが……ルカがいないの……! ベビーカーごと……!」
その言葉に、女将さんの顔色も、みるみる青ざめていった。
「それ、本当なの!? ちょっと、誰か――! 乾物屋の女将さーん、すぐ来て!」
その叫びに反応して、隣の店からも人影がのぞいた。
すぐに女将さんたちが駆け寄ってきて、小さな商店街がざわめきに包まれる。
「レオン団長に知らせるしかない」
誰からともなく声が上がり、素人が動くより先に、騎士団の力を頼るべきだと一致した。
「あんた! レオン団長に伝えとくれ――ルカちゃんが誘拐されたって!」
八百屋の女将さんが叫ぶと、すぐさま旦那さんが反応した。
「任せときな、すぐ団長のとこまで行ってくらぁ!」
そう言い残すや否や、店先から飛び出し、あっという間に商店街の通りの先へと姿を消した。
私はその場に膝をつきそうになりながら、かろうじて踏みとどまる。
息が詰まりそうで、胸が痛くて、でも――ルカを探さなきゃって気持ちだけが、何度も頭の中で繰り返されていた。
どれくらいの時間が経ったのかわからない。
やがて――
「……エルナ!」
聞き慣れた声が静けさを破って響いた。
顔を上げると、必死の形相で駆け寄ってくるレオン団長の姿があった。
私は駆け寄ってきたレオン団長に、すがるようにしがみつく。声にならない声が喉の奥でつかえて、言葉にならない。ただ、ルカが――と、それだけを伝えたかった。
「落ち着いて、大丈夫だから」
団長の腕が、しっかりと私の肩を包む。その温もりに、張り詰めていた感情が堰を切ったようにあふれ出し、私はその場に崩れ落ちそうになった。
「ルカが……ベビーカーが、目を離した隙に……いなくなって……!」
声が震えていた。悔しくて、情けなくて、自分を責める気持ちでいっぱいだったのに、団長は私を責めるどころか、深くうなずいて言った。
「わかった。すぐに全隊に連絡を回す。封鎖命令を出す。絶対に見つけ出す」
その言葉の強さに、心が支えられる。
八百屋の女将さんが私の背中をさすりながら、「エルナちゃんのせいじゃないよ、すぐに見つけようね」と涙声で言ってくれた。
レオン団長は騎士団の徽章に触れ、通信魔石に向かって命令を飛ばしていた。表情は冷静そのもの。でも、その目の奥には怒りと焦燥が揺れていた。
「ユリルとトミーにも連絡しろ。商業区、住宅区、それから北門と東門にも詰所を出せ。監視塔に見張りを上げて、目撃情報を追わせるんだ」
的確な指示が次々と口から飛び出す。その背中は、どこまでも頼もしかった。
だが、いくら情報を集めても、目撃証言は一向に出てこない。
王都の外に出た形跡も、今のところ見つかっていない。
焦燥と不安が胸を締めつける中で、ふと、私は家に残してきたアルトのことを思い出した。
「……アルトを呼んでこないと。きっと……ルカを探してくれる。あの子なら、絶対に――」
レオン団長は、真っ直ぐに私の目を見つめた。
そしてひとつうなずくと、すぐに振り返り、周囲の騎士たちに食堂へ行ってアルトを連れてくるよう命じかけた――その瞬間だった。
「……アルト?」
商店街の通りの向こうから、アルトが駆けてくるのが見えた。
大きな体を揺らしながら、一直線に、迷いなく私のもとへと向かってくる。
その姿に、胸がじんと熱くなる。
きっと、私たちに何かが起こったことを、アルトは感知したのだ。
ただの犬じゃない。アルトは魔獣――だからこそ、離れた場所からでも、異変に気づいてくれたのだろう。
「アルト、来てくれたのね……信じてたわ。お願い、ルカを見つけて」
私が願いを込めて声をかけると、アルトは鼻を鳴らしながら、ベビーカーのあった場所をふんふんと嗅ぎ始めた。
「まさか……」
レオン団長も、その様子にすぐに気づく。
「アルト。ルカを探せるのか?」
一声、アルトは鳴いたかと思うと、ついてこいとばかりに力強く駆けだした。
「よし。アルトに任せよう。追跡開始だ」
アルトは、空気のわずかな揺らぎの中から、ルカの残り香をたしかに拾っている。
私たちはその背中を信じて、必死で後を追った。
どれほど走っただろうか。
街の景色が変わり、人通りも少なくなる。
アルトが辿り着いたのは、王都の外れにある屋敷だった。
高すぎず品のある鉄製の門には、繊細な装飾が施されている。手入れの行き届いた庭には、季節の花が咲き、奥の方には芝生が広がっていた。落ち着いた色合いの石造りの建物は、名のある貴族の屋敷であることを静かに主張している。
「……ここは?」
私は立ち止まり、門越しに中を覗き込む。
ちょうどそのとき、風が吹き、門の先に広がる芝の庭に、小さな笑い声が響いた。
「きゃっきゃっ」
その声に、胸が跳ねた。間違いない――ルカの声だ。
門の格子の隙間から見える芝の上で、ルカが嬉しそうに小さく跳ねていた。小さな手をパタパタさせて、よちよちと芝の上を歩きながら、目の前の女性の周りを楽しそうにくるくると回っている。どうやら、その女性が両手を広げて追いかけるふりをし、ルカは「つかまえてごらーん」とでも言うように、笑いながら逃げているようだった。
……追いかけごっこ……?
私は息を飲んだ。誘拐されたはずのルカが、どうして――あんなに楽しそうに、笑っているの?
その女性がふと立ち止まり、ルカに近づいてしゃがみ込んだ。柔らかなドレスの裾が揺れている。
「……あの女性は、誰かしら?」
思わず呟いた私の横で、レオン団長が低く声を落とした。
「……あれは、ミュランディス伯爵令嬢だな。この屋敷はミュランディス家のものだからね。だが、なぜルカがここに?」
風が芝をなでるように吹き抜ける中、ルカの無邪気な笑い声だけが響いていた。
けれどその明るさとは裏腹に、胸の奥にざわりと疑念の種が芽を出す。
私たちの思考は、得体の知れない違和感で塗りつぶされていった。
――続く。




