22
魔獣はアルトと名付けた。
アルトと暮らし始めて、もう二月ほどが過ぎていた。
開店準備が一段落するころ、私はいつものように食堂の奥のソファ席に腰を下ろす。
大きくなったお腹をそっとなでながら、隣にぴたりと寄り添って横たわるアルトに、頬をすり寄せた。
銀灰色の毛並みをもつ魔獣――アルトは時折嬉しそうに尻尾を揺らした。見た目は大きな犬にしか見えないため、食堂に来る誰もが彼を怖がることはない。それどころか、今やこの町の人気者になっていて、商店街の女将さんたちにすっかり懐いていた。今日も変わらず、近所の商店街の女将さんたちが食堂に集まってくる。
私の身体を気にかけつつ、にぎやかなおしゃべりの花を咲かせた。
「エルナちゃん、お腹大きくなったねぇ……歩くの大変だわね。気をつけてね」
「この前仕立てた妊婦服、どうだった? 着心地悪かったら言ってね。もっと柔らかい布で作ってあげれば良かったわ」
「最近よく眠れてる? お腹が大きいと寝苦しいでしょ。抱き枕を作ってきたのよ。これ、使ってみて」
少し照れながらも、私は笑顔で「ありがとうございます」と頭を下げた。みんながこうして来てくれることが、心強くて、嬉しい。
「アルトちゃん、今日もお利口さんねえ。ほら、林檎を持ってきたよ」
「苺もあるよ~。朝仕入れたばかりの、甘いやつ!」
そのとき――アルトがぴくりと耳を動かし、女将さんたちの声に反応するように立ち上がった。
そして、ひょいと軽やかな足取りで歩み寄り、差し出された苺のそばへと顔を近づける。
「ふふ、やっぱり来たわね。はい、どうぞ」
アルトは嬉しそうに尾を小さく振りながら、苺をひと粒ずつ、大切そうにかじっていく。
その仕草はまるで、おやつをもらった子どもみたいだった。
「ほんと、なんでアルトちゃんって、こんなに食べ方が可愛いのかしらねぇ……」
「いつも苺のヘタのとこだけ、ちゃんと残すのね」
「ほんとに賢い子だわ……果物と甘いパンが好きなんて、うちの孫と一緒よ!」
女将さんたちの目はすっかりトロけていた。
そんな和やかな空気の中、食堂の扉の鈴が鳴った。
「おはよう」
低く、けれどどこかやさしい声。レオン騎士団長が、毎朝の日課のように現れた。
「アルト、今日も元気か?」
アルトはレオン団長を見上げ、しっぽをふわりと一振りして応える。
「果物に、干しぶどうがたっぷり入った甘いパンを持ってきたぞ。おや、もう女将さんたちにもらっているのか?……もっと肉が好きなもんだと思ってたが、ほんと、お前は変わってるな。女将さん達、いつもエルナとアルトがお世話になってます」
女将さんたちは、レオン団長に軽く会釈を返す。
「ありがとうございます、レオン団長。アルト、ほら、お礼は?」
苺を食べ終わったアルトは、くぅんと鳴いてから、レオン団長の手に鼻をすり寄せた。レオン団長は微笑んで、ふわふわの頭を撫でる。
そして、私の方をちらりと見やると、少し照れくさそうにしながら、持ってきた品を順に並べていく。
「それから、これも。いつもの薬草と、腰当てクッション。お腹の重さで腰が痛むって言ってたよな。それに……春物の軽い上着と、えぇと……髪飾り。無理はするなよ」
「ふふっ……ありがとうございます」
女将さんたちがにやにやしながら後ろでヒソヒソ声を飛ばす。
「また団長さん、来たわよ」
「あれ、毎日じゃない?」
「気遣いが、まるで妻を溺愛する旦那なのよ」
「いっそのこと、結婚しちゃえばいいのに」
私はその声に顔が熱くなる。レオン団長も耳まで赤くなりながら、アルトを散歩に連れて行った。
夕方になると、トミーがアルトを連れて散歩に出かける。
町の人々は、そんなふたりに果物を分けてくれたり、優しく声をかけてくれたりする。
一緒に暮らし始めたころは少し痩せていたアルトも、今ではふっくらとして、すっかり健康的になった。
日々は静かに、穏やかに流れていく。
私の体は少しずつ重くなり、椅子に腰かける時間も増えてきた。
それでも――
周りの人々のあたたかさと、アルトのやわらかなぬくもりが、いつも私を優しく支えてくれていた。
そしてある朝のこと。その日は食堂の定休日だった。
空はどこか白く霞んでいて、肌寒いような、でも春の匂いが混じった静かな朝だった。
私はふいに、下腹に鈍い痛みを感じて、思わずしゃがみ込む。
「あ……」
お腹に手を当てた瞬間、体の奥で何かがゆっくりと動き出すのを感じた。まだ弱いけれど、確かに始まっている――そんな予感。
アルトがすぐにそばへ駆け寄り、私の顔をじっと見上げる。その金色の瞳には、不安と心配が浮かんでいた。
「大丈夫……だから……女将さんたちを呼んできて……生まれそうなの……」
かすかに微笑んでみせると、アルトはしっかりと理解し、くるりと振り返って駆け出した。戸口を軽やかに抜け、まっすぐ商店街の方角へ。
遠ざかっていく足音を聞きながら、私はそっとお腹に手を当てる。――陣痛の痛みをこらえながら。




