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大人の腰ほどの背丈に、額の“眉毛のような模様”がひときわ目を引いた。
「……まさか。おまえ……」
次の瞬間、魔獣は勢いよくレオン団長に飛びつく。
ぺろぺろと顔を舐め、尻尾をぶんぶん振っていた。
「うわっ、ちょ、やめっ──こら!」
レオン団長が笑った。その声には、ほんの少し呆れたような響きが混じっていた。
その顔を見て、私も思わず吹き出してしまう。
「この子、知ってるんですか?」
「……昔、野営中にパンくずやって、懐かれた魔獣だと思う。まさか、ここまで育ってるとは……」
魔獣は私の方にもゆっくりと歩み寄ってきて、ぴたりと隣に座ると、しっぽの先でそっと私の足に触れてきた。
まるで「撫でていいよ」とでも言いたげな仕草に、私は思わず小さく笑ってしまう。
おそるおそる手を伸ばすと、魔獣は少しだけ首をかしげてから、素直にそのまま頭を差し出してきた。
毛並みは驚くほどやわらかくて、温かい。
「……お腹、すいてるのかな?」
バスケットの中から小さめのパンをひとつ取り出して、そっと差し出す。
魔獣はくんくんと鼻先で香りを確かめ、それからぱくりと一口で食べた。
食べ終わると、満足そうにしっぽを左右にふりふり――さらに私の膝にぽすんと頭を乗せてきた。
「……ちょ、ちょっと。懐きすぎじゃない?」
そんな私の困惑をよそに、魔獣は喉を鳴らして満足そうに目を細めている。
――見た目は犬なのに猫みたい……
「こう見えて、こいつらは人の“内側”をよく見てる。言葉や態度よりも、もっと深いところ……本当の気持ちとか、善意みたいなものを。だから、何も怖がらずに近づいていける相手を、ちゃんとわかってるんだよ」
「……そっか。じゃあ、私のこと、いいやつだって思ってくれたのかな」
そう言いながら、私はほんの少しだけ照れたように笑った。
ふと吹いた風に揺れて、シュリーヴァの木からピンクの花びらがはらはらと舞い落ちる。
魔獣はそれに気づくと、ぴょんと跳ねて一枚の花びらをぱくっとくわえた。
すぐにまた別の花びらがひらひらと舞い、今度はそれを追いかけて駆け出す。くるくると踊るように動き回る姿に、思わず私は吹き出した。
「……楽しそうだな」
隣で団長も、わずかに口元をほころばせる。
穏やかな風に花びらが舞う。魔獣の足音と、笑い声。
春の午後は、そんな幸せに満ちていた。
陽が傾き始め、空気が少し冷たく変わった。帰ろうとバスケットを手に持ち上げると、魔獣が当然のようにすっと立ち上がって、私のあとをついてくる。
「……え、ついてくるの?」
振り返ってみても、魔獣はきょとんとした目で私を見上げたまま、首を傾げている。
まるで、「どこへ行くの?」と言っているかのように。
私は困って団長を見た。
「この子……どうしたらいいですか?」
団長はしばらく無言で魔獣を見ていたけれど、やがてひとつ頷いて私に提案する。
「エルナのところで飼ったらどうかな? 番犬代わりにちょうどいい。形もぱっと見、犬にしか見えない」
「番犬って、これ魔獣ですよ……」
思わず言いかけて、でも魔獣のしっぽが静かに揺れているのが目に入って、私は口をつぐんだ。団長が言うほど悪い案でもない。確かに、ついて来たってことは、ここで引き離すのもかわいそうだ。
「食堂のマスコットにもなるさ。見た目も悪くないし。この種類の魔獣は人を襲うこともないしな」
魔獣は、その言葉を理解したかのように、私の足元にちょこんと座り、しっぽをふわりと一度だけ振った。
それを見て、私はつい苦笑する。
「……そんな顔されても」
そのとき、団長がふっと口を開いた。
「……餌も世話も、俺が毎日やる。だからお前は、ゆっくりしてろ」
私は少し目を見張って、団長を見上げた。
「あいつは強い。お前をちゃんと守ってくれる。……俺が、いつもそばにいられるわけじゃないからな」
その言葉にたくさんの優しさが詰まっているようで、私は何も言い返せずに、ただ静かにうなずいた。
魔獣が私の手の甲に顔をすり寄せてくる。柔らかな毛並みに触れながら、私は優しく声をかけた。
「じゃあ……今日から、よろしくね」
※アレグラン視点
「ちっ……また便所掃除かよ。昨日も俺だったろうが……!」
俺はモップをバケツの濁った水に突っ込み、べちゃりと濡れたまま床に押しつけた。旧棟のトイレは底冷えし、酸っぱい臭いが鼻をつく。
「……クソ、俺は元騎士だぞ。王族の護衛もしたことがあったのに……なんで今、便所の床なんか……」
ぐしゃ、と水を吸ったモップの先が滑り、思わずバランスを崩しかける。
「……っくそ!」
苛立ちが爆発するように、俺はバケツを足で蹴り飛ばす。
水がばしゃっと跳ねて、冷たい飛沫が足元を濡らした。
濡れた床を睨みつけながら、俺は奥歯を噛みしめる。
(……帰ろう。カリーナがいる、あの家に)
俺の傷ついた心を支えてくれているのは、あの白い家だけだ。
優しいカリーナと、無邪気な子ども。
朝、あの家を出てきたばかりなのに、もう戻りたくなっている自分が情けない。
だが、せめて声だけでも聞きたかった。
あの子の声も、カリーナの微笑みも。あそこには、ちゃんと俺の居場所があるんだ!
そう思いながら、通い慣れた道を引き返す。
白い壁が見えたとき、ふと足が止まった。
家の前に、男がひとり立っていた。
よそいきの上着に手土産らしき包みを抱えて、玄関を見つめている。
(……誰だ?)
警戒をにじませながら近づこうとしたそのとき、反対側の路地からもうひとりの男が現れた。
軽く整えた髪、花束を抱えて、まっすぐ俺たちの家へ歩いてくる。
3人の視線が交差した。
一瞬の静寂のあと、それぞれが無意識に発した言葉が、重なるように響いた。
「……お前、誰だ?」




