7.
梶谷と副島が三島邸に着く頃には既に野次馬の群れが出来上がっており、それが描いた弧の内側では十数人の警察官が洋館内を物色している。
人々を押し除けながら近づいてくる梶谷の存在に気がついた警察官達は、忌々しそうな顔を隠そうともしなかった。
“警察よりも、法よりも先に”
副島に対してそんな大見得を切っていた梶谷だが、実際は警察に先を越されてしまう事が往々にしてある。
その結果、彼が現れた事件は“何故か”捜査が打ち切りになってしまう事が多くなり、何某かの権力が働いているらしいという事は末端の人間にも簡単に察せられる状況だった。
もとより強い警察官の正義感にデモクラシーという社会の潮流が後押しして、梶谷の扱いは不倶戴天といった具合である。
「おう又三郎。また俺たちの仕事を邪魔をしに来たのか?」
そんな梶谷に対して親しげに話しかけてきたのは、梶谷が軍医時代に同僚であった近藤である。
元々軍人だった彼だが、日露戦争の終結を機に警察官へ転身し、今ではそこそこのポストに就いているらしい。
「いや、今回は違うよ。三島さんとは知り合いだったんだ」
「そうか。お前は本当に金持ちの知り合いが多いな」
梶谷は優しい笑顔で、すれ違いざま近藤の肩に手を置きながら館に向かって歩を進める。
会釈をしながらそれに続いた副島を見て、近藤は酷く驚いた顔をした。
「お前、遂に結婚したのか?」
梶谷は首だけで振り返り、横目に近藤を見た。
「彼女は助手だよ。初めの頃は男装なんて事までさせていたけれど、最近はそう見える様にしてついてきてもらっているんだ」
「そうか、てっきりインポテンツが治ったのだと思ったんだが。しかし、何故わざわざ女なんか雇ったんだ?」
近藤は顎に指を当てて眉間に皺を寄せる。
「——看護婦の事を助手とは言わないよな?」
デリカシーの欠片もない近藤の発言に、しかしノスタルジー故か、それが寧ろ彼の好ましい点である様な気がして梶谷は苦笑し、近藤へ向き直る。
「彼女は優秀だよ。今の君の様な考えがマジョリティである内は殊更にね。まあ、僕もそれに気がついたのは最近なのだけれど」
梶谷はそう言うとわざとらしく周りを見て、その後改めて近藤を見る。近藤以外の警官達は、権力を後ろ盾に悪事を犯している疑いのある男と自身の上司が楽しげに会話しているのをどこか怪訝そうに見ていた。
「そんな事より、こんな奴らを現場に通してしまって良いのかい?」
ばつの悪そうな梶谷の言葉に、近藤は歯を見せて笑う。
「構わん。他の者達は戦争でのお前を知らんだけだ」
「僕はもう軍人じゃないよ。それに“軍人崩れがやくざな仕事”なんて、ありふれた話じゃないか」
「俺にはお前が軍を辞めた理由がわかるし、軍を辞めた人間が何の支援も無しに飯を食っていく事の大変さも理解しているつもりだ。俺は運が良くて警察官をやっているだけだという事もな」
「——警察官がそんな事言って良いのかよ」
「良くはない——が、最近の世間は潔癖過ぎる——とも思う。このまま行けば、“死にたくない”なんて利己的な理由で同僚の屍体を盾に使った俺も大犯罪者になっちまうんじゃないかって怯えてるよ」
近藤の表情に一瞬だけ陰が落ちた。が、すぐに明るい表情に戻る。
「——まあ安心しろ。証拠が出ればいつでも逮捕してやるから」
梶谷も近藤に合わせて明るい笑顔を作った。
「それは、気を付けなければいけないな」
梶谷と副島は近藤と別れ、三島信一の寝室に向けて続く長い廊下を歩いていた。
「あの、先程の彼は?」
副島は何処か気まずい雰囲気に耐えられず、取り敢えずの疑問を口にした。
「ああ、前の仕事で同僚だった近藤という男だ」
「その何というか、良い方でしたね」
「馬鹿なだけだよ。馬鹿でお人好しだから、軍人なんて続けられなかったんだろうね」
副島はこれまでに見た事の無い程悲しげな梶谷の無表情を見て、喉まで出かかっていた言葉を飲み込んだ。
“梶谷先生も、軍人を続けられなかったじゃないですか”