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6.

 梶谷診療所の応接室に普段とは少し異質な緊張感が生じていた。緊張感の中心に居るのは、佐伯ハルその人である。

 女学校でどんな話をしたのかは知らないが、梶谷には副島がまさか佐伯ハル本人を、しかも翌日に連れて来るなど全く想定外だった。


 確かに考えてみれば、直接本人を連れて来て梶谷が話を聞くというのが一番手っ取り早い。しかし女学生を連れ込むとは、男である梶谷にはなかなか出てこない発想である。そこは素直に副島の手柄を認めるべきだろうと、彼は思った。


 ——梶谷は改めて、背の低いテーブルの向こうに座った女学生を見る。


 三島邸に出入りする美少女。調査を始めてから幾度も聞いた噂話だ。

 しかしそれを聞く度に梶谷は内心では、所詮は街で話題になる程度のものだろうと高を括っていたのだった。何なら三島千代や副島だって、ともすれば街で噂になってもおかしく無い位の美女ではないか、そんな事すら考えていたのである。


 “仮に創造主とかいうのが居たとして、ソイツが芸術方面に大変なやる気でも出したのだろうか——”

 結局はそんな大袈裟な想像で、梶谷の持っていた考えが簡単に塗り潰されてしまう程、身体の部位のそれぞれが少しの狂いもなく配置された完全な美少女がそこに居た。


 その完全性からは、普段梶谷が客人に対して用いる無表情と同様、いや、それ以上の効果が自然と生まれている。

 

 清楚で妖艶、冷涼で情熱的、素朴で奢美——。

 あらゆる要素を強い力で好意的な印象に捻じ曲げて、それを矛盾など気にせず混ぜ合わせた結果、奇跡的な調和が果たされていた。それはプリズムによって分散された光のように、見る者に自由な解釈をさせる余地を与えている。


 副島がハルにお茶を差し出した。湯呑が机に触れた際、微かに鳴った乾いた音で正気を取り戻した梶谷は、努めて優しげに、親しみやすい態度を意識しながら口を開いた。


「この診療所の院長をしている梶谷又三郎です。佐伯ハルさん、わざわざお越し頂いて申し訳ないね。色々とお尋ねしたい事があるのだけど、いいかな?」


「ええ、どうぞ何でも」


 ハルは、梶谷や副島が感じている緊張など微塵も気にしていないかの様に落ち着いた口調でそう言うと、差し出された湯呑みに口を付け「美味しい」と一言呟いた。副島は梶谷の隣に座った。


「では早速。三島千代さんについてなんだけれどね——」


「昨日も思ったのだけれど、どうしてあの子の事を私から知りたがるのかしら」


 ハルはそう言って湯呑みをテーブルに置き、悪戯な笑顔を浮かべる。私と千代ちゃんがどんな関係だったか、とうに知っているのでしょう?

 そう言っている様な笑顔だった。


 ——女学生がここに来るには両親の許可が必要だった筈で、娘を女学校に通わせる事の出来る人間が梶谷診療所の本当の仕事を知っている可能性は高い。しかし、それを娘に話すかどうかはその限りでない。


 そんな短い逡巡の末、自分の仕事についてハルは詳しく知らないだろうと決め打ちした梶谷は、物々しい雰囲気を演出する為に深刻そうな顔をした。


「君が生前の千代さんと親しくしていたと言う噂を聞いてね。実は、千代さんの死因が少し不可解なんだ。少なくとも、病気で亡くなった訳では無い。僕ら医者には、千代さんのお父様に真実を知らせる義務がある」


 そんな事をいけしゃあしゃあと言ってのけられる梶谷に、副島は寧ろ尊敬すら覚えながら冷たい視線を彼に向ける。


「——自殺だったのではないでしょうか」


 ハルは何処か悲しげな表情で、しかし淡々とそう言った。

 意外な言葉に虚を突かれた梶谷だったが、あくまでも表情には出さず「何故そう思うのかな」と短く尋ねる。ハルは表情をそのままに答えた。


「千代ちゃんが亡くなった日、私千代ちゃんのお家に居たんです。でも喧嘩してしまって」


「喧嘩、何故?」


 事件当日に三島邸に居たというハルの言葉を聞いて副島は少し眉を動かしたが、梶谷の表情は一切変わらない。


「私、信一さんの愛人だったの。彼の愛人になれば、千代ちゃんのお家に好きな時に行けると思って」


「愛人?しかし君、学生だろう?」


 探していた情報を得た喜びを隠すように、梶谷は大袈裟に驚いて見せる。


「ええ。そこは彼も分かってくれていたから、愛人と言っても、彼のお部屋にお邪魔して、膝枕をしてあげたり添い寝をしてあげる位の——ええと、キスはして差し上げたのだったかしら。とにかく、それくらいの事しかしていないわ」


 梶谷は、以前三島信一が“肉体関係があった訳ではない”と強く否定していたのを思い出していた。ハルの美貌をもってすれば、或いはそんな無茶な話も通せてしまうのかもしれない。そう思った。


「それで、その日も信一さんのお部屋に行こうとしたら、千代ちゃんに行かないでって止められてしまったんです。それ自体は何度もあった事なんですけれど、その時はかなり強く止められてしまって」


 ハルの表情が、一段と曇る。


「そこからは売り言葉に買い言葉でした。私は千代ちゃんと逢う為にそうしているのに、あの子は分かってくれなかった。結局、私は千代ちゃんのお部屋を飛び出して信一さんの所に行ってしまったんです」


 ハルの目から涙が溢れる。


「朝になって千代ちゃんのお部屋に声をかけたのですけれど、返事が無くて。でもその時はまだ怒っているのかな位に思っていました。まさか亡くなっているなんて」


 梶谷の隣で黙っていた副島が口を開いた。


「——気を悪くしたらごめんなさい。それは、自殺してしまう程の喧嘩にはとても思えないのだけれど」


 梶谷はすかさず、間の悪い質問をした副島の足を軽く踏んで注意する。

 実際、三島千代は明らかに他殺である。なのでハルの“自殺だった”という言葉に違和感を抱くのは間違ってはいない。

 しかし、もう少し泳がせていれば、何か決定的な矛盾が出て来たかもしれないと言うのが梶谷の本音だった。


 ハルはそんな机の下の出来事など知る由もなく、床に置いていた革製の学生鞄を持ち上げると中から手紙の束を取り出し、テーブルに置いた。


「私が何故自殺だと思ったのかは、ここに書いてあります」


「拝見しても?」


 梶谷は無表情で尋ねた。真剣そうな雰囲気の演出には成功しているが、実際は彼の機嫌が少し悪くなっただけである。


「ええ、是非」


 梶谷は手紙の束を手に取ると、ばつの悪そうな顔をしている副島にも何枚か渡し、手紙に目を通した。

 手紙はどうやら三島千代がハルに宛てて書いたものらしかった。

 殆どは“親愛なるハルお姉様”から始まり、その後には何とも悩ましげな言葉がつらつらと続いている。副島も梶谷から注意を受けたことなどすっかり忘れてしまったかのように赤面しながら手紙を読んでいた。


 “貴女がお父様のお部屋に行ってしまう度に胸が裂ける様な気持です。”


 “いずれお父様のお身体にも私と同じ様に噛み跡が刻まれてしまうのではないかしら。そんな事を想像しては枕を濡らす日々です。”


 梶谷が手紙に目を通す中で、まずこれらの文章が彼の目を引いた。

 あの乙女に歯形をつけた人物は佐伯ハルである可能性が高いという事くらいしか分からない訳だが、何の情報も無かった頃からは大きな進歩だった。


「すみません。そろそろお暇させて頂いても宜しいですか?お父様とお母様にあまり長居しないよう言われているので」


 ハルはそう言うと開いていた鞄を閉じてから小脇に抱え、立ち上がった。


「お手紙はしばらくこちらに置いておきますので、お好きに読んでください」


 手紙に釘付けだった副島だが、ハルの発言に驚くあまり素早く顔を上げた。


「いいの?大切なものでしょう?」


 ハルは力のない儚げな笑顔を副島に向ける。


「一人でいる時、このお手紙の束が目に入るだけで泣きたくなってしまいます」


「——親しい友人を亡くしたばかりだというのに、ご協力どうもありがとう。副島君、送ってあげなさい」


 腰を据えて手紙を読めるなら、梶谷には佐伯ハルをこれ以上留めておく理由は無い。副島は梶谷の指示通りハルに付き添い、応接室を後にした。



 ハルと副島が部屋から出て行った後、梶谷は改めて三島千代の手紙を読み始めた。

 事前に副島からエスという文化について話を聞いた際、同性愛的だがプラトニックなものであるという説明を受けていた。しかし手紙には案外しっかりと肉体関係があったような記述が散見される。

 それ自体もそうだが、寧ろそんなものを今日初めて会った男に読ませてしまう女学生の存在に、彼は内心苦笑した。


 その後数十分が経って、梶谷は粗方の手紙に目を通し終えた。

 手紙には日が経つに連れて三島千代が不安定になっていく様子が生々しく記載され、最後の方には“心中”などと剣呑な単語が幾つか出現している。内容を信頼するのであれば、三島千代が自殺してしまいかねない精神状態であった事に説得力はありそうだった。


 しかし三島千代が殺害されたその時、近くに居たというのは疑いをかけるのに十分な理由である。

 まさか女学生が医術を習得しているとは思えないが、それでも一応聞いておけば良かった。梶谷がそんな事を考えていた時である。

 

「先生!」


 突然乱暴に応接室の扉が開いたかと思うと、息も絶え絶えの副島が現れ、叫ぶように梶谷を呼んだ。


「副島君、早かったじゃないか。そんなに急いでどうした?」


「三島信一さんが、何者かに殺害されたそうです」

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