4.
初日以来殺人事件など起きる訳も無く、梶谷診療所での副島の主な仕事は簡単な家事と帳簿の計算という案外まともで退屈なものだった。
年頃の未婚の男女が一つ屋根の下。言葉にすればどこか淫靡な響きさえ感ぜられる状況だったが、診療所での仕事が主である副島に対して梶谷は日中の殆どを外で過ごしており、二人の生活が交わるのは朝夕の食事と客人の応対時のみというのが実情である。
客人の応対の際ですら、梶谷は客人の世間話を適当にあしらって百数十円の“診察料”を受け取るとさっさと帰してしまうばかりで、帳簿の計算さえするのなら副島がその場に居合わせる必要は無い様子なのだった。
そうして日々を重ね、帳簿に書き込んでいく大きな金額への驚きや梶谷への性的な警戒心も副島の胸中からいよいよ褪せ始めた頃、梶谷は珍しく来客の無い日に副島を応接室へ呼び出した。
「やあ副島君。仕事は慣れてきたかな?」
副島がソファに座ったのを確認すると、事務机で踏ん反り返っていた梶谷は煙草に火を着ける。
「ええ。仕事の内容だけ考えれば助手というよりは下女のようですが」
「ふむ。下女にしては随分と洒落た格好だね」
梶谷の指摘通り、最近は副島も日中は街へ繰り出して洋服を買ったり活動写真を見たりする機会が増えていた。彼女はつい口を突いて出てしまった悪態に頬を赤らめて少し黙った後「申し訳ありません」と短く言った。
「謝る必要は無いよ。先に騙したのはこちらの方だ。たかだか数日で不信感が拭い去れるとはこちらも思っていないからね」
梶谷は何でもなさそうにそう言うと一度煙を吹かして煙草を灰皿の縁におき、机に置いた肘の先で指を組んでから仰々しく口を開いた。
「所で初日の事件、覚えているかな?」
「ええ。忘れもしません」
「来週、三島信一に来てもらう事になった」
三島信一。例の事件の依頼主の名前であるが、ある程度仕事をこなして来た副島にはそれが態々応接室に呼び出してまで伝える要件で無い事が直ぐに理解された。
「“診察料”の支払い、今月からでしたっけ?」
私には帳簿係がすっかり板についておりますよ。そんな風に大声で叫ぶ様な、粗雑な演技でとぼける副島に、梶谷は煙草を口に運びながら優しい笑みを溢すだけだった。
「いや、支払いは予定通り来月の初めからという事になっている。今度来てもらうのは彼に少し聞きたい事があるからだ」
「聞きたい事、ですか」
「ああ。しかし、保身の為我々に依頼をするような人物の言うことなど鵜呑みには出来ない」
所々、変に自分の仕事に対して自覚的な梶谷の言葉を腹の中では冷やかに思いつつ副島は「まあ、そうでしょうね」と軽く相槌を打った。
「だからある程度裏が取れる状況にしておきたいのだよ。そこで——」
梶谷は煙草を咥えたまま引き出しから地図を出して机上に広げ、近くの女学校を指差した。被害者の乙女、三島千代が通っていた女学校だった。
「君には今からここへ行き、佐伯ハルと言う女学生について情報を集めてもらいたい」
予想外の方向に飛躍した要求だった為に、副島は「女学生の情報ですか。ですが何故?」と少し困惑した様子で聞いたが、梶谷は相変わらず飄々としている。
「事件当日、三島は愛人と会っていて、ついでに阿片をやっていた。これだけ聞けば誰だって一番初めに疑うのは愛人だ。娘が邪魔で——とか、阿片で酔っている内に——とかね。それで僕はここ数日その“愛人”について色々と探りを入れていたんだ。誰かさんとは違ってショッピングになど目もくれずに」
梶谷の言葉尻に諧謔的な雰囲気を感じ取った副島は、敢えてわざとらしくそっぽを向いて「下女だなんて大変失礼な物言いでした。重ね重ね申し訳ありません」と不貞腐れた様に言った後「え、愛人ってその女学生だったんですか?」と視線を梶谷に戻した。
「確実という訳では無いのだけれどね」
「この女学校へ行けという事は、そのハルさんもそこに通っているのですよね?千代さんのご学友だったからお家に遊びに来ていただけでは?」
「勿論僕だってそう思ったさ。けれど周辺の住人に聞く限りでは、あの館に出入りした女の話はその佐伯ハル以外に出て来なかった」
「主人は阿片を喫むなんて事を、それも愛人の前でしていた訳ですから、きっとその愛人も阿片を喫んでいて、その為に隠れて通う必要があったという事はありませんか?女学生があんな猟奇殺人を起こせるとはとても思えないのですが」
「愛人だったからといってソイツが必ず犯人であるという訳では無いし、そもそも佐伯ハルが本当に愛人だったのかすら定かではない」
「——少なくとも後者を定かにする為に私に女学校へ行けという訳ですね」
梶谷は「そう言う事だ」と短かく言った後、少し間をおいて「君は優秀だけれど——いやそれ故なのかな?結論を急ぎ過ぎるきらいがある。学生時代はそれで良かったかもしれないけれど、ここで働くなら——」
「それにしても、この短期間でよく愛人の候補を見つけられましたね」
何やら小言が始まりそうな気配を察知し、副島は話題の転換を急いだ。
何が“ここで働くなら——”だ。新しい仕事と宿、或いは結婚相手の一人でも見つけてしまえばこんな職場こちらから願い下げである。
副島の態度に梶谷は少しだけ面食らった様子だったが「名前を割り出すのは少々手間取ったけれど、“三島邸に出入りする女学生”については一瞬だったよ。噂話になっていたからね」と副島の言葉に答える。
梶谷の答えに、副島は元より切れ長の目を更に鋭くさせながら「金持ちは嫉妬も買いやすいですし、その手の下卑た噂話の種としては最適という訳ですか」と冷たく言い放った。
「確かにそんな側面は多分にあったとは思うけれど、その噂は少し性質が違ったように思うな」
梶谷はそう言うと、とうに吸い終わっている煙草を灰皿に放り投げ、頭の後ろで指を組んで少し上を見上げた。
「曰く、この世のものとは思えない程の美少女が三島邸に度々出入りしている。だそうだ」