3.
副島は梶谷に続いて梶谷診療所の玄関を抜け、内装を改めて見渡しながら思案に耽っていた。
——初めて来た時、どうして気が付かなかったのだろう。この建物の部屋構成は凡そ診療所のそれではない。
客室には高級そうなベッドまで用意されているが病床は無く、応接室はあるが診察室は無い。
つまりこの建物の主、元軍医を名乗る目の前の男は医療行為で生計を立てている訳ではないのだろう。
館の探索などという仕事も、今思えば医者の助手の仕事としては全く不適切だ。
不信感から生まれた疑念をぐるぐると脳内で巡らせている副島を他所に、梶谷は涼しい顔で応接室に入っていった。彼は応接室に入ると、部屋の奥にある木製の大きな事務机、そこに据え付けられた椅子に腰掛けて足を組み、煙草に火を着けた。どうぞ何でも聞いてくれ。とでも言うような態度である。
副島も梶谷を追って応接室に入り、事務机の前に向かい合わせで置いてあるソファに座ったが、そのままソファに挟まれた背の低いテーブルを睨み続けるだけで、目線を梶谷に向けられない。
「——先生は金欲しさの為に、あんな猟奇殺人の犯人の逃亡に加担するつもりですか?」
呟くような副島の言葉を聞いた梶谷は煙草を口から離すと一息長く煙を吐き、少しだけ口角を上げてテーブルを見つめたままの副島を見る。
「随分と婉曲的だ。まあ、金欲しさという点については全くその通りだけれどね」
それを聞いた副島は何か言いたげに梶谷を睨むが、梶谷は煙草を持っていない方の手を少し挙げて彼女を制し、言葉を続ける。
「しかし問題なのは犯人の逃亡に加担するつもりなのかという点だ。それについて僕は当然違うと答えるけれど、君はそれが聞きたいんじゃないだろ?」
副島は「ええそうですね」と言って一呼吸おき「何故あの子の死因は心不全ということになったのですか?」と仕事に生まれた疑念の元凶——梶谷による死体検案書の偽装について質問をした。
副島は当然これが梶谷にとってクリティカルな質問だろうと考えていた。
「大きな理由としては二つあるが、どちらも端的に言うなら、警察が邪魔だからかな」
深刻そうな副島に対して、梶谷は変わらず意地の悪い笑みを浮かべている。
「まず第一の理由として、阿片を隠し持っているようなヤツが警察に頼るなんてこと出来る訳ないだろ?」
梶谷はそう言って再び煙草を口に運んだ。吸引によってやや激しくなった煙草の火は、薄暗い部屋で彼の指の背を弱々しく照らした。
副島は不服そうな顔を隠さず、より強い目つきで梶谷を睨んだ。
酷い論点ずらしである。阿片を報告した後、梶谷の仕事に何か大きな変化があったようには思えなかった。何より単純な話で、主人が警察を呼びたければ阿片を処分してしまえばいい。主人が中毒者であったとしても帰り道に梶谷が言っていた通り、あの主人にとって阿片の入手自体は容易なはずである。結局文書改竄などという大それた犯罪の必要性は無い。
梶谷は副島を見ると諦めたように煙草を口から離して煙を吐き、目だけで右上を見て後頭部を掻きながら話し始めた。
「新規の仕事なんて滅多に入らないから、本当はゆっくり説明しようと思っていたんだけどね。まあ良い。第二の理由として、まあひとつ目のやつは冗談みたいなものだから、こちらが本命なんだけれど——」
副島は固い表情で再びテーブルを見据えていた。本来警察に頼るべき主人が依頼者である、つまり文書改竄に積極的であったという点、そんな主人の弱みを握っておくと都合が良い理由、警察を妨害する必要性、犯人に加担するつもりはないという梶谷の言葉、エトセトラ。
これまでの状況から、彼女の脳裏には梶谷の仕事についてある一つのの推測が浮かんでいた。
「——犯人を裁くのは法ではなく、あのご主人という事ですか?」
梶谷は持っていた煙草を灰皿に押し付けて火を消すとそこに吸殻を放り込む。そしてすぐに新しい煙草を咥えて火をつけ、火が安定すると副島を薄笑いで見据えた。
「ああ。犯人を捕まえて主人に引き渡した後は煮るなり焼くなり、或いは音通り捌くのかも。という訳だ。とても警察なんて呼べないだろ?」
「私刑だなんて野蛮です。この国は法治国家で、ましてやあのご主人は上流階級でしょう?」
「僕の知る限り、まあ僕は僕に依頼を持ってくるような人間しか知らないのだけど、とにかく人間は権力を持てば持つほど野蛮になる傾向があるし、階級が上流になればなるほど法は通用しなくなる」
「それは、私刑を肯定する理由になっていません」
「世間にとってはそうかもしれないけれど、僕がそれを肯定する理由は最初に君が言っただろう。怒りを持続させる為だけに馬鹿をやるのはよしたまえ」
「——結局、お金ですか」
「そうだ。君は卑しいだとか思うかもしれないが、現実問題として持っている金に比例して生活が脅かされる確率が低くなる」
「お金についてはわかりました。しかし——」
言い淀む副島に対して、梶谷はもう一度煙草を咥えると、続きを促すように黙ったまま眉を上げた。
「あの惨状を作り上げた鬼のような人間を、私達だけで捕まえるんですか?」
「ああ。警察よりも、法よりも先に犯人を捕まえて依頼人へと引き渡す。そこまでがこの“梶谷診療所”の仕事だ」
二人の間に暫しの沈黙が訪れる。この時梶谷は静寂の中で内心かなり安堵していた。先程の副島の質問、梶谷が想定していた中では好都合な方だったのである。もし主人の醜聞隠しについて倫理的につつかれていたら、興奮した女を上手く言いくるめられる自信は彼にはなかった。頭が熱くなっている副島の意識に醜聞隠しと言う発想が浮かぶ前に押し切ってしまおう。梶谷はそう考え、静寂を破った。
「君も見た通りこの仕事は重大な犯罪を犯すこともあるし、凶悪な犯罪者を警察の庇護無しで捕まえなければならない時もある。それになんといっても仕事の結果が気持ちの良いものではない事の方が圧倒的に多い。それが君にとって堪え難いリスクなら、或いは倫理に反するのなら辞めてもらって構わないよ。勿論、退職金——実質は口止め料のようなものだけど、とにかくそれは出す。自分で言うのもなんだけど、大金だとは思う」
「やけに口数が多いですね」
梶谷はわざとらしく困ったような顔を見せる。
「正直、今日のは本当に想定外だったんだ。人殺しなんて滅多に起きることではないからね。本来合法な仕事を続けてもらって信頼関係を築いてから話すべき仕事の内容を初日に見せつけてしまった」
「それなら私を連れて行かなければ良かったのではないですか?」
「それは、私の中で君に説明する面倒より新規の仕事の面倒が勝ったというところだ。君は物分かりが良いからね」
突然饒舌になった梶谷に副島は呆れたような顔を見せた。
「まあ正直、破格のお賃金に加えて下宿までさせて頂けるなんて好条件、ある程度黒い仕事は覚悟していました」と言い「ここまでしっかりと犯罪だとは思いませんでしたが」と続けると笑顔になった。
梶谷は少しだけ不安そうな表情を見せ「やっぱり辞めるかい?」と言うと改めて副島の目を見る。
梶谷の言葉に、副島は少しの諦観が混じったような笑顔を浮かべた。
「いえ、直ぐにとはいかないでしょうけれど飲み込もうと思います。今辞めてしまったとして宿もお金も無いですし、何より“脅かされたくない”という点については、私も同意見ですから」
副島の答えを聞いた梶谷は満面の笑みを浮かべる。
「ああ良かった。それなら今一度、優秀な部下の就任祝いに夕食を食べに行こう。この辺りは初めてだろう?いい店知ってるんだ」
そう捲し立てると、今度は副島の返事を聞く前に外出の準備を始めるのだった。