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1.

 その乙女の屍体を一目見て梶谷が直感したのは、極めて強烈な欲の気配だった。そう表現すると酷い性的暴行の末に出来上がった屍体であるという誤解を与えてしまうかもしれないが、そうではない。


 見目麗しい齢十五の乙女の屍体は、端正な顔に恍惚を浮かべ、いずれ現れる発見者に自身の美しさを見せつけるが如くその素肌の一切を晒し、四肢を艶やかにくねらせ、背の高い洋風の食卓の上に血溜まりを広げながら仰向けに横たわっていた。それを取り囲む様にして、上品な黒い皿に置かれた臓器の数々が飾り付けられている。


 絵画の様に作為的な光景だった。血溜まりの上の食器と、更にその上で赤い光沢に潤む臓器たちは、何らかの文脈を匂わせながら景観を立体化させ、自然と乙女に視線が向くよう配置されている。乙女に訪れた死は元より色白だったであろう肌をより白く染め、真紅に差す純白は鮮明だった。


 梶谷はしかし、そのような光景に感情の動きを一つも見せる事なく、胸の内に殆ど確信めいた嫌な予感だけを抱えながら気怠げに溜息を一つ吐くと、屍体が横たわるテーブルの側にゆっくりと近づいていった。近づけば近づく程、乙女を飾る臓器が豚や牛のそれではない事が嫌でも理解される。


 大きく膨らんでいく嫌な予感と共に屍体の側へと辿り着いた梶谷は、鼻を突いた腐敗しかけの肉の臭いの為にフラッシュバックしそうになる戦場の記憶を、脳内から払いのけるように少し頭を振ってから鼻を鳴らした。


 彼は手に持っていた鞄から手袋を取り出して着用し、屍体の腹上に配置されていた両腕をそれぞれ身体の側方に下ろした。その際、腕には複数の噛み跡の存在が認められた。


 そうして、ようやく露わになった屍体の前面。まず梶谷の目を惹いたのは年相応に膨らみ始めた乙女の乳房——では無く、鳩尾辺りから蟠るように広がっている大きな縫合痕だった。胴体も腕と同様に、複数の歯形が這っている事が確認できる。


 梶谷はそれらを精気の無い眼で見据えて再び大きな溜息を吐くと、鞄から剪刀とピンセットを取り出し、素早い手つきで抜糸を始めるのだった。




 抜糸を終えて現れた裂け目の中に内臓の存在は確認出来なかった。膨らんでいた嫌な予感は結局、乙女を取り囲む臓器の数々は元々乙女の中にあったものらしいという最悪の現実に爆ぜた。梶谷は一言「面倒だな」と呟く。


 現実を受け入れてしまった後で梶谷が改めて屍体を観察すると、医師免許を持つ彼から見ても犯人の解剖の手腕はかなり高度なものであると予想された。噛み跡を残す様な真似をしている割には屍体や臓器の扱いの至る所から丁重さが感じられる。

 しかしその偏執的とさえ言える犯人の態度は、梶谷にはそのまま強烈な欲望の発露である様に、或いはルネサンスの芸術家が宗教画であると言い張って裸婦像を描いたのと同様の、強い欲望を覆い隠そうとする欺瞞である様に思えた。梶谷が一目見て感じた欲の気配はどうやら、この態度から漂っていたものらしい。


「このような猟奇殺人が記者の耳にひとたび入りでもすれば、忽ち世間の語り種です」


 眼前の光景に魅入ってしまっていた梶谷は、同伴していた主人が溢したぼやきで現実に引き戻された。驚きに突かれて咄嗟に振り向いた視界の先では、乙女の屍体を前にしてより一層やつれて見える主人が溜息を吐いていた。


「——権力者や金持ちへの世間の風当たりは年々強くなるばかりですからね。最近だとシーメンス事件ですか。アレは酷かった。まあ軍に身を置いていた人間としては複雑ですが」


 梶谷にとってはとりあえず場を持たせる為だけのほとんど意味のない言葉である。しかし主人は再度大きな溜息を吐くと苦虫を噛み潰したような顔で「デモクラシー、忌々しいですな」と言い捨てた。

 その後一層弱々しく「妻を亡くして、さらに娘まで亡くした男を、これ以上苛めて何になるというのでしょう」と嘆く様に言った。


「学生の頃、漢文の授業で幸災楽禍という言葉を習った事があります。平たく言えば他人の不幸が嬉しいと言う意味ですが——そういうモノは得てして娯楽なのでしょうね。まあ、私にも少なからず身に覚えがあります」


 梶谷は主人の悲嘆など全く意に介していないかのように無表情で涼しげである。

 しかし彼はその“デモクラシー”のお陰でかなり良い暮らしを享受している人間の一人、或いは代表とさえ言っても過言では無い境遇だった。現にこうやって、社会からの圧力を恐れた金持ちが梶谷に仕事を寄越している。


 主人はそんな事を思われているなどつゆ知らず、梶谷を信頼し切っている様子である。


 ——つくづく無表情とは便利な道具だ。これを顔に貼り付けておけば他者は状況に応じた好意的な思い込みをしてくれるのだから。

 梶谷は無表情を崩さず腹の中でそんな事を考えていた。


「——所で梶谷先生。現場を見て何か解りそうでしょうか?」


 無表情のまま黙り込んでいた梶谷を見て不安になったのだろう。主人は少々強引に話を切り出した。


 梶谷の表情に大きな変化は見られないようだったが「“先生”と呼ぶのはよして下さい。これからする事を考えれば、私に医者を名乗る資格はありません」と強い口調で主人の質問に答えた。

 そんな梶谷の態度に、主人は余計気まずそうな顔をして梶谷から目を逸らし「失敬」と短く言うだけである。梶谷はそのまま無表情で無遠慮に、主人の心情を無視して先程の質問に答える。


「何か解りそうか、でしたか。残念ながら現時点では全く解らないというのが正直な所です」


 梶谷が正気を取り戻したのは、主人の顔に諦観が翳った事に気付いてからだった。

 ——危ない。感情的になってみすみすカモを逃してしまう所だった。

 腹の中で敢えて露悪的に考える事で再び冷静さを取り戻した梶谷は、主人に希望を与えるべく“らしい”振る舞いを改めて心掛ける。


「ですのでこちらから幾つか、質問をしてもよろしいですか?」と打って変わって優しい口調で語りかけた。

 梶谷の言葉に主人の表情はわかりやすく晴れる。素直で忙しい、御し易い人だなと、梶谷はそう思った。


「ええ、勿論」


「——昨日までは間違いなく娘さんは生きていて、遺体は今朝発見されたとの事ですが、昨晩は一体何をされていたのですか?」


 梶谷は質問の最中、主人の目が少し泳いだのを見逃さなかった。間違いなく何かを隠しているが、しかしこの手の性格の殺人者が追い詰められた時のそれではない。梶谷は話が拗れる前に、主人に嫌疑を持っている訳ではないという事を伝えなければならなかった。


「まずは犯人が何処から侵入したのか、幾つかの候補に絞りたいのです。言いづらい事もあるかとは思いますが、この際ですから」


「ええ。ええ、そうですよね。昨晩は、その、愛人と——」


 口籠る主人が絞り出した答えは、梶谷にとって正直拍子抜けなものだった。妻を早くに亡くした資産家が後妻を娶るなどありふれた話であるし、別に亡くしていなくたって、ここまで広いダイニングのある洋館を建てられるレベルの資産家に妾の一人や二人居ても何らおかしくはない。


 まあ確かに本人としては、愛人に夢中になっている間に娘が猟奇殺人者の手にかけられていたというのは恥ずかしい話なのかもしれないけれど。


「ああ、成程」


 無表情のまま言い放った梶谷に主人は慌てて訂正を入れる。


「肉体関係があった訳ではありません。昨夜はその、酔っ払ってしまって」


 学生じゃあるまいし、そんな事をわざわざムキになって否定しなくたって良いじゃないか。そう思いつつ梶谷が主人を見ると、主人の意識は全く梶谷に向いてはいなかった。


 ——主人の視線から考えるに、どうやら彼は私に対してではなく娘に言って聞かせているらしい。しかし死人に口なしならば、恐らく耳もない筈で、そんな言い訳をした所で何か意味などあるのだろうか。いや、軍医崩れのチンケな冷笑主義を親しい人を亡くしたばかりの人にしたり顔で披露する事の方がよっぽど無意味だ。やめておこう。


 脳内でいろいろと考えながらなるべく気の利いた次の言葉を探していた梶谷は、後方、部屋の入り口辺りから突然響いたノックの音に反射的に視線を奪われた。


 少し遅れて主人が振り返る。彼らの目線の先では毛皮の襟がついた黒い鳶コートを身に纏い、黒いカンカン帽子を深く被って顔を隠している人物が、これまた黒い手袋をして、開いたままになっていたドアに裏拳を向けている。


 このハイカラな人物は、助手の使い方に慣れていない梶谷が持て余した結果、主人を現場に拘束している間に何か隠し事のひとつでもしていないか探しておくようとりあえず命じてあった助手の副島である。


 梶谷は副島の姿を認めると、自分で遠ざけていたにもかかわらず助かったと言わんばかりに笑顔で手を挙げた。


「おお、副島君。遅かったじゃないか」


 主人には新しく雇った助手が“諸用”で遅れて来る旨を予め伝えてあった。故に口ではそう言った梶谷だったが、事前の打ち合わせからすれば用が済むには早過ぎるくらいであった。

 梶谷は正直期待してはいなかったが、この早過ぎる登場は副島が何か決定的な隠し事を見つけた事を物語っている可能性が高い。


「助手の方でしたか。どうぞお入り下さい。しかし、お二人とも随分ハイカラな格好ですな」


 主人の入室を促す声を聞いた副島は黙ったまま部屋に入るとまず部屋を見渡し、次に屍体を一瞥して主人に向き直り頭を下げた。


 主人は反射的に頭を下げたが、黙ったままの副島に少し困惑しているようである。それを見て梶谷はわざとらしい笑顔で二人の間に割って入った。


「失礼。“彼”はハイカラで、そしてとても優秀な奴なのですが、昔火事で喉を焼いてしまって声が出ないのです。なので私から紹介を。助手の副島です」


「それは、こちらこそ知らないとは言え大変失礼致しました。苦労したでしょうなあ」


 主人は心底恥いるような表情を浮かべ、副島に再度より深く頭を下げた。主人の態度を見て梶谷は自身の完璧な助手の紹介に内心ほくそ笑む。仕事柄、精神的な貸しは作れば作る程得だ。


「それで副島君。“用事”はどうだった?」


 梶谷は満足げな顔でそう言うと副島に頭を傾けた。副島は梶谷の耳の前に手を被せて主人から隠すと、口を近づけ、声帯を用いない吐息のような声で囁く。


「寝室に阿片。常用の疑い」

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