自殺志願者のための令嬢転生 -嫌な前世記憶を聖女の力に変換します-
「ちょっと、佐々木さん。これ今日中にやっといてくれる?」
私に雑務を押し付けてくる上司の声が、ビルの打ち合わせ室に響いた。私が疲れた表情で見上げると、上司は鼻で笑って書類の山をバサッと机に落とす。周囲の同僚たちは見て見ぬふりを決め込み、目を合わせようとはしない。
「はい……わかりました」
小さく答え、私は追加の仕事に取りかかる。サービス残業を何度訴えても改善されないどころか「お前が効率悪いんだ」と怒鳴られる日々。そんな中、学生時代からの奨学金の返済が重荷となってのしかかり、婚活をする余裕もなく三十路を迎えていた。
(私は……なんのために生きているのだろう。朝起きて、会社に行って、罵声を浴びながら働いて、ただ眠るだけの日々……)
誰も私を必要としてくれない。両親は早くに他界して、頼る人もいない。自力で返せないほどの奨学金を抱え、恋愛する余裕も失って、何の希望も見えない。ただただ、あの長い通勤路すら苦痛に思えてくる。
(息をするだけで胸が重たくて、頭がぐらぐらして。もう限界なんじゃないかって、最近はふと窓から外を見下ろすたびに思うんだ。どこか遠いところへ消えてしまいたい……)
夜、ようやく山積みの書類を終わらせたが、疲労で足を引きずりながら会社を出る。気づけば、私はビルの屋上へと向かっていた。吹き付ける風が、心底冷たい。
「もし、これで全部終わるなら……」
そう呟いた瞬間、涙が一粒こぼれる。人生が嫌になって飛び降りるなんて、自分でも馬鹿げていると思う。けれど、もう心も体も限界だった。
そして意を決し、足を踏み出した。落下する景色は、あっという間に闇に吞まれ──そこまでが私の記憶だった。
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「お嬢様、お目覚めになられましたか?」
やわらかな寝台で目を開けると、そこには美しいメイド服をまとった少女が立っていた。私の顔をのぞき込みながら心配そうにしている。あまりに現実離れした風景に、思わず言葉を失う。
「私……生きているの……?」
誰にも聞こえない小さな声で呟くと、メイドが笑顔を浮かべた。
「お嬢様、今日はいよいよ洗礼式でございます。ご支度を整えますね」
私は何が何だかわからないまま、促されるままに豪華なドレスを身にまとった。鏡に映るのは整った顔立ちの少女。以前の疲れ切った自分とは似ても似つかない。
(これは……私の知らない世界に転生してしまったのだろうか……?)
やがて辿り着いた教会は、天井が高く神聖な雰囲気に包まれていた。そこで行われるという“洗礼式”とやらは、どうやら貴族の子息が行う一種の儀式らしい。聖女を信仰するこの国では、とくに重要な行事だという。
「リリア、お前ももうこんなに大きくなって……誇らしいぞ」
そう言って笑うのは、目元が私と似た髪色の男性。どうやら私の父親らしい。隣には優しげに微笑む女性──私の母親がいる。
「リリア、僕たちはこの洗礼を無事に終わらせられれば、すぐに婚約するよ。楽しみだね」
穏やかな声で話しかけてきたのは、伯爵家の嫡男だという青年。容姿端麗で、おまけに優しそうな雰囲気をまとっているなんて、まるで絵に描いたような婚約者だ。
「え……婚約者……?」
戸惑う私に、彼は微笑みかけた。
「いや、まだ本決まりではないけどね。式が終わったら、ちゃんと正式にお話をしたいと思ってる」
そうして始まった洗礼式は、司祭が私の額に手を当て、何やら祈りを捧げる形で進行した。その途中──
「これは……! 聖女の資質が……!」
司祭の驚きの声が響く。教会内の人々がざわめく中、突然私の周囲に小さな光が舞い降りた。まるで祝福の花びらのように、きらきらと輝いている。それは私が“聖女”として認められた証なのだという。
「リリア、まさか……本物の聖女だなんて……」
婚約者が驚いた表情で私の手を握る。父と母も顔を見合わせて涙ぐんでいた。
興奮と喜びが渦巻く中、司祭が私の力を試すように促してくる。言われるがままに祈りの言葉を唱え、意識を集中すると、幼い頃から足を悪くしていたという従者の足が、ゆっくりと動き始めた。
「動く……! 私の足が……ありがとうございます、リリア様……!」
その瞬間、人々はさらに驚きの声を上げ、次々に私にひれ伏してくる。こうして私は、華やかな場で“聖女”として崇拝され始めたのだった。
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洗礼式から数日後。私――リリアとしての生活は、周囲の歓喜と尊敬に包まれていた。どこへ行っても「聖女様!」と手を振られ、知らない人にまで膝を折って拝まれる。初めのうちは困惑したものの、誰からも必要とされる感覚に、私は心地よさを覚えていた。
「リリア、本当に素晴らしい奇跡だった」
婚約者のアルフォンスは、あの日から私を見る目が明らかに変わった。以前も優しかったが、今では敬意さえ感じられる。
「お父様とお母様にもご挨拶しておきますね」
「リリア、余計な気を使わなくていいんだよ。どちらにせよ、僕の家は君との縁を心から望んでいるからね」
父と母も、私を心から誇らしく思っているらしい。食事の席でも、私にだけ贅沢な料理を出そうとするものだから、少し気まずい気もしたが、誰もが笑顔でいるのは悪い気がしない。
とはいえ、そんな幸せの中で、私はある違和感を抱き始めていた。かつて自分が抱えていた暗い記憶……つまり、前世で自殺を決意するまでに至ったトラウマの数々を、どうにも思い出せない部分があるのだ。
(あれだけ苦しめられた上司の顔も、奨学金返済の明細も、悲しみに染まった夜の匂いさえ、はっきり覚えていたはずなのに……何かが抜け落ちているような……)
正確にどの記憶が抜け落ちたのか、はっきりとは言えない。ただ、ポッカリ穴が空いているような違和感を確かに感じる。それを意識し始めたのは、洗礼式で奇跡を起こした後だ。
「リリア様、こちらにどうぞ。城で負傷した兵士たちがリリア様の力を待ち望んでいます」
一人の従者が私を呼びに来る。負傷兵が聖女の奇跡を求めているのだという。私は戸惑いながらも、皆の期待を裏切りたくない一心で頷いた。
「そ、そうね……私にできることなら」
城の大広間には、戦で負傷した兵士が何十人も横たわっていた。腕が動かない者、視力を失った者、足を失いかけている者。私は痛々しい光景に息をのむ。
「リリア様、どうか……」
兵士が絞り出すように私の名を呼ぶ。その声に胸が締めつけられる。こんなにも必死に誰かに望まれることなんて、前世ではなかった。私は決意を込めて手をかざす。
「皆、良くなって……私が、そう願うから……!」
祈りの言葉を重ねると、淡い光が兵士たちを包み込んだ。すると、次々に苦しそうな顔が和らぎ、血や痛みが引いていくのがわかる。立ち上がれるようになった兵士は何度も私に頭を下げ、涙を流しながら感謝を伝えてくる。
「ありがとう……本当に、ありがとう……!」
その場にいた人々が、一斉にひれ伏した。自分の力がこんなにも人を救えるのだと思うと、不思議な喜びと共に、また一つ、前世の胸を締めつけた苦痛の記憶がふっと遠ざかっていくような感覚に襲われた。
「アルフォンス……私、今、人を救えたのよね……」
「うん。リリアはすごいよ。僕たちの国の救いなんだ」
アルフォンスが満面の笑みで私の肩を抱き寄せる。父と母、そして周囲の人々も歓喜に包まれる中、私の胸中にはある種の解放感が広がっていた。前世では決して感じられなかった、他者からの肯定感。自分の存在を認めてもらえているという実感が、私を優しく包んでくれる。
だが同時に、思い出せない記憶の欠片が増えているようにも感じる。まるで奇跡の代償として、トラウマが少しずつ摩耗していくみたいに。
「リリア、お疲れだろう? 今日はもう部屋で休んだらどうだい?」
父が優しく声をかけてくる。私は小さく頷き、寝室へと戻る。柔らかなベッドに身体を投げ出しながら、疲れた頭で考える。
(もしかすると、私の聖女としての力は、前世のトラウマを代償にしているのだろうか……? だから、その分だけ私の心の苦しみが薄れて、記憶が曖昧になっていくんじゃないだろうか。でも、正直、嬉しい。あんな思い出、いっそ全部消えてもいい……)
ほんの少しだけ怖さもある。でも、今はこの幸せが大きかった。私は目を閉じ、快適で幸福な眠りに落ちた。そう、前世の苦しみなんて忘れてしまってもいいと、心のどこかで願いながら。
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「リリア、また奇跡を見せてくれないか」
あれからというもの、私の元にはさまざまな依頼が寄せられるようになった。貧困に苦しむ街の人々を救済する、難病を治す、砂漠化し始めた土地を潤す。私は“聖女”として、それらを実行するごとに周囲の崇拝を集めていた。
「リリア様……この子の病気を、どうかお治しください」
今日もまた、親を亡くした孤児が重い病にかかっているという話を聞き、私は足を運ぶ。痩せこけた小さな子どもが、青ざめた顔で横になっていた。
「うん、任せて。私がきっと治してあげる」
そう言い、私は子どもの額に手を置き、深く祈りを捧げた。すると光が生まれ、やがてその子の顔に血色が戻る。子どもは薄く目を開け、私を見て弱々しく笑った。
「ありがとう……せ、聖女様……」
「大丈夫。もう安心していいのよ」
周囲は歓喜に沸き、私はまた一度、崇拝の声を浴びる。けれどその瞬間、頭の中をかすめたのは、急に抜けていくような感覚だった。何か大切な記憶が、さらに一つ消えていく──そんな予感がした。
部屋へ戻る道すがら、アルフォンスと会話をする。
「リリア、最近少し顔色が優れないようだけど……無理はしていないかい?」
「ええ、大丈夫よ。ただ、奇跡を起こすたびに少し疲れるだけ」
「それならいいんだけど……疲れが限界を超えてからでは遅いからね。僕も手伝えることがあれば言ってくれ」
アルフォンスが心配そうに言葉をかけてくれる。私は微笑んで頷いたが、内心では不安が募っていた。もし全てのトラウマが消えてしまったら、私の前世はどうなるのだろう。
そんなある日、私は大きな壁にぶつかることになる。これまでに残っていた前世のトラウマを使い果たしたのか、思うように奇跡の力が出なくなってしまったのだ。
「リリア様、こちらの人々が食糧難で……」
従者の報告を受けて現場に向かったが、祈りを捧げても、これまでのような奇跡の光が起こらない。周囲の視線が痛いほどに刺さってきて、私は内心で焦る。
「どうして……どうして何も起こらないの……? いつもなら、すぐに作物が実ってくれたのに……」
「リリア、大丈夫かい……?」
戸惑う私を見かねて、アルフォンスが駆け寄る。私は思わず首を横に振った。
「わからないの……私、今までできていたことが、急にできなくなった……」
その夜、一人で寝室にこもった私はひたすら考えた。どうして奇跡が起こせなくなったのか。その理由は、もしかすると自分が理解している以上に単純なことなのかもしれない。
(私はたぶん、“前世で苦しんだ記憶”を代償として奇跡を起こしていた。でも、苦しみやトラウマをほとんど使い切ってしまったから、もう生み出せない……)
しかし、ふと思い出す。トラウマ以外の記憶──前世での楽しかったことや、ほんの些細な思い出も存在するはずだ。そこにも私の“前世”というエネルギーが詰まっているのではないか。もし、それを使うことができたら……?
「もしかして、トラウマじゃなくて、ただの記憶でも代償になるのかしら……?」
私は意を決して、翌日、試してみることにした。幸い、小さな奇跡を起こす場面があった。病院で手当て中の子どもに、少しでも体力を取り戻すための回復魔法をかけてみる。
「よし……やってみよう」
深く息を吸って祈るとき、今度は前世の「まだ若かった頃の楽しい授業風景」を思い出した。大学で少しだけ仲良くしていた友人の笑顔や、下宿先で新しいレシピを試したときの喜びなど。決してトラウマではない、けれど確かに私の前世の記憶……それを差し出すように意識してみたのだ。
すると、ぼんやりと淡い光が生まれ、子どもの苦しそうな表情が和らいでいく。奇跡の力が……発動した。
「リリア様、ありがとうございます! やっぱり聖女様は私たちの希望です……!」
周囲の人々が口々に感謝を叫ぶ中、私は胸にこみ上げる複雑な思いを噛みしめていた。確かに奇跡は起こせる。けれど、その代わりに私は、あの授業風景や、友人の表情を少しずつ思い出せなくなっていくのを感じた。
「やはり……トラウマじゃなくても、記憶ならば何でも力になるのね」
そう呟いたとき、冷や汗が背中を伝って落ちる。このままでは、前世の私はいずれ完全に消えてしまうのではないか……そんな恐怖がよぎった。
――――――――――――――――――
「リリア、最近調子はどうだい? なんだか元気がないように見えるよ」
アルフォンスが心配そうに私の顔を覗き込んでくる。私は笑顔をつくり、首を横に振った。
「大丈夫よ。ちょっと考え事をしていただけ」
「考え事……? もし話したくなったら、いつでも聞くからね」
そう言われると、少し心が軽くなる。けれど、私が抱えている“本当の問題”は、この世界の誰にも分かってもらえないかもしれない。
(私は“前世”の記憶を使って奇跡を起こすことができる。だけど、そのたびに自分のアイデンティティが薄れていく。最初はトラウマが消えても構わないと思った。でも、楽しかった思い出も、些細な記憶も失ってしまうのは、私自身が消えてしまうという事じゃないだろうか……? なんだか怖い……)
無性に寂しくなった私は、自室の大きな鏡の前に立った。そこに映るのは、美しい金髪と白い肌の令嬢リリア。もう、前世の自分とはまるで別人だ。それでも、私の心には確かに前世の私も存在していた。苦しかったことだけじゃない。少しの幸福も確かにあったからこそ、あの世界で一生懸命に生きてきたのに──。
「リリア、入るよ」
ドアをノックして入ってきたアルフォンスが、私を心配そうに見つめる。部屋に差し込む夕陽の中、私は決心したように口を開いた。
「アルフォンス……私、あなたに話しておきたいことがあるの」
「もちろん。何でも聞くよ」
「ええ……もしかしたら理解できないかもしれないし、私自身もどうすればいいのか答えは出せない。でも聞いてほしいの」
そう言って、私は自分が“前世”という記憶を持ったまま転生してきたこと、そしてその記憶を代償に奇跡を起こしていることを、可能な限り包み隠さず話した。本当は口外してはいけないのかもしれない。けれど、誰にも言えず一人で抱えるには、あまりにも大きな問題だった。
聞き終わると、アルフォンスはしばらく黙ったまま、深く呼吸をして、それから静かに言葉を紡ぐ。
「……リリア、驚いた。でも、だからといって君を否定する理由にはならない。君は確かに、この世界で命を持って生きているんだから」
「ありがとう……でも、もし私が前世の記憶を全部失ってしまったら? もし、それでしか奇跡を起こせないとしたら……」
私は問いかけながら、ふと目を伏せる。思い浮かぶのは、今までに救ってきた人たちの笑顔。誰かを救うことは嬉しい。だけど、そのために自分が前世の記憶をすべて失ってしまうことは、まるで“自分という存在”を否定することではないだろうか。
「前世の自分がいたから、今の私がいる。それを捨てるなんて、私は……」
アルフォンスは私の手をそっと握りしめ、真摯な眼差しを向けた。
「どんな道を選ぶにしても、最後に決めるのはリリアだよ。前世の記憶が大切なら、それを守る方法を考えればいい。奇跡が必要なら、誰かと力を合わせる方法だってあるかもしれない。君が一人で抱え込まなくていいんだ」
優しい声に、思わず胸が熱くなる。けれど答えは出ない。私は守りたい記憶を全部抱えて、奇跡で人を救うことができるのだろうか。それとも、奇跡のために記憶を手放すことが正解なのだろうか。
やがて沈黙が訪れる。アルフォンスは私の手を握ったまま、それ以上は何も言わない。たとえ聖女として崇拝されても、私にとって前世の記憶は自分の根っこだ。もしそれを捨てるなら、私はただの“聖女”になってしまうのだろうか。
周囲に求められ、崇拝される気持ちよさと引き換えに、前世のアイデンティティを失う怖さ。私はそのふたつの間で、答えの出ない迷いを抱え続ける。真紅の夕陽が窓辺を染める中、私は曖昧なままの迷いを胸に抱え、固く唇を噛んだ。
(私の人生はもう一度やり直せるんだろうか。前世を捨てれば、私は確かに聖女として輝ける。でも、本当にそれでいいの? 自殺しようと思うほど苦しんだ人生だったとしても、あの記憶は確かに私のものだったはず。それを自分から手放してしまったら、私は私でいられるの……?)
葛藤は終わらない。けれど、今はまだその答えを決められそうになかった。私はそっとアルフォンスの手を握り返し、その温もりを感じながら、ただ黙って夕暮れを見つめ続けるのだった。