4-25 花薫の姫神
この世の全ての災厄を意のままに操る霊力を持って生まれ、姫神として世界から隔絶された神殿で生きるシシ。人を傷つけるだけの生き方に絶望していたシシに、ある日シシを殺そうと侵入した青年ミホシが生贄として捧げられた。彼の目的を知るシシはミホシに申し出る。
「ミホシよ、わらわを殺してもかまわん。その代わり、わらわに一度だけ外の世界を見せてはくれんかの?」
「ムラテが、死んだ?」
中ツ神国を統べる国主大君オキマの妻、ムラテが息絶えたとの報はすぐにオキマに伝えられた。だがそれは数日間のお産にムラテの体が限界を迎えたのだと誰しもが思っていた。
「子は!? 子はどうなった!」
「ぶ、無事でございます。しかし――」
話を聞き終える前にオキマは広い神殿を走り、産屋に向かった。いくつもの部屋を抜ける間「穢れが移ります!」との叫びが聞こえたが、押しのけて走る。激しい胸の高鳴りは呷った酒のせいではない。ましてや死んだ妻への悲傷のせいでもない。オキマは抑えきれない興奮に目をギラギラさせながら産屋に向かっていた。
――姫神様は、ムラテ様の腹を破って産声を上げられました
とうとうだ。
とうとう『花薫ノ八尋』の救い主が産まれた。
オキマははやる気持ちを抑えられず、長い着物の裾を捲り上げ速度を上げた。
大小数百の集落を治める『中ツ神国』。
元は神の住まう地だった中ツ神国は、古来より周辺からの攻撃が絶えない国であった。しかしある時から花薫ノ八尋と呼ばれる地域に住まう一族が統治するようになった。一族の統治に抵抗があったのも最初だけ。すぐに人々は花薫一族を神と崇め、従うこととなる。
その理由こそ花薫の一族だけが持つ能力――殺生、疫病、天変地異……この世の全ての災厄を意のままに操る霊力である。
しかし霊力を強めるため一族内で婚姻を繰り返した一族は、その血の濃さゆえに自らを滅ぼしていった。残された正統な血筋の者はムラテとオキマのみ。だがオキマに霊力は無く、ムラテの霊力も年を経るごとに落ちていった。そのため最近は新たに生まれる子の先祖返りに賭けるほかなかったのだ。
「姫はどこだ!」
「国主様!?」
血の臭いが漂う産屋では、産婆たちが青い顔をしながらムラテの体を拭き清めていた。ムラテの腹はまるで獣に食い千切られたようにズタズタに裂けている。長い臓物までが飛び出し、血を失い真っ白な顔のムラテは目を見開いたまま事切れていた。普通なら目を背けたくなるような無残な光景だ。しかしオキマにこみ上げたのは全身の血が沸き立つような興奮――。
ムラテはまだ十五やそこらの幼い妻だった。子を宿し、力を子に受け継がせるだけのために孕んだ妻は無事にその役目を果たしたようだ。
「ひ、姫神様はこちらに」
「よこせ!」
むせ返るような血の臭いの中、真っ白な産着に身を包んだ赤子が産婆に抱かれて現れる。震える産婆の手から奪い取るように赤子を受け取ったオキマは、まるで脳髄に直接雷撃を受けたような衝撃に包まれた。
白い。
髪も肌も全て真っ白の赤子が穏やかな顔で眠っている。
「目は……っ」
オキマは赤子の薄い瞼を乱暴に持ち上げた。
「国主様! まだ産まれて間もない赤子でございます!」
悲鳴のような産婆の声など、それを見てしまえばもう耳には届かなかった。無理矢理持ち上げた赤子の瞼の下に現れたのは――
「紅……」
深紅の瞳。
オキマやムラテ、その他の集落の誰とも似ない唯一の色だ。そしてそれはこの中ツ神国に存在するすべての災厄を宿す、ただ一つの証。
「ふふ……、ふふふふ、っはははは……! ついにやったぞ!」
全身を震わせて笑い出したオキマに産婆の怯えた視線が向けられる。普段ならたとえ産婆であろうがこんな無礼者は殺してしまうのだが、今この瞬間のオキマにはそんなの些細な事だった。
霊力の減少に周辺の集落が気づき始めていた近年、段々と指示に従わぬ集落が増えていた。しかしこれで再び誰しもが花薫一族にひれ伏すこととなる。
「この姫は我が一族の希望! 何よりも尊い『花薫の姫神』だ!」
その日、高らかなオキマの笑い声と、母の腹を破って産まれた赤子の泣き声が花薫ノ八尋に響き渡った。
・・・
姫神の誕生から十六年。
その間、花薫ノ八尋は大きく姿を変えた。
花薫ノ八尋を攻撃していた集落にある日、赤い雨が降った。その日を境に集落には疫病が蔓延し、集落はあっという間に全滅した。その雨の正体が『神の血』だったことがわかると周辺集落からの攻撃はぴたりと止んだ。再び花薫一族が神と崇められる日々がやってきたのだ。
そしてそれまで『神域』と称されていた一族の領地の中央に、オキマの命で大きな神殿が建てられた。何十もの垣根で囲われたそこに住まうのは、あの日生まれた姫神。そして姫神のいるこの神殿が新たな『神域』と呼ばれるようになった。
まだ木の匂いが新しい神殿の奥の奥。
日の光が差さぬ奥座敷から一人の男が「ひぃ……!」と悲鳴を上げながら、バタバタと飛び出して行った。
完全に足音が聞こえなくなると、御簾の中から呑気な声が響く。
「おやまあ。あいさつもなく行ってしまうとは、不躾な奴じゃのう」
「おひいさま、国主様からの使いをあまり怖がらせませんよう」
「そんなことしておらぬ。わらわは『お主もうまそうじゃの?』と聞いただけじゃ」
「それだけでじゅうぶんでございますよ」
緋袴を身に着けた老女によってシュルシュルと御簾が巻き上げられると、囲われていた空間に涼やかな空気が流れ込む。シシは手にした扇でぱたぱたと顔周りを仰いだ。全く色素を含まない真っ白な髪が、切り揃えられた肩口で風に揺れる。
ふう、と息をつくとシシは深紅の瞳をゆるりと下座に向けた。そこには筵の上に転がされた人の姿。ぼろぼろに破れているものの、衣類から見るに性別は男、まだ若い青年だろう。
「おい、聞こえるか」
呼びかけるも青年はぴくりとも動かない。シシはぱちんと扇を閉じると、一段高い神座から動かない足を引きずりズルリと這い降りた。筵に近づくほどにすえた臭いが鼻を突く。シシは鼻を袖で覆いながら横たわる青年を眺めた。
この青年は生贄として運ばれてきた――父オキマからの『災厄を起こせ』との命と共に。
青年の後ろ手に縛られた腕はあり得ないほど曲がっており、折れていることがはっきりとわかる。手の爪も全てはがれ、顔も形がわからぬほど腫れていた。背にも引き裂かれたようなむち打ちの跡。辛うじて上下する胸の動きに痛ましさが募る。ここまで拷問されたということは、きっとこの集落に忍び込んだ侵入者だ。
「これはまた、手ひどくやられたの」
「……くえ」
「ん?」
見れば血がこびりついた唇がわずかに動いていた。
「食うなら、食え……」
青年の口から掠れた声が漏れる。シシは紅い瞳をぱちぱちと瞬かせた。
「ほっほっほ! 面白い奴じゃの」
「……」
高らかな笑い声に青年が戸惑いの空気を纏った。
確かにシシは人を食う。
『花薫の姫神』と呼ばれるシシの霊力は人の血肉によって増幅する。幼く何もわからない頃は与えられるままに人を食い、望まれるままに霊力を用い災厄を振りまいていたものだ。しかし成長に伴いそれが人の道に外れる行為であること、そして自分が恐れられ憎まれていることにも気づいたがそれは後の祭り……。
「確かにわらわは人を食うぞ。しかしおぬしは食わん」
にぃっと細めた目元を青年が腫れた瞼の奥からうつろに見つめていた。
「おぬしの血はわらわ好みではないでの。そこに何を仕込んでおるのやら、臭ぅてたまらんわ」
「……っ!」
シシが扇で青年の胸元を差すと、服のはだけた胸元がピクリと震えた。
花薫の土地に忍び込む者は少なくない。その誰もが狙うは姫神の命だ。きっとこの青年も命を取るべく何かを体内に仕込み、ここに忍び込んだのだろう。正直な青年の反応に、シシは紅い瞳をきゅぅっと細めた。
「ほっほっほ! だからヒトとは面白いのう。ばあや、こやつを奥に」
「かしこまりました」
ばあやと呼ばれた老女は、ずるずると筵ごと青年を引きずって行った。
座敷に残されたシシは再び這って神座へと戻る。この足も、人とは全く違う髪や目の色も、母の腹を破って産まれたことも、人を食らって強くなる霊力も……全てがヒトとは違う。この中ツ神国唯一の神の証らしい。
ごろりと寝転がると白い髪が畳にばさりと広がった。
「ほんに、ヒトは面白い。わらわとは大違いじゃ。羨ましいのう」
日の光の差さぬ神殿の奥の奥。母を殺して生まれた神は静かに目を閉じた。
・・・
ずるずると頭の上を何かが這いまわる気配にミホシは目を覚ました。
花薫ノ八尋に侵入し、捕えられてから何日も続いた拷問でミホシの心身は限界だった。久しぶりにぐっすりと眠れたのだろう。幾分頭がすっきりしたが、まだ体は重い。
しかしミホシは飛び起きずにはいられなかった。あんなに汚れていた身なりは浄められ、血糊で固まった髪もきれいに櫛削られているのだから。それだけではない。砕けた骨も鞭で打たれた傷も、剥がされた爪も、すべて元通りになっている。どう考えても人間の力ではあり得ない。だがそれ以上に青年の胸をざわつかせたものがある。
「呪詛玉が、消えた……」
胸に埋めていた玉がない。
人食いの姫神は心の臓を好むからと、胸を開かれ埋め込まれた、呪詛を封じ込めた玉の気配がすっかり消えていたのだ。
思わず胸に手を当てた瞬間、遠くで「ほっほっほ」と少女の高笑いが聞こえたような気がした。