4-23 初恋と受験、どっちが大事なの?
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「ごめん下地くん、今ちょっといいかな?」
あれは昼休みのことだった。急に声をかけてきた誰か。声からして女子。読んでいた教育関係の本から視線を移してその顔を見上げる。
誰だろう、俺になんの用事が、と考えて、クラスの――いや、学年の中心にいるあの人だと認識したあと。
なんだなんだとこっちを興味深そうに見るクラスメイトへ何か言うよりも、先に。口をついて出ていた。
「天原さん? なんで?」
最悪の反応だな、と気づいたときには遅かったけど。ただクラスメイトというだけでなんの接点もなかった俺と天原さんに、そのとき本当の意味でかかわりができたのは事実なんだ。
「これ、下地くんの消しゴム?名前書いてあるからきっとそうだよね」
「……あ、本当だ。いつの間に失くしてたんだろう。ありがとう、天原さん」
天原さんの用事は、すごくありがたくはあったけど本当にちょっとしたことだった。
精いっぱいの明るい声でお礼を言う。差し出された消しゴムを受け取る。それだけで終わって、広がりはしないこと。
……だったはずなんだけど。
「よかったぁ……! 下地くんのお役に立てたならとーってもうれしいです!」
シュッとした顔をくしゃくしゃに崩し、親友の志望校合格でも祝うくらいの勢いでうれしがってくれる天原さんを見たら、反応せずにはいられなかった。
「いや、ありがたいけど……そんなに?」
天原さんにここまで感謝されるようなことを、過去の俺がしていた? いや、特に覚えはない。いつの間にか好かれていたんだ、なんて思い上がりはもっとない。この人を疑っているとかじゃなくて、とにかく困惑。それだけだった。
けれど天原さんは、俺の困惑をあっさりと吹き飛ばしたんだ。
「そんなにだよ。私ね、自分がしたことでお客様が――じゃなかった、誰かが喜んでくれるのが何よりうれしい。私にできることなら、したいことなら、なんでもしてあげたい。そういう人間なんだ。奉仕の心……って、自分で言ったらだめだけど」
彼女は、本当に自然体な感じでそう言ってから。
「ふふっ、お客様って言っちゃった。家庭の味が出すぎだよねー」
ぺろっと舌を出してつけ加えた。
あのときの俺が天原さんについて知っていた、数少ない情報のひとつ。それは、実家が温泉街にある有名旅館で、彼女はいずれ女将として家を継ぐ決まりらしいということ。
腑に落ちた。きっと天原さんは、家庭でしっかりと教えを受けたり、環境から自然に吸収したりして育って。おもてなしの心を学んで。その心で、分け隔てなく周りに尽くしている。喜ぶ顔が見たくて行動している。シンプルにそういうことだったんだと。
拾った消しゴムをわざわざ俺の席まで直接届けに行くことも。
お礼をされれば跳び跳ねるように喜ぶことも。
彼女にとっては全部、当たり前のことなんだ。
――だから当然、俺は天原さんの特別なんかじゃない。それが分かっても、分かったからなのか、俺は。
「家庭の味、出てていいんだよ。改めてありがとう、天原さん」
気がついたら立ち上がり、頭を軽く下げて一礼していた。
下げた頭を戻してその顔を見上げる。天原さんのとろんと垂れた大きな目が、俺の目よりも高いところにある。
――小さい頃から、他人を見上げてばかりの毎日だった。
『チビ』と『猫背』、ふたつが合わさったらもうどうにもならない。同級生も先輩も、児童館で会う他校の子も、だいたいは俺を『ちっちゃい子』か、逆に『小さいお年寄り』へ押し込める。まるで関係ないのに、時には『片親』までくっつけて。
からかう対象だし、悪い意味でマスコット。赤ちゃん言葉で話しかけられるのはしょっちゅうだった。
今振り返っても、そういう扱いをしてきた同級生とかには腹が立つけど。それ以上に腹が立つのは、自分自身だ。最初はいやで仕方なかったはずのいじりやからかいにいつの間にか慣れ、自分はそういう役割の人間なんだとごまかして、へらへら笑っていた自分自身だ。
だからもう、そうやってすり減りながら受け流すのはいやなのに。160cmにも足りない俺のことを、恥に思いたくはないのに。
ずきり。思わず天原さんを見上げる格好になった俺の奥底で沸き上がる悲鳴を、顔に出したくはなくて――
そのとき。
真剣な目と、心配そうな顔で。天原さんはゆっくりひざを曲げて、目線の高さを俺に合わせた。彼女は何も言わなかったけど、明らかにそれは配慮だった。もしかして、この人は。
「……ありがとう。そうしてくれるってことは、知ってるのか、俺のこと」
「……うん。すっごくからかわれてたって。『お客様一人ひとりに幸せな時間だと思ってもらえるおもてなしをするには、それぞれのお客様の好みやあり方を深く知ること。それから、知った上で、その情報を丁寧すぎるくらい丁寧に扱うことが大事です』って、女将――いや、お母さんから数えきれないくらい言われてるもん。だからね」
今ので下地くんを傷つけていたら、本当にごめんなさい。そこをきちんと謝ることまで含めて、私なりの奉仕です。
――そこまで、言うのか。
「天原さんのことが気になったのはいつですか?」と訊かれたら、俺はこの瞬間を――彼女のさりげない配慮と、覚悟を見たときのことを答えるんだと思う。
☆
あれをきっかけに、天原さんと話すようになった。といっても、校内で時々、ってくらいだけど。あの人はクラスの――学年の渦の真っ只中だから、他にも友だちは多いわけで。僕もかなり遠慮してしまったと思う。明らかに釣り合わないのだから。
それでも、少しずつお互いを知った。
彼女の家がどんなお宿か知った。もうすぐ創業100年らしい。
彼女の音楽の趣味を知った。爽やかなロックが好きらしい。
彼女の夢を知った。
「私ね、世界一たくさんの『ありがとう』を受け取れる女将になりたいんだ」
はにかんで、けれど真剣に澄んだ目でそう言っていたのを、忘れたりはしない。
俺も、天原さんが教えてくれたのと同じだけ、自分のことを話した。中には、父さんにも話してこなかったことまで。たった数ヶ月でそこまでになった。
だから今この瞬間、彼女が俺に告げた、新たな一歩に――
「ねえ下地くん。こっ今度……いっしょに、お出かけしない?」
「こめん、今は無理だ」
真っ向から歯向かった。
だって――今、高3の10月だ。昼休みの教室、前を見れば黒板に大きく日付が描かれている。俺は小さくそっちを指差した。
受験の日は刻一刻と近づいている。何なら先週も模試だった。そんな今、さすがに仕方ないよ……という気持ちで、天原さんの反応を待つ。気まずい顔になっているのが自分でもわかる。
彼女は――
「ええーっ……」
「こればっかりはちょっと、ごめん」
「卓郎くんの言いたいことはじゅーぶん分かるんだけどね。受験のこと。でも菜々佳さんのお誘いですよ?」
露骨に頬を膨らませ、これでもかと粘ってきた。
「それで言ったら天原さんのほうが受験近いと思うんだけど……」
来月とかだったような。来月?
「そうだけど、AO入試だから。もちろんそれはそれで大変なとこもあるけど、お勉強いっぱいしなきゃいけないのとはまた違うし。入試対策もがんばってるし。だから、卓郎くんさえよかったら……一日だけでいいので、あなたの時間をもらいたいです」
さっきまでのふわふわと軽い調子とは違う、真剣なお願い。
どうしてそこまで、と声が出そうになる。思いとどまる。
今言うべきなのは、きっと違うことだ。
「……俺でいいなら、受験前でも一回くらいは」
「やった!」
天原さんの高く弾んだ声。小さくガッツポーズまでして、本当にうれしそうだった。
「わたしね、卓郎くんと一緒にもっといろんなことしたいんだ。わたしもいろいろ楽しいことしたいし、卓郎くんにも楽しんでほしい。もっと言っちゃうとね、きみが心から楽しんだいるところが見たい。おせっかいかもしれないけど、私はそのお手伝いがしたい。卓郎くんはいつも、ちょっと遠慮しちゃうところあるから。自分なんか、って。」
だから無理言って誘っちゃったんだけど。
天原さんはそう言って、ふわりと笑った。
どこ行こうかなー! って、楽しそうだ。
……俺は、天原さんとのお出かけを一回で抑えられるんだろうか。